第7話
「すごい! すごい! すごい!」
アシャンは思わずキシュガナン語で叫んでいた。
浮き上がった呪毯はあっという間に人の背丈を越えて、宙に浮かんでいる。呪毯の端から地上を覗き込んだアシャンは、こちらを見上げるシアタカとウァンデに笑顔で手を振った。
彼女も、空を飛ぶ感覚は知っている。しかし、それはキシュの感覚を通して知っているものであり、あくまで、人とは異質なキシュから得た情報だ。一方で、今、呪毯に乗った時に感じた地上を離れる時の浮遊感。肌に触れる風の流れ。遠くに見える景色。そんな、自分の肉体を通して体験した新鮮さは、彼女の感情を大きく揺さぶった。
今や旅の一行の人数は、倍の数に増えてしまった。いくら呪毯が広いとはいえ、これだけの人数と駱駝を乗せることはできない。そのため、呪毯の上には、それを操るサリカ以外に、足を怪我しているエンティノ、好奇心旺盛なカナムーン、そしてキシュとアシャンが乗っていた。重い食料や水といった荷物は呪毯に載せて、身軽になった男たちは地上を歩くことにしている。
「楽しそうね、アシャン」
エンティノが苦笑しながら言った。彼女は、治療をした左足に負担がかからないように、荷物を背もたれにして両足を伸ばしている。
「勿論、こんなの初めてだからね。エンティノは楽しくないの?」
「私はもう嫌になるほど乗ったからね」
エンティノは、答えると微かに口の端を歪めた。
カナムーンが頭を小刻みに左右に振りながら、喉の奥で擦過音を発している。アシャンは、カナムーンから動揺にも似た感情を感じ取った。しかし、人とは異なる感情の形のために、それが本当はどんな感情なのか、確信は持てない。
「カナムーン、大丈夫?」
気遣ったアシャンに、カナムーンは喉を膨らませて答えた。
「ああ、大丈夫だ、アシャン」
「気に入ってもらえましたか?」
サリカが笑顔で振り返る。アシャンは大きく頷いた。
「これは、とても素晴らしい物だ。ウル・ヤークスの魔術師は、皆、こんな物を持っているのかね?」
カナムーンの問いに、サリカは頭を振る。
「いえ、この呪毯は特別製ですよ。普通の大きさの呪毯も、聖導教団の魔術師が皆、持っているというわけではありません。市井の魔術師にも呪毯を持っている者はいるでしょうが、多くはいないでしょうね。作ることも、操ることも難しい物なんです」
「それを聞いて安心した」
カナムーンは答える。
アシャンとしては、そもそも空を飛ぶ絨毯を作ることができるということに驚くしかない。キシュガナンには、こんな高度な魔術を操る者はいないだろう。ふと疑問に思い、カナムーンに聞く。
「鱗の民も、こんなすごい魔術は使えるの?」
「我々も、魔術は使える。しかし、ウル・ヤークスの魔術とは、随分と異なるものだ」
「魔術に違いってあるの?」
一族のまじない師しか知らないアシャンとしては、魔術とは不思議な力、あるいは恐ろしい
「魔術とは、世界をどう捉えるか、どう理解するか、ということだ。そのために、種族や教えによってその在り方、形は異なる。そして、我々とあなた達とでは、見えている世界が異なっている。当然、編み出した魔術も、異なるものとなる」
「見えている世界が違う?」
カナムーンの言葉の意味が良く分からなくて、アシャンは首を傾げた。
「言葉通りの意味だ。たとえば、この呪毯を見ても、我々とあなたたちでは、見えている色が違う。我々は、おそらくあなたたちよりも多くの色が見えている」
カナムーンは、自分の目を指差した。サリカは頷くと、地上を歩くラゴを見ながら口を開く。
「ああ、そうですね。たとえば、狗人の鼻はとても優れています。彼らは嗅ぎ取った匂いによって頭の中に像が浮かぶそうです。人とは違い、目と鼻がいわば一つとなって世界を見ているようですね。彼らは人の言葉が話せないので、その見えている景色は想像するしかありませんが……」
「同じだ!」
アシャンは、興奮して思わず叫んだ。
「キシュも同じ! キシュも匂いを形で見ているんだよ。だから、私も、匂いや味を形として感じることができるんだ」
「そういうことだ。そうやって普段見ている景色が違えば、生きていく中での考え方が違ってくることを想像できるのではないかね?」
カナムーンがアシャンに言う。
「うん、やっと意味が分かったよ」
アシャンは頷いた。同じキシュガナンとはいえ、ラハシはキシュと繋がっているために、普通の人間とは全く異なる世界を見ている。そのために、ラハシではない人々と話が通じないことが度々あった。幼い頃のアシャンにとっては自分の見ている世界が普通のものであり、皆が同じように見ていると思っていたのだ。父や他のラハシに教えられるにつれて、自分が人とは違う世界を見ていると徐々に理解はできた。しかし、優れたラハシであるアシャンは、それ故に他の人々と同じ世界に対応することに苦しんだものだ。
「古の時代に大地を支配した大いなる巨人族と、聖王国を築いた高貴なる人々も、我々とは世界の捉え方は違ったようです。私達、聖導教団は、彼らの遺産を読み解き、一つのものにしようと努力しているんです」
サリカが微笑む。
「それがこの呪毯ってわけ?」
エンティノが絨毯を軽く叩いた。
「ええ、そうです。私たちは、彼らの遺した文献や遺物を参考にして、私たちの力でも操ることのできる魔術を編み出しているんです」
「巨人王や高貴なる人々に感謝しないとね。お陰で私も砂漠の中で歩かなくてすんだ」
エンティノはそう言って肩をすくめた。アシャンは思わず笑う。
「我々は、巨人族や高貴なる人々という種族に出会うことはなかった。我々は、自分達とは異なる種族として、あなた達と出会った。我々は、あなたたちの種族を総称して、毛のない猿とよんでいる」
カナムーンが、一同を見回して言った。
「私たちが猿? 酷い言われようね」
エンティノが眉をしかめた。
「酷い? それは、侮辱したということかね?」
カナムーンは喉の奥を鳴らした。エンティノは小さく頷くとその顔を睨み付ける。
「そうよ。馬鹿にしてるの?」
「いや、馬鹿にはしていない。我々が蜥蜴や竜の近縁であるように、あなた達は明らかに猿の近縁種だろう。我々は立って歩く蜥蜴だ。同じように、あなた達は毛のない猿だ。どうして、それが侮辱になるのか分からない」
その言葉に意表を衝かれたように、エンティノは目を瞬かせた。何かを言おうとして、しかし、口を噤む。
「そう言われるとそうかもしれませんね」
サリカが笑った。アシャンも笑う。鱗の民に、自分が蜥蜴に近いと言われてしまえば、人が猿に近いと言われても反論できない。確かに、森に暮らす猿たちの仕草は、人によく似ている。
「我々の先祖は、毛のない猿と出会うまで、火を使うことはなかった。火の精霊は、破壊と死の象徴であり、恐れられていたからだ。今でも、火を使うことを禁忌としている一族がいるほどだ。その時代、先祖は、森の奥で、魚を採り、獣を狩り、竜を飼い、時に争い、歌い、瞑想し、星を見て、過ぎし刻を石にきざんでいた。それは、何十万年と続いた。そんな時代を、“まどろみの
「何十万年……。そんなはるか昔のことが記録されているのですか?」
サリカが驚きの表情を浮かべている。
「もはや我々にも解読できないものがほとんどだが、その痕跡は確かに残っている」
「何十万年も同じような暮らしをしてたって言うの? 鱗の民っていうのは随分と呑気だったのね」
エンティノが呆れたようにカナムーンを見やる。
「変える必要がないほど完成されていた生活の形だったのでしょう。鱗の民は、生き物として、強い。脅かすものがいなければ、変わる必要はないのでは? 一方の私たちは、まさしく毛のない猿です。火がなければ、寒さに震え、獣に怯え、飢えに苦しむことになる。私たちは、弱いからこそ、火に頼り、様々な技術を生み出す必要があった」
「なるほど。弱いからこそ、発展したということかね?」
「ええ。追い詰められた者は、死を免れようと知恵を働かせるものです」
「苦難が進歩のきっかけとなるということだね」
「ええ、そう思います。鱗の民にとって“まどろみの刻”は苦難がない、いわば、原初の楽園というべき地だったのですね」
「楽園であったかどうかは定かではないが、すくなくとも、我々の先祖はその生活を変える必要を感じていなかったようだ。サリカの言う通り、脅かす者がいなかったからだろうね。しかし、やがて、変わらなければならない刻がきた。まさしく、脅かす者が訪れたからだ」
カナムーンはサリカに答えると言葉を続けた。
「ある時、森の外から、毛のない猿たちが火を携えてやってきた。彼らは、とても強欲だった。そして、我々の領域に踏み込んできた彼らを追い出すために、争いが始まった。“目覚めの
「そして、今に至るのですね」
サリカは感動したように目をつむる。
「長い時を経て、鱗の民は
「そうだ。我々は眠りから覚め、学んだ。我々とは全く違う、毛のない猿と交わることで、新しい道を歩き始めたのだ。私も、その道を辿り、あなた達と出会った。そして今、大いなる智慧について話している」
「ああ……、見ている物の違う様々な種族たちが、それぞれの智慧を持ち寄れば、私たちはきっと、真理の泉の
「確かに、それは理想的な話だ。しかし、それを成すために血と鉄と火を用いるとすれば、叡智の多くは失われるだろう」
カナムーンの答えに、サリカは悲しげな表情を浮かべた。
「ねえ、結局、何十万年も昔から続いた壮大な話の結論は、仲良くしましょう、ってこと?」
エンティノが欠伸をした後、言った。
「そういうことだ。平穏な交流こそが発展を生むだろう。もちろん、血腥い交流も発展の道ではあるが、はるかに遠回りで、失う物も多い」
「だとしたら、しばらくは無理ね。戦はまだまだ続く。カラデアが抵抗を続ける限り、無駄な血は流れ続けるのよ」
「征服される者に、抵抗するなと言うのかね。彼らは生まれ故郷を守るために、血を流すだろう。そして、それはキシュガナンも同じだ」
カナムーンはエンティノに答えると、アシャンを見やる。アシャンは、つられてこちらを見たエンティノと目が合った。静かにその茶色の瞳を見つめる。エンティノは慌てたように顔を逸らした。
「ま、まあ……、戻った頃には終わってるかもね……」
エンティノから動揺や罪悪感を感じ取り、アシャンは笑みを浮かべる。
「だとしたら、エンティノの仕事もなくなってしまうね」
からかうようなアシャンの口調に、驚いた様子のエンティノは視線を戻す。そして、アシャンを見て口元に小さな笑みを浮かべた。
「そうかもね。そうなったら、私は紅旗衣の騎士を首になるだろうな」
「行く所がないなら、キセの塚に来たらいいよ。歓迎するよ」
「そんなこと言っていいの? 私はあんたの邪魔をするわよ」
エンティノの問いに、アシャンは首を傾げた。
「邪魔? 何を邪魔するの?」
「何を、って……、あんた達は似た者同士ね、全く」
エンティノは大きな溜息をつく。
アシャンはなぜ彼女が呆れているのか、本当に分からなかった。その様子を見て、エンティノが笑い始める。理由が分からないままのアシャンは、憮然とした表情を浮かべた。
「にぎやかだなぁ」
笑い声が聞こえる呪毯を見上げて、ハサラトが言った。
「良いことじゃないか。女たちの笑いが絶えない一族は栄えると、昔から言うからな」
ウァンデが笑う。
「なるほどな。まあ、嫁さんに頭が上がらない家のほうが、上手くいってる気はするな」
ハサラトも笑いながら言った。
「そうなのか?」
シアタカの問いにハサラトは頷いた。
「酒場の親父がそうじゃないか。女将さんが店を仕切ってただろう? 嫁さんを怒らせると怖いってよく言ってたぜ」
シアタカは、サラハラーンの馴染みの酒場を思い出し、思わず笑う。
「親父さん、そんな事を言ってたのか」
「ああ、お前たちも必ず嫁さんをもらえ。同じ経験をさせてやる、って言われたな」
「俺もいつも結婚しろと言われてたな。そういう意味だったのか」
二人は笑いあった。
「面白いことを言う人だな」
ウァンデも笑みを浮かべて言う。シアタカは頷いた。
「ああ、面白い人だ。ウァンデも会わせてやりたいよ」
サラハラーンの街では、市民にとって紅旗衣の騎士は畏怖の対象であり、近寄りがたい存在だった。しかし、馴染みの酒場の主人と女将は違った。シアタカやハサラト、エンティノを遠慮なく叱り、からかい、笑い飛ばす。誇り高い騎士はそんな彼らを敬遠し、店に寄り付くことはなかったが、シアタカたちは居心地がよく、よく通うようになったのだった。
「ウル・ヤークスの酒場か。遠いな……」
ウァンデは小さく首を振る。
「そうだな……。遠い」
シアタカは小さく溜息をつく。もう、自分はサラハラーンに戻ることはないだろう。あの温かな店の戸をくぐることはもうないのだ。
「大丈夫さ。全てが終われば行き来できるようになる。どういう結果になるかは分からんがな。それまで生き延びりゃあいい」
ハサラトが明るい声で言う。シアタカはハサラトに顔を向けた。
「いいか、大事なことは生き延びることだ。生きていれば、何かが待ってる。そいつを見届けてから、身の振り方を考えればいいんだ。糞みたいな結末しかないことを確かめてから、絶望しながら死んだって遅くはない」
シアタカを見つめるハサラトの表情が真剣なものになる。ゆっくりと右手を伸ばし、シアタカの肩をつかんだ。
「シアタカ……。お前の命は、自分で思っているよりも重いんだ。お前を大事に思ってる奴が何人もいる。そいつらの思いに応えるのがお前の義務だ。勝手に死ぬことは許さねえ」
肩をつかむその力は強い。それは、彼が言う命の重さを感じさせるものだった。
シアタカは返す言葉が思いつかず、ただ静かに頷いた。
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