第10話

 ムアムは部屋に入った二人に顔を向けた。


 ユハは緊張に身を硬くしながら彼女の前に立った。その半歩後ろにシェリウは立つ。 

 

 ムアムとは、初日に会ったきりで、会うのは数日振りだ。結果、ユハの中でのムアムは、自らの手首を躊躇なくかき切った人、という恐ろしい印象を書き換えられないでいた。そのために、ムアムの前では、どうしてもぎこちなくなってしまう。


「ユハ、これから、私と一緒に来てもらいます」


 ユハを見つめながら、ムアムは静かな口調で言った。この人は、常に単刀直入に話をする。ユハは、初めて会った時のことを思い出して、その思いを強くした。


「どこに行くのですか?」

「大聖堂です」

「大聖堂!」 


 ユハは思わず声を上げた。大聖堂は、ウル・ヤークスのまさしく中心だ。王都アタミラの王城の中心に位置し、聖女王が住まう。聖王教会の信徒にとっては、世界の中心といっても過言ではないだろう。そして、例えどんなに熱心な信徒であろうとも、誰もが訪れることができる場所ではない。ユハは、その疑問を口にした。


「どうして、一介の修道女である私が参内を許されたのでしょうか」

「あなたは選ばれたのですよ、ユハ。とても光栄なことです」


 ムアムが微笑んだ。しかし、その笑みはユハの不安をかきたてる。


「選ばれた……。私が、何をもって選ばれたのですか?」

「それは、大聖堂に行けば分かります」


 ムアムは笑みを浮かべたまま答えた。


「それでは、部屋に戻って支度いたします」


 進み出たシェリウが一礼した。


「支度は必要ありませんよ。すぐに出立します。それにシェリウ、あなたは来る必要はありません」


 ムアムは、頭を振るとシェリウに顔を向けた。シェリウはムアムの視線を受け止めると、口を開いた。


「私は修道院長より、ユハの保護を言いつけられています。どうか、同行を認めてください。お願いいたします」


 そう言って一礼する。ムアムは厳しい表情で答えた。


「あなたが来ても、何の意味もないのですよ」

「私は修道院長の言いつけを全うするだけです」


 シェリウは、強い意志をこめた瞳で、ムアムを見つめる。


「わ、私も、シェリウについて来てほしいです!!」


 二人の間に張り詰めた緊張感に耐え切れず、ユハは思わず口を挟んだ。そして、まるで子供のような自分の言葉に激しく後悔する。


「本当に……、師によく似た弟子だこと……」


 ムアムは目を細めると呟く。そして、小さく頷いた。


「よいでしょう。シェリウ、あなたも来なさい。ただし、礼節を守り、静謐を保つこと。いいですね?」

「はい。ありがとうございます」


 シェリウは深々と一礼した。


 外に出ると、大きな荷台の左右に双輪のついた、簡素な騾馬ろば車が待っていた。


 ユハたちよりも少し年上の若い尼僧が御者をして、荷台の上にムアム、ユハ、シェリウは腰掛ける。ゆっくりと、騾馬ろば車は走り始めた。


 二輪の騾馬ろば車は、前後に揺れて乗り心地が良いとはいえなかった。しかし、ユハは乗りなれているために苦には感じない。イラマール村の平坦ではない道に比べれば、アタミラの街路は整備されていて、快適なほどだ。街に暮らすというのはこういうことなのか、と妙な所で感心してしまう。


 狭い道を抜けると、大通りに出る。人通りは、相変わらず多い。アタミラに到着してから今日まで、ずっと尼僧院の中で過ごしていたため、静謐な世界から突然に混乱した世界に放り込まれてしまったように感じる。


「何か珍しい物でも見えるの?」 


 御者をしている尼僧が、ユハを見ながら笑いを含んだ声で聞いた。


「あ、いえ、こんなに人がいるなんてすごいな、と思って」


 ユハは慌てて尼僧に答える。


「これが普通だけど、そんなにすごい?」

「私の暮らしていたイラマール村は田舎でしたから……。祭りで近隣の村から人が集まっても、ここまで大勢にはなりません。それに、色々な人がいるんですね。イラマールは街道や交易路から外れた村でしたから、ウルス人にしか会った事がなかったんです」


 道行く人々の多様さは、ユハに世界の広さを感じさせる。イラマール村から、そしてアタミラから伸びる道の先には、果てのない大地が広がっているのだろう。


「ああ、そうね。商売や学問のために、世界中から人が集まってくるのよ。私も、僧衣を着てるから分からないと思うけれど、アルティニ人なの。もっとも、アタミラ生まれだから、アルティニ語はあまり上手くないんだけど」


 尼僧は自分を指差して笑った。アルティニ人は、ウル・ヤークスの北にあるイールム王国の民族だったが、ここアタミラにも多くの人々が暮らしている。


「アタミラで生まれ育ったから、街の外を知らないの。イラマールってどんな所?」

「周りを山と谷に囲まれた村なんです」


 尼僧の問いに、ユハは笑顔で答える。


「斜面に小さな畑と果樹園があって、羊を放牧してます。道が険しくて、村から出るのも大変なんですよ」

「へえ、アタミラとは大違いね。そりゃあ、物珍しそうにきょろきょろするわけだ」

「私、そんなに、きょろきょろしてました?」

「そりゃあ、もう、子供みたいにね」


 田舎者丸出しで恥ずかしい。ユハは顔が熱くなるのを感じながら思わず俯いた。 


「せっかく“世界の中心”に来たんだから、早く慣れないとね」


 尼僧は笑いながら騾馬の手綱を操る。


「でも、尼僧院では良くして貰っていますし、ここでの生活に慣れてしまうと、修道院に帰って普通の生活に戻れるのか心配です」

「大丈夫よ。あなたは、もう、田舎で不自由な暮らしをする必要はないじゃない」

「え……、それはどういう意味ですか?」


 尼僧の快活な答えが聞き捨てならないもので、思わず聞き返す。


「二人とも口を閉じて。無駄口を叩いている場合ですか」


 ムアムが、厳しい声で叱りつけた。尼僧は慌てて口を噤む。


 不安に駆られてムアムに顔を向けるが、彼女は厳しい表情のまま口を開くことはない。ユハはシェリウに視線を移した。シェリウは、ユハを見つめると静かに頷く。そして、そっとユハの手を握った。


 皆が押し黙ったまま、驢馬ろば車は街を駆け抜けていった。




 

 大聖堂は輝いていた。


 王城の城壁と同様の白磁のような壁に、紋様や抽象的な図像が青と金の線で複雑に描かれている。その美しい意匠と、そこにこめられた魔力の大きさに、息を呑む。イラマール修道院も大きな建物だったが、大聖堂はその比ではない。主堂や周囲の聖堂、塔は天を突くように高く、頂点の円蓋は鈍い銀色だった。真下で見上げると、仰け反りすぎて後ろに倒れてしまいそうだ。


 ムアムは、ユハとシェリウを連れて門口へ向かった。道行く僧たちは、ムアムの姿を認めると皆、一礼をしていく。人の身長の五倍はある高さの迫持アーチ門には、見事な彫刻が施されていた。


 門には、四人の男たちが立っていた。皆、鎖甲の上に上衣を着ている。その上衣は艶がある純白で、金糸や黒糸で美しい紋様が刺繍されたものだ。手には緋色の穂先を備えた槍を手にしていた。


「これは、ムアム司祭」


 男たちは一礼した。その所作は優雅で洗練されていたが、大仰にも感じさせるものだ。ムアムもそれに応じて一礼する。ユハとシェリウもそれに倣った。 


「こんにちは、月輪の騎士たちよ」


 ユハも、月輪の騎士の名は聞いたことがあった。彼らはウル・ヤークス王国の良家や有力者の子弟たちによって構成されているという。旅の詩人たちの武勲詩にも、度々その名が歌われていたことを思い出す。


「今日はどのような御用で?」

「“偉大な獣”と大司教にお会いするために参りました」

「その者たちは?見たところ、修道女のようですが」


 騎士たちはユハとシェリウに視線を向ける。男たちの表情は柔和だが、ユハたちを見る目には鋭い光が宿っていた。思わず、身を固くする。


「この妹たちは、ユハとシェリウ。この者たちを“偉大な獣”と大司教に紹介する必要があるのですよ」

「ふむ、どうやら大事な務めのようだ」


 年長の騎士が顎に手を当てると、ムアムを見て、ユハたちを見た。


「お邪魔をして申し訳ありませんでした。どうぞ、お通りください」


 騎士は軽く頭を下げると、手で門の奥を示す。


「ありがとう、騎士たちよ」


 ムアムは笑みを浮かべると、ユハたちを振り返る。


「さあ、行きますよ、妹たち」


 頷く二人を連れて、ムアムは歩き始めた。


 迫持アーチ門と同様に、見上げるほどに高い天井の廊下を歩く。大聖堂が帯びている聖なる力は、ユハの精神を、そして魂を刺激する。意識が覚醒し、自分の存在を穏やかに揺さぶられているような、かつてない感覚がユハを襲っていた。


「ユハ、大丈夫?顔色が悪いわよ」


 シェリウが気遣う表情でユハを見る。


「うん、大丈夫。気持ちが悪いわけじゃないから。少し、魂が驚いてるみたい」

「魂が、驚いている?」


 シェリウの怪訝な顔に、ユハは苦笑した。


「ごめん、自分でも何て言っていいのか分からなくて。変な言い方になっちゃった」

「それは、大聖堂に来たから?」

「うん。シェリウも感じない?大聖堂を覆う聖なる力を。その力が、私の魂を揺さぶるんだ」


 シェリウは、困惑した様子で周囲を見回した。


「確かに、力は感じる。でも、とても静かで荘厳な力で、魂を揺さぶるような、そんな激しい力は感じないわ」

「そう、なんだ。私はおかしいのかな……」 


 ユハは、その答えに不安を感じて胸に手を当てた。しかし、この力は、今も己に影響を与えている。決して勘違いなどではない。


 そして、振り返ったムアムと一瞬目が合った。ムアムは言葉を発することなく、再び前を向く。


 やがて、三人は長い廊下の先の一室に入った。


 そこは広い部屋だった。天井は廊下よりも一段と高くなっている。そして、その部屋の奥に、巨体がうずくまっていた。


 ユハは驚きの声を何とか呑み込んだ。


 それは、巨大な獅子だった。その逞しい体躯は人の倍の大きさはある。その背には、自身の体を覆ってしまえるような、巨大な白い翼が生えていた。そして、本来ならば獅子の頭があるべき場所には、人の頭があった。獅子のたてがみのような明るい茶褐色の髪。白目ではなく、金色の目に黒い瞳。その容貌は端整でまるで彫刻のようだったが、中性的で、ユハの知るどの民族とも違って見えた。


「“偉大な獣”、“智慧の使徒”よ」 


 ムアムが穏やかに呼びかける。その獣、智慧の使徒は前半身をおこすと、三人を見た。


「ムアム、久しきかな。健やかであったか?」


 智慧の使徒の声は、高いが、男性とも女性とも判別し難い声だ。声変わりの前の少年のようにも、乙女の証を得る前の少女のようにも聞こえる。しかし、その口調は落ち着き、老成を感じさせるものだった。言葉遣いも古めかしい。


 ユハは、聖典の中の伝説の存在を目前にして、感激していた。偉大な獣、そして智慧の使徒と呼ばれるこの存在は、“肉をそなえた精霊”として、はるか古代より生きている。この地に古くからいた智慧の使徒は、ウル・ヤークス王国建国の際に、聖女王の眷属となったのだった。その物語はユハも好きで、子供の頃に何度も読んだものだ。


「はい。偉大な獣も、変わらずにお元気そうですね」

「太陽と月がめぐり、風と雨が大地を削る。我が身もやがて風に還る」

「ふふふ、やはり、あなたは変わらない。人から見れば、あなたは不変の存在です」


 ムアムは笑うと、振り返る。手でユハを示した。


「この娘は、ユハと言います。偉大な獣。この娘をどう見ますか?」


 智慧の使徒は、ユハを金の目で見つめた。


「まことに見事な果実なり」


 智慧の使徒は口を開く。その背の翼が、大きく開かれた。風を感じて、ユハは目を細める。


「大樹は、この果実を呼ぶ。この果実も、大樹を求める。それはやがて花を咲かせるであろう」

「おお、まさしく、この娘こそ、捜し求めし者であったのですね」


 ムアムの声は、喜びに満ちていた。


 ユハは、訳が分からずに、思わずシェリウに顔を向ける。シェリウは、その視線に気づいて、ユハに頷いてみせる。


「大丈夫。必ずユハを守る」


 シェリウは、力強くユハの手を握った。その感触が、この場では唯一の確かなもののように感じて、ユハは嬉しかった。

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