第12話

 滑るように宙を飛ぶ呪毯の乗り心地は良い。


 サリカの言ったとおり、寝台の上で寝ているように安楽だった。


 駱駝や恐鳥のような乗り心地の悪い騎獣に慣れていたために、室内にいるかのような安定感は衝撃的ですらあった。川を行く船でさえ、もっと揺れるものだ。馬車や騾馬車を楽な乗り物だと思っていたが、この空飛ぶ絨毯の前では比べ物にならない。そして、この絨毯は揺れないだけではなく、傾くということもない。呪毯はどんなに険しい砂丘の斜面を昇るときでも、常に水平のままだった。


 日除けの天幕の下で、エンティノたち五人は、胡坐あぐらをかいたまま流れ行く景色を眺めている。ここだけ見てみれば、死の砂漠を旅しているとは思えないようなのどかな有様だった。


 とはいえ、灼熱の大地を進んでいることに変わりなく、白い日除けの外套に身を包んだ彼らは、長旅に備えてできるだけ水や食料を節約し、酷暑にじっと耐えている。しかし、行軍における肉体的疲労がほとんどないことは彼らにとって大きなことだった。


 この安楽さに慣れてしまうと、これまでの沙海での行軍の苦労が馬鹿馬鹿しく思えてしまう。これで、鞍の上で揺さぶられ、振り回されるような乗り心地の恐鳥を再び駆ることができるのか。そう不安に思うほどだった。


「魔術師様ってのは随分楽をしてるんだな」 


 ハサラトも同じ思いだったのだろう。皮肉の色に満ちた言葉とともに口の端を歪めた。


「皆が皆、呪毯に乗れるわけではありません。私だって、この機会があるまでは、驢馬から振り落とされないように必死だったんですよ」


 心外だ、という風にサリカは横目でハサラトを見やる。


「魔術師様は家畜が苦手なのか?」


 ハサラトが笑う。


「そうですね。今でも慣れません。正直言って、呪毯に乗れてほっとしています。これが駱駝に乗って旅立てと命じられていたら、絶望していたでしょうね」


 サリカも笑って答えた。


「使徒を使役するような魔術師も、驢馬が苦手なのか。面白いな」

「精霊や使徒は、驢馬とは全く違いますよ」 


 そう言って、サリカは肩をすくめる。


 サリカの右手は顔の前に上げられていた。


 彼女の手から垂らされた黒い石は、不可視の力に引っ張られるようにして、行き先を示す。呪毯は石が指し示す方向に向けて飛んでいた。黒い石が向く先にシアタカがいるのか。自分たちの命運を握るのがこの小さな石とサリカの魔術だけだと思うと不安だったが、他に何の手掛かりもない今、信じる他ない。


「失せもの探しの術と呪毯の操作を任せたままだけど、大丈夫なの?魔術を使うと疲れるんでしょう?」


 エンティノは黒い石を見つめるサリカの顔を覗き込んだ。戦呪を使った後の、疲労困憊して動けなくなっている魔術師たちを見ているだけに、不安に思えてくる。突然サリカが倒れてしまえば、自分たちは沙海の最奥部で何の案内もなく放り出されることになるだろう。エンティノたちは遊牧の民出身ではない。砂漠の中で生き抜く術は、最小限の知識として心得ているにすぎないのだ。


「ああ、心配していただいてありがとうございます。安心してください」


 サリカはエンティノに顔を向けると、微笑んだ。確かにその顔に疲労の色はない。


「呪毯は、一度魔力を通すと自動的に動くように術式を組んであります。だから、あまり疲れることはないんですよ。あなた達の身体に施された調律と同じですね。体の一部として操ることができるように術が組まれているんです。歩く時に、足に歩けと念じながら歩きませんよね?呪毯を操るのも、それに近い感覚なんですよ」

「無意識に勝手に進むってこと?」

「そうですね。勿論、走ったり、跳ねたりするように、意識して操作することもできます」

「そういえば、訓練の時、寝ながら行軍していたことがあるな。気が付いたら随分と歩いていて、驚いたことがある」


 ハサラトがおどけて言う。


「ああ、それと似ているかもしれません。魔術は、眠りと深い関係があります。夢は、魂の入り口なんですよ。普段意識していない、己の奥底にある魂の存在感じることが何よりも大切なんです」

「まるで僧侶のようなことを言うのね」

「その根源と、目指しているところは同じですからね」


 サリカは笑みを浮かべたまま頷く。


「勝手に進む。傾かない。良いことばかりだ。こいつがいくつもあれば兵站の常識が引っ繰り返るな」


 呪毯を軽く叩くハサラトに、サリカは小さく頭を振る。


「製作する手間と技術がとても複雑なので、多く作ることはできませんよ。そういう意味でも、この呪毯は特別なんです。これを貸し与えられたということは、この任務がいかに重要であるかということです」


 サリカは呪毯を撫でながら微笑んだ。


「それに、呪毯を操るには素質が必要です。自分の肉体ではない道具を、いかに自分の肉体の一部と認識することができるか。これが中々難しいんです」

「馬や恐鳥が自分と一体となったような感覚かな。それに、武器が自分の手足の一部と感じることもあるけど。自分の感覚が、刃の先まで届いているような、そんな風に感じることがあるんだ」


 エンティノは、戦場の極限状態を思い出しながら首を傾げた。


「それです。すごいですね。技が熟達した先にある境地は、魔術に通じるものがありますよ」


 サリカは、目を輝かせて大きく頷いた。


 そこから、サリカは語り始めた。見えるもの、見えないもの、全てが繋がって世界ができている。精霊が世界に及ぼす力。砂粒から星空まで、極小の世界と極大の世界の相似性。それを表現できる美しい数式や術式。世界の始まりとやがて来る、はるか未来の終末についての仮説。


 その話の大半を理解できたとは言い難いが、サリカという魔術師の見ている世界が、人の存在など取るに足らない、広大で恐ろしくも美しいものだということはよく伝わってきた。それは、戦場と騎士団という世界しか知らないエンティノにとっては、想像もできない概念だ。


「あなたは魔術についてとても楽しそうに話すのね」


 笑みを浮かべながら語るサリカを見て、エンティノもつられて微笑んでいた。


「それはもう、普通の人に魔術の話をする機会なんて滅多にありませんからね」

「紅旗衣の騎士を普通の人扱いするのかよ」


 ハサラトは苦笑する。


「言い方が良くなかったですね。魔術師ではない人に魔術の素晴らしさを話す機会がない、ということです。同僚たちは同じ道を志す仲間ですが、同時に競い合う敵でもありますからね。こういった話題になることは滅多にないのです。戦場以外では、いつも書庫か研究室にこもりきりですから」


 屈託のない笑顔を見ていると、魔術師にもこんな人間がいるのだと意外に思える。聖導教団の魔術師は、市井では得体の知れない者たちとして畏怖されている。エンティノの頭の中でも、魔術師は半ば精霊や魔物のような存在だった。しかし、嬉々として自論を語るサリカを見ていると、自分の中で曖昧ながらも勝手に作り上げ想像していた魔術師像を修正せざるを得ない。こんな学究の徒が戦場に居ていいのか。エンティノは違和感を覚えずにはいられなかった。 


 ここで火がついてしまったのか、この日は、サリカが延々と魔術について講義することになった。エンティノは、ほぼ理解できない彼女の話を辛抱強く聞いていたのだが、ハサラトとウィトは早々に眠りに落ちてしまったのだった。

 





 サリカの要請に応じて、彼らは日中に進み、夜間に休む。軍人である自分たちはともかく、サリカは辛いのではないかと考えたが、彼女はそれを否定した。呪毯を操るのはサリカなのだから、エンティノは頷くしかなかった。


 星空の下、呪毯は砂原に着地し、即席の野営地となった。


 従者であるウィトは、野営の準備で働く。


 とはいえ、寝床は絨毯の上に設置した天幕の中であるので、何かを設置するといった大仕事ではない。ささやかな夕食の準備をするだけだ。駱駝の糞を加工した携帯燃料を使い、火をおこす。サリカも魔術によって火をおこせるようだが、それは彼女の負担を増やすだけなので、燃料が尽きるまでは魔術に頼ることはない。鍋に薄く水を張ると火にかけた。


 皆が夕食を終えた後、ウィトは茶を用意する。


 砂糖を入れて煮出した茶を、各々の小さな杯に注ぐ。切り詰め、極限まで節約した食事の後の、ささやかな贅沢だ。


 皆が一息つきながら茶を味わっているのを見ながら、ウィトも杯を口に運ぶ。渋い旨みと強烈な甘さが舌を刺激した。


 エンティノはハサラトとサリカとともに今後について話し合っている。


 エンティノとハサラトは、シアタカと親しい人々だ。シアタカの従者になった時にも、ウィトに親切にしてくれた。騎士としての実力も確かで、人柄も信用できる。善き人のもとに、善き人は集う。母がよく言っていた言葉を思い出したものだった。お陰で、この任務でも、彼らを信頼して従うことができる。


 ウィトにとって、紅旗衣の騎士団は世界の全てだった。


 彼は、カッラハ族の有力部族の出身だ。しかし、母親は、族長の妾だった。


 強い力を持つ正妻の迫害によって、ウィトとその母親は部族の領域の外れの天幕で母子二人、数頭の山羊とともにひっそりと暮らしていた。


 やがて、族長は死に、部族は醜い後継者争いを始めた。その中で、ウィトの母親は殺され、ウィトは虜囚の身となった。結局、母親の元に、善き人は来ることはなかった。子供である自分から見て、とても優しく善良な人であったのに、彼女は報われることもなく短い生涯を終えた。そして、何の力も持たない子供は、辱められ、痛めつけられた。生まれを選ぶことも出来ず、何ら部族に関わっていなかったウィトだったが、後継者たちには憎悪と欲望の対象として見逃されることはなかったのだ。


 その乱は、赤き砂漠全体を巻き込んだ騒乱となり、ウル・ヤークス王国にとって看過できないものとなった。そして、最終的に紅旗衣の騎士団によって鎮圧されることになる。


 狭苦しい洞窟の中で鎖に繋がれたウィトを救い出してくれた人。それはシアタカだった。差し出されたその大きな手を、生涯忘れることはないだろう。まさしくそれは、暗黒の中に差し込んだ眩い光だったのだ。


 今度は、自分が手を差し伸べて、シアタカを救い出す時だ。


 ウィトは己の手を見つめた。


 あのアシャンという娘。大蟻を従えているような怪しい呪術によって、シアタカは惑わされてるに違いない。しかし、こちらには紅旗衣の騎士や聖導教団の魔術師までいるのだ。きっとシアタカの目も覚めだろう。  

 

 傍らに座るラゴが、小さく鳴き声をあげた。


 その声色に、ウィトは首を傾げる。 


 ラゴは、こちらを向いたウィトに指と手を動かして見せた。


「ああ、大丈夫だよ。心配ない」


 それはウィトの健康を心配する意味であったから、頷くと答える。


 それに対して、ラゴは激しく首を横に振った。その強い否定に、ウィトは戸惑う。


「大丈夫だって言ってるだろう?」


 ラゴは、自分の胸を指して、同じように指と手を動かす。狗人の符丁にない言葉を何とか捻り出そうとしているようだ。


「ああ、胸も痛くないよ。いたって元気だ」


 その答えにラゴは胸や頭を何度も示す。理解できずにウィトは首を傾げた。胸や頭だって痛みや異常はまったくない。


 己の意図が通じていないことを嘆いたのか、ラゴは哀愁を帯びた鳴き声を漏らした。ウィトも、ラゴの真意を理解したかったが、それは不可能なことだ。しかし、ラゴが自分を心配してくれていることは嬉しかった。まだ大して長くはない己の人生において、はじめて出来た仲間。口に出すことに躊躇いはあるが、これが友といえる存在なのだろうか。


 尊敬できる人々や、そして、種族は違うが友と思える人。得がたき存在に囲まれた紅旗衣の騎士という場所に必ずシアタカを連れ帰る。


 ウィトは決意を新たにしていた。






 五人を乗せて、呪毯は沙海を飛ぶ。


 見えている景色も代わり映えはしない。波打つ白い砂丘。砂の中から頭を出す巨岩や奇岩。何度もどこかで見たような風景にでくわして、本当に自分たちが先へ進んでいるのか、確信がもてなくなってくる。しかし、エンティノは、地平の向こうに微かに見えていた黒い線が、今や影のように存在感を増していることに気付いていた。あれは山々の稜線ではないのだろうか。そう推測する。もしその推測が当たっているのならば、あれは沙海の西にそびえる山脈、沙海の果てということになる。 


 何日も呪毯の上で過ごした一行の口数は少なく、無言で流れ行く景色を見ている。


 そんな中、サリカは呪毯の先端に座り、黒い石に神経を集中していた。


「あ……」


 黒い石を見つめていたサリカが声を上げた。


「どうしたの?」


 エンティノの問いに、サリカは彼女に顔を向けた。 


「近い……」

「近いって、もしかして」

「はい。シアタカが近くにいます」


 サリカの答えに、鼓動が高まる。それを沈めるように大きく息を吸うと、ハサラトを見た。ハサラトは、エンティノの視線を受けて小さく頷く。その面持ちは緊張からか強張って見えた。


 エンティノは再びサリカに顔を向けると、言う。 


「どれだけ進めば追いつくの?」

「もう、すぐに。このまま進めば、出くわすと思います」

「正確な位置は分かる?」

「はい」


 いよいよ、来るべき時がきた。ここまでの沙海の旅は、その変わらぬ景色のように茫洋として、日がたつほどに現実感が薄れていった。熱病のように酷暑にうなされて、このまま果てしなく砂漠を飛び続けるのかと錯覚するほどだったのだ。しかし、今、すぐ近くにシアタカがいる。エンティノの心は急激に現実に引き戻された。その現実は、痛みと血をともなったとびきり厳しい現実だ。


 自分はシアタカと戦うことができるのか。


 デソエでは、シアタカに一蹴された。しかし、今度はハサラトたちがいる。彼らとともにシアタカに挑む。


 シアタカも、大人しく従わないだろう。ヴァウラは自分たちに、シアタカを説得するように命じた。命令を出したヴァウラも、シアタカがそう簡単に説得に応じるとは思っていないだろうが、エンティノはそもそも話し合いに応じないだろうと思っていた。あの時のシアタカには何の迷いもなかった。シアタカは、まるで殉教者のごとく、あの少女を守ることを命を懸けた誓いとしていたのだ。


 シアタカを捕らえるために、自分たちは死力を尽くさなければならないだろう。無傷ではすまないはずだ。


「迂回して、先回りしよう。サリカ、少し離れた所に呪毯を下ろして」

「分かりました」


 サリカは頷く。


「シアタカたちの現状を確認しないといけない。ラゴ、シアタカの匂いは覚えてるわね?」


 エンティノの問いに、ラゴは激しく頷く。 


「シアタカが何人の連れといるのか。それで対応も変わる。まずはそれを確認しよう。その後で、待ち伏せしてシアタカを待つ」


 デソエで、シアタカはザドリとイェムタムを相手に戦った。戦いの跡から、二人を相手に激しく斬りあったことが分かっている。そして、その途中から、大蟻の民が戦いに加わった。イェムタムの遺体には足に奇妙な傷があり、槍と剣らしき武器でとどめを刺されていた。足の傷は、おそらく大蟻によってつけられたものだろうと推測された。蟻使いたちは、戦闘にも大蟻を使役することができるのだ。そして、蟻使いの戦士たちも、紅旗衣の騎士を相手取ることができる手練れのようだ。シアタカともにいる戦力として、決して見くびる事はできない。


「エンティノ、覚悟は出来てるのか?」


 ハサラトが、感情の消えた声で問う。


「うん。覚悟は出来てる。私は、シアタカと戦う」


 エンティノは、鋭い視線をハサラトに向けると、頷いた。


「奴は変わっちまった。もしかしたら、とんでもない化け物になってるかもしれない。俺はそんな気がする」


 ハサラトの言葉に、エンティノは微かに首を傾げる。


「怖いの?ハサラト」

「ああ……、俺はちょっとびびってる」


 ハサラトのその素直な答えに、エンティノは思わずその顔を見つめた。


「デソエで見たシアタカの動きは、俺の知ってるシアタカの動きじゃなかった。そして、ザドリとイェムタムを一人で相手取った。あいつらは蝿たかりの糞野郎だったが、腕は確かだった奴らだ。その二人を相手に生き残ったんだ。奴の腕は上がってる。もし、シアタカが自分のためにその腕を躊躇いなく振るうなら……。考えたくないが、そんなことを想像しちまったんだ」

「ああ……、そうね」


 ハサラトの言う通りだろう。今のシアタカは、自分たちの知るシアタカではない。こちらはシアタカを殺すことは出来ない。しかし、シアタカはこちらを殺すことができる。


 シアタカが自分たちを殺す。


 その想像はエンティノを戦慄させる。まさしくそれはとびきり過酷な現実だ。シアタカが自分たちに手加減をするはずがないのだ。今や、自分たちはシアタカにとって敵なのだから。どうか戻ってきて。涙を流し、跪いて情けを乞うのか?そして、そんなことを思った己の弱気を罵る。


「恐れは敵にあらず。恐れを友とせよ」


 エンティノは呟く。


「冷えた心を刃に乗せよ。猛る魂を腕に込めよ。その先に活路あり」


 ハサラトは、頷くとそう応じた。


 自分たちは生き残る。そして、シアタカを連れ帰る。


 エンティノは、唇を噛むと拳を強く握った。

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