第13話

 彼らは、白い大地を踏みしめながら西へ向かっていた。


 キエサたちカラデア軍と分かれたシアタカたちの一行は、キシュガナンの故郷を目指す。徒歩で沙海を渡る一行だったが、キエサから荷運び用に一頭駱駝を譲り受けている。長い旅に備えて大量の水と食料を積み、体力で劣るアシャンを時々その背に乗せていた。

 

 アシャンにとって駱駝というのは悪い印象しかなかったが、ここまでの旅路によって、親しみを覚えるようになった。犬や猫のような可愛げはなく、人を舐めているような動物だが、砂漠の只中では実に頼りがいがある。とはいえ、乗り心地の悪さには相変わらず慣れないのだが。


 彼らの歩む道は、沙海の交易に慣れたウァンデも知らない道だ。キセの一族はデソエへ行ったことがなく、そこへ至る環境や道の知識はない。最も経験が豊かなウァンデがそうなのだから、当然ながらアシャンやシアタカ、そしてカナムーンが知る筈はずもない。


 砂漠に何の知識や準備もなく挑めば、それは死への旅路でしかない。幸いなことに、カラデア軍のルェキア族が簡易的な地図を作ってくれた。これによって、点在する水場を知ることができて、乾き死ぬことはなかった。


 その一枚の地図と、時折現れる水場によって命を繋ぎながら、シアタカたちはキシュガナンの地へと淡々と歩みを進めていた。


「山が、近付いてきた……」


 シアタカが、彼方に見える黒い稜線を見て呟く。果てしなく続くと思われたこの白い砂原すなはらを歩く中で、行く手に幻のように見える黒い影はただ一つの道標だった。そしてその道標は歩むにつれて確実にその存在感を増している。それは、自分たちの歩みが無駄ではないという証だ。


「ああ、緑溢れる、故郷の山々だよ」


 傍らを歩くウァンデが頷いた。その口元には、微かに笑みが浮かんでいる。 


「早く水を浴びたいものだ」 


 カナムーンが喉を鳴らして言う。その音も独特の声も弱弱しく感じた。


「ああ、本当だね。お風呂に入りたいなぁ」


 アシャンが溜息をついた。カラデアでは水浴びをすることができたが、囚われの身になってからここまで、一度もその身を水で清めていない。辿り着いた水場で布を水に浸して体を拭くだけだ。早くキセの塚に帰って、乾ききって汚れたこの体をきれいにしたい。それが、アシャンの切実な願いだ。キセの塚には湯が湧き出る温泉がある。この灼熱の地を歩いてなお、湯に浸かりたいという欲求は沸いてくるのだった。


 砂丘の頂上から、斜面を下る。


 砂丘を下るとき、慎重に道を選ぶ必要がある。道を誤れば、砂は簡単に崩れ落ち、駱駝でさえも斜面を転げ落ちる羽目になるだろう。皆、過酷な長旅で疲労が蓄積している。こういう時に、足を踏み外して怪我をしてしまうことが多かった。旅立った当初はアシャンにとって砂丘は罠そのものだったが、ここまでの旅路が彼女を鍛えた。慎重に、しかしその足どりを滞らせることなく、砂丘を下っていく。


 砂丘に囲まれた盆地のような地形に下り立つ。ここから再び砂丘を登らなければならない。地の底に淀む暑気にアシャンは顔をしかめた。


 その時、キシュと共有する感覚が匂いを捉えた。傍らのキシュが歩みを止めると、顎を鳴らし、警告を放つ。


「みんな、待って!」


 アシャンの鋭い声に、一行は足を止める。


「何かいるのか?」


 ウァンデが大槍を持ち直すと周囲を見回した。キシュの警戒の様子を覚えているシアタカとカナムーンも、素早く反応すると鞘から刀剣を抜き放つ。


「この匂いは……」


 アシャンは、キシュが捉えた匂いの先を見上げる。


「この匂いは、……あの人だ」

「あの人?」

「あの、金色の髪のひと


 アシャンは、シアタカに顔を向けて言う。シアタカは、その言葉の意味を悟って愕然とした表情を浮かべた。


「エンティノだって?」


 見上げた砂丘の頂。そこに、二人の人影が姿を現した。あの時、デソエでシアタカの前に立ちはだかったエンティノという女性。もう一人の男も、デソエに到着した時にシアタカと親しげに話していたことを覚えていた。


「エンティノ……、それに、ハサラトだと……」


 シアタカが呻くように言う。もう一人のハサラトという男も、やはりシアタカと近しい人物のようだ。その声に観える感情。困惑、怒り、苦悩、悲しみ。はっきりとはしない渾然とした感情を感じ取って、アシャンは安心する。シアタカにとって、やはり彼らはいまだに特別な人達なのだ。決してこれまでのシアタカが消え去ったわけではない。そのことを今、確かめることができた。 


 陽光を浴びて、兜が鈍く光る。兜の下のエンティノとハサラトの顔は、複雑な紋様で彩られていた。風であおられた白い外套の下に、鎖甲がのぞく。二人は盾を持ち、エンティノは槍、ハサラトは長剣の紅い刃を見せ付けている。きらめく抜き身の刃を手にした二人は、そこに佇み、じっと一行を見下ろしていた。


「アシャン、キシュは他に何か感じているか?」


 シアタカが二人を見据えたまま聞く。


「あの砂丘から吹いてくる風には二人の匂いしか感じない。それに、この場所がちょうど吹き溜まりになっていて、広く匂いを感じることができないんだ」


 アシャンは頭を振った。この砂の壁に囲まれたような地形では、得ることのできる情報が限られてしまう。その不安から、キシュの警戒も大きなものとなっていた。


「二人だけで来るはずがない。どこかに伏兵がいるはずだ」


 シアタカの厳しい声にアシャンの不安はいや増す。思わず辺りを見回すが、ただ白い砂があるだけだ。あの砂丘の向こう側に、兵士たちが待ち構えているのだろうか。


「だが、こんな所まで大軍を送り込むことができるのかね? 大軍で我らを追ったなら、途中でダカホルが気付いたはずだ」


 そう言って大きく尾を揺らすカナムーンに、シアタカは頷いた。


「ああ。だから、二人がここにいるはずがないんだ。だけど、今目の前にいる二人は蜃気楼なんかじゃない。血と肉を備えた本物だ。だとしたら、あの二人をここまで連れて来た、何かがあるはずなんだ」

「俺は大軍が潜んでいるとは思えんな」


 ウァンデが、肩に担いだ大槍を一振りすると二人を睨み付けた。言葉を続ける。


「奴らは、わざわざこれ見よがしに俺たちの前に姿を現した。数で圧倒しているなら、あんな芝居じみたことはしない。問答無用で包囲しているはずだろう。ああやって立っていること自体、俺たちの目を引き付ける囮だ。数の不利を補うために、策を弄しているんだ」

「その意見に同意する」


 カナムーンが喉を膨らませる。


「だとしたら、尚更油断はできない。何をしてくるのか、読めないからな」


 シアタカは頷くと言った。


 二人はゆっくりと砂丘を降りてくる。そして、その瞳をはっきりと見ることができる距離で立ち止まった。


「エンティノ、それにハサラト。どうやってここまでやって来たんだ」


 シアタカが二人を見据えながら問う。その声は、アシャンには奇妙なまでに穏やかに聞こえる。


「そんなことはどうでもいい」


 エンティノは小さく頭を振ると、槍を砂丘に突き立てた。ハサラトも続いて長剣を突き立てる。


 白い指がシアタカを指した。


「シアタカ、聖女王の御名みなにおいて、悔い改めよ!! 栄光あるギェナ・ヴァン・ワ軍団長の名代として命ずる。蟻使いの娘を連れて、疾く軍団に復命せよ!」


 沙海を渡る風を切り裂いて、エンティノの朗々たる声が響く。


「俺は、もう戻らない」


 シアタカはエンティノを見詰めながら簡潔に答える。 


「ならば死ね」


 エンティノの告げた言葉も簡潔だった。


 盾の裏に右手を伸ばすと、投槍を手にしている。傍らのハサラトも同様に投槍を構えていた。二人は流れるような動きで投槍を放った。






 風を切って投槍が迫る。


 このままかわせばアシャンに当たる。


 咄嗟にそう判断したシアタカは大きく刀を払った。投槍は、打ち払われて宙を舞う。その槍は、穂先に青い布をはためかせた見たことのないものだった。


「アシャン、下がれ!」


 シアタカはアシャンに顔を向けると叫ぶ。強張った表情のアシャンが頷くのを見届けもせずに、ウァンデを振り返った。 


「ウァンデ、アシャンを守ってやってくれ! 必ず、何かが来る! 俺は奴らを相手にする。カナムーン、隣を頼めるか?」


 彼らは、シアタカを一番の脅威と見なしているはずだ。だとすれば、最も腕の立つ兵をぶつけて来るだろう。すなわち、それがエンティノとハサラトだ。そして、二人をシアタカに当てている間に、伏兵が何を仕掛けてくるのか分からない。その為にも、後背でアシャンを守る者が必要だ。


 カナムーンとウァンデ。シアタカはこの二人と命懸けで刃を交えた。それによって、二人の実力は良く分かっている。その上で冷徹に判断する。平素のエンティノとハサラトならばともかく、調律の力があらわれた二人を相手にすれば、ウァンデは勝てないだろう。一方のカナムーンは、調律の力があらわれた自分を相手にひけをとらなかった。むしろ、自分が押されているようにさえ感じたのだ。ならば、今はその力をたのむしかない。


 シアタカの声に、ウァンデは厳しい表情で頷く。


「勿論だ」


 カナムーンは喉を膨らませて答えると、幅広の剣を手にシアタカの傍らに立った。


「シ、シアタカ!」


 上擦ったアシャンの声に、シアタカは振り返った。苦しげな表情で、何かを言おうとしている。


「気をつけろ、アシャン。キシュの警戒の声に耳を傾けるんだ」


 彼女の言葉を聞くと、迷いが生じる。なぜかそんな予感がして、シアタカは遮るようにして強く言った。寸毫の差が生死を分けるであろうこの戦いでは、僅かな迷いが致命的な失敗につながる。その恐れが、アシャンの声に耳を貸さない判断となった。そして、カナムーンに顔を向けると頷いてみせる。


 二人は早足で砂丘を登る。


 その間にも、エンティノは、そしてハサラトは盾の裏から次の投槍を手にしていた。構え、投ずる。一つは後方のアシャンたちの方向へ、一つはシアタカに向かって飛んだ。


 シアタカはそれをかわそうとするが、砂に足を取られて姿勢が崩れた。 


 鋭い音とともに、カナムーンの尾が鞭のように振るわれ、投槍を打ち払う。


「すまん、助かった」


 シアタカがカナムーンを一瞥する。


 沙海の只中で何日も死闘を繰り広げた相手が、共に戦い、守ってくれる。それも、かつての友を相手に。まさしく、奇妙な成り行きだ。そんな感慨から、シアタカは思わず小さく息を吐いた。こんな感慨も迷いを生む。シアタカは歯噛みすると己を叱咤した。


 さらに、もう一投。この二人の投槍は、なぜかシアタカとカナムーンの頭上を越えて飛んでいった。


 なぜ接近する自分たちではなく、遠くに投げたのか。一瞬、疑問を覚えたが、それはすぐに眼前の脅威によってかき消された。


 エンティノが駆け出す。盾を前面に構えて、盾の上に槍を載せるようにしてシアタカに迫った。


 シアタカは咆哮した。黒い紋様が全身を覆い、調律の力が体から溢れ出す。それに応じるように、エンティノも叫んだ。


 獣のように跳びこむと、刀を盾に叩きつける。


 紅い刃は盾に激しく切り込み、その衝撃でエンティノの身体が揺らぐ。しかし、倒れることはない。踏みとどまったエンティノは、盾越しに槍を繰り出した。


 シアタカは飛び退いてその突きをかわした。その動きに付け込むようにエンティノはさらに踏み込んだ。再び、槍を突きこむ。


 迫る槍を切り払おうと、シアタカは小さな動きで刀を切り上げた。しかし、それは誘いだった。素早く槍は引き戻されると、逆に盾を前面に構えながら、エンティノはシアタカへぶつかって行く。


 シアタカは、旋風のように身を転じてかわすと、エンティノの左側面へ廻りこんだ。踏み込みの勢いを殺さずに、そのまま刀を払う。


 エンティノはその一撃に何とか反応した。身体をシアタカへ向けながら、首をすくめる。僅かに遅れて、盾を上げた。


 激しい音ともに、盾の上部が削り取られ、切っ先が浅く兜を傷付けた。


 エンティノは仰け反りながら、盾の下側から槍の石突を突き出す。


 シアタカは足を上げてそれをかわすと、引き戻されるよりも早く踏みおろした。槍の柄はシアタカの足に踏みつけられて砂に深く沈む。


 一瞬の遅滞。


 シアタカは、それを見逃すことなくそのまま槍に体重をかけながら、飛び掛るように身を乗り出した。伸ばした左手で盾を掴む。引き摺り下ろすように力をかけながら、刀を突き出す。


「うああっ!」


 半ば悲鳴のような雄叫びを上げながら、エンティノは大きく後ろに飛び退いた。盾を放りながら、強引に槍を引き抜いたのだ。力無く地に倒れ付す盾を、シアタカは踏みつける。


「大丈夫かエンティノ!!」


 叫んだハサラトは、カナムーンと激しく切りあっている。重く、強いカナムーンの斬撃は、調律の力によって増したハサラトの膂力と拮抗していた。カナムーンの幅広の剣は、ハサラトの盾と長剣とぶつかり合い、むしろその勢いはハサラトを後退させている。


「私のことは気にしないで! 余計なことを考えると死ぬよ!」


 エンティノはハサラトを一瞥して叫び返した。そして、すぐさまシアタカを睨みながら槍を構える。その額から、血が一筋、頬へと垂れ落ちた。


「くそ、腹が立つ。本当に腕が上がってるじゃない」


 唸るように言うと、大きく息を吐いた。荒い呼吸を整えようとしていることが感じ取れる。


 シアタカは、足で盾を掬い上げると、手に取った。半身の態勢となり、盾を前に、体を低く構える。


 鋭利な穂先を向けながら、エンティノが迫る。


 シアタカはそれを待ち受けると、距離を測った。


 きらめく切っ先をみて、シアタカは動く。盾を地面にぶつけるようにして跳ね上げる。白い砂が、激しく巻き上がった。


 エンティノが、思わず顔をそらす。 


 シアタカはそのまま踏み込んだ。


 盾を槍の穂先にぶつけながら打ち上げる。同時に、刀を突き出した。


 態勢の崩れたエンティノは、そのまま踏みとどまることなく、地面に倒れこむようにしてその剣尖をかわした。同時に、跳ね除けられた槍を回しながら、石突でシアタカの足を払う。


 シアタカは、踏み出した右足を払われて倒れた。


 エンティノは後ろに転がりながら立ち上がると同時に、首を軸にして肩上で槍を回転させる。そして勢いを殺さずにシアタカへと繰り出した。


 膝立ちで耐えていたシアタカは、その突きを盾でそらす。


 跳びこむようにして立ち上がった。


 刀を振り下ろす。エンティノは槍を小さな動きで回して、その一撃に打ち当てた。懐に飛び込まれまいとして後ろに退く。


 横合いから跳ね除けられた刀を取り落とすことなく、シアタカはエンティノを追った。眼前には必死な形相のエンティノ。接近を許したために、短く構えた槍を素早く突き出す。二度、三度繰り出される突きをシアタカは盾で受けきった。身体が伸びきった瞬間を狙って踏み込み、刀を振り下ろす。


 紅い刃が鎖甲の左肩を切り裂く。完全には勢いがのっていないために浅い一撃だったが、手応えはあった。振り下ろした刀をさらに下から突き上げる。


 エンティノは槍を自らの体へ引きつけながら、その突きを柄でそらした。シアタカは姿勢を崩すことなく、続けざま左手の盾をエンティノへ叩きつける。槍でかばうようにしてその一撃を受けるが、激しい衝撃によろめいた。


 再び刀を振り下ろす。エンティノは横に倒れるようにしてその斬撃をかわすと、転がりながらシアタカから逃れた。


「このままじゃもたない! サリカ、お願い!!」


 焦燥の表情を浮かべたエンティノは、シアタカから目を離さないまま叫ぶ。


 エンティノが呼びかけた知らない名が、シアタカの警戒心を激しく刺激する。視界の隅に何かを捉えた。シアタカは、一瞬、視線をそちらに向ける。砂丘の頂に、一人の人影が姿を現した。


 白い外套のその人物は、右手を天に掲げ、何か言葉を発した。


 呪文か?


 その異様な響きに、シアタカはそう感じた。彼らは魔術師を連れてきている。戦慄が走る。


 先に魔術師を倒さねばならない。そう判断するが、その距離は遠く、一駆けで近付けることなどできない。


 次の瞬間、青白い光が視界のあちこちで瞬いた。

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