第5話
白い大地に褐色の城壁が姿を見せた。デソエの城壁はカラデアのものよりも高く、堅牢に見える。そして、近付くにつれて、城壁の一部がきれいに崩れ落ちている様が見て取れた。何らかの戦呪を使ったのか。シアタカは、聖導教団の魔術師たちの強大な魔術を思った。沙海の夕陽に照らされたデソエは、陰影に彩られてより一層戦の傷跡を強調されて見える。
砂丘を越えると、デソエの周辺には黒い岩山が幾つも見えた。踏みしめる大地に積もる砂も薄く、その下にあるしっかりとした岩盤を感じることができる。そのため、駱駝の歩みも早くなった。
城壁の上に立つ者たちが、近付くシアタカたちに気付いたようだ。こちらを指差して大声でやり取りをしている。しばらくすると、崩れ落ちた隙間から、恐鳥に跨った騎兵が十騎駆けてくる。彼らの軍装には見覚えがあった。
「止まれ!その場で止まれ!」
先頭を駆ける男が、ルェキア語で叫ぶ。その声は馴染みあるものだ。
「ファーダウーン殿!私です!シアタカです!」
シアタカは、その紅旗衣の騎士にウル・ヤークス語で応じた。そして、駱駝を止めると、鞍から降りて両手を大きく広げる。
「シアタカ?シアタカだと?」
紅旗衣の騎士たちはシアタカたちの一行を取り囲む。
「シアタカ!シアタカだ!」
「よく生きていたな!」
「さすがだ。悪運だけは強い」
騎士達は笑顔で出迎えた。シアタカも、明るい表情で手を上げた。ここまで沈んでいた気持ちが、仲間達の顔を見たことで、少し楽になったように思える。
「お前たちが帰ってくるとマウダウ団長に聞いていたが、思ったよりも速かったな」
「マウダウ団長が?」
ファーダウーンの言葉に、シアタカは驚く。
「お前たちが生きていて、カラデアから脱出してデソエにやって来るということは、すでにヴァウラ将軍もマウダウ団長もご存知だ」
「なぜご存知なのですか?」
「それは、その、造人の力だ」
ファーダウーンは、シューカを顎で示す。シアタカはシューカを一瞥して頷いた。この同じ顔をした造人たちは、容貌を変化させるだけではない、様々な力をもっているようだ。シアタカの知る造人兵よりもはるかに念入りに造られたに違いない。
「シアタカ!シアタカ、この野郎!」
その声に、シアタカは笑みを浮かべた。その小柄な紅旗衣の騎士は、恐鳥から飛び降りると、シアタカの肩を掴んだ。
「やあ、ハサラト」
「シアタカ、こいつ、本当に生きてやがった!」
ハサラトはシアタカの肩を強く叩くと、頷いた。
「心配させやがってこいつ。澄ました顔してないで、少しは反省しろ!」
「ああ、悪かった。心配してくれて、ありがとう」
シアタカの言葉に、ハサラトは笑みを大きくする。
「殊勝なこと言いやがって。騙されねえぞ!お詫びの印に、帰ったらいつもの酒場で酒をおごれよ!」
「ああ、分かったよ」
シアタカは頷いた。馴染みあるハサラトの声が心地よい。ここは異郷の地だが、仲間の声を聞くだけで、いつもの場所に帰ってきたのだと感じることができた。
「さてと、もっと謝らないといけない奴がいるからな」
ハサラトは振り返ると、手招きした。
「エンティノ、そんな所で何やってるんだ?早くこいつに文句を言ってやれ」
金髪の騎士がゆっくりと歩み寄る。エンティノは、シアタカを直視することなく傍らで止まった。
「エンティノ、心配をかけたみたいだな」
シアタカの言葉に、エンティノは顔をあげた。シアタカを見つめる。
「シアタカ……」
エンティノの表情は複雑だった。怒っているのか。泣き出しそうなのか。笑おうとしているのか。シアタカにはその感情は読み取れない。ただ、乾いた空気の中で、その茶色の瞳は潤んでいた。
「ばかやろう」
小さな声で言うと、手をシアタカの頬に打ち当てる。乾いた音がした。軽い力のために、痛みはない。エンティノの手は、そのままシアタカの頬を優しく撫でた。
「生きてた……」
エンティノは呟いた。シアタカは、エンティノの手をそっと握ると、頷く。
「ああ、生き残ったよ」
「良かった。良かった……、本当に」
そう言って、エンティノは目を伏せる。
「生還を喜ぶのは良いが、いつまでもここにいるつもりか?将軍閣下がお待ちだぞ」
含み笑いとともに、ファーダウーンが言う。エンティノは弾かれたように顔をあげると、赤面しながらシアタカから離れた。
ハサラトがにやにや笑いながら、シアタカの傍らに立つ。肩に手を置くと言った。
「あいつも中々大変だったんだ。後で慰めてやってくれよ」
「慰めてやる?何かあったのか?」
「何かって、お前……」
ハサラトは一転して呆れた表情でシアタカを見やる。
「これは、迂闊なことを言って怒らせるかもしれないな。やれやれだ」
溜息をつくハサラトを見て、シアタカは首を傾げるしかない。
ふと視線を移すと、騎士の一人がアシャンに近づいている。
「この娘がヴァウラ将軍が招いた者か。どんな顔だ?」
騎士が、アシャンの駱駝に恐鳥を寄せると、髪を掴んで顔を覗き込んだ。
アシャンは、その不躾な態度に怒りを覚えたようだった。シアタカには分からない言葉を叫ぶと、騎士の顔に唾を吐きかける。
「貴様!」
騎士は怒りの声と共にアシャンの顔を打擲した。騎士の本気の一撃で、アシャンの身体は大きく仰け反る。
「何してるんだ!!」
シアタカは慌てて駆け寄った。意識が飛んでいるのか、アシャンは力なく駱駝の背に身を任せている。
「蛮族の娘ごときが、紅旗衣の騎士を侮辱したんだぞ!殺されても文句は言えん!」
シューカの一人が、三人の間に割って入った。
「その娘の身柄は、ヴァウラ将軍が所望しているのですよ。それを知っていながら傷付けるというなら、それは将軍閣下への反逆です。分かっているのですか?」
シューカの冷徹な声に、騎士は身を固くした。
「そのような意図はなかった。自制が足りずに手が出てしまったのだ。許されよ」
騎士は謝罪すると一礼した。
「分かっていただけたならば、それでよいのです」
そう言うと、シューカは頷いた。
「忌々しい造人め。呪われろ」
立ち去る騎士が呟く。
シアタカは、アシャンの様子を見た。やはり、気を失っている。
「くそっ、やりすぎだ」
シアタカは唸った。鞍上から、シューカが言う。
「騎士シアタカ。この娘をヴァウラ将軍の元に連れて行かなければなりません。このままにしておいて、行きましょう」
シアタカは思わずシューカを睨み付ける。しかし、大きく息を吐いて気持ちを落ち着かせると、頷いた。駱駝の鞍に跨る。
一行は、兵士達の敬礼を受けながらデソエへ入った。城壁のみならず、街の中でも破壊された建物が目に付く。路上には、死体は見えないものの、あちこちに血の跡が残っていた。
「手強い奴らだった」
辺りを見回すシアタカに、ハサラトは言った。
「こちらの損害も激しい。紅旗衣の騎士としては、今すぐにでもカラデアへと駆けて行きたいところだが、そうもいかない。他の兵達は随分と参っている。しばらくはデソエで休む必要があるだろうな」
「そんなに手強かったのか?」
「ああ。鱗の民は勿論だが、カラデア人も中々のものだ。それに、奴らは色々と策を弄してきた。ほとんどの水を失って、行軍の途中で危うく干上がるところだったんだ。おかげで、皆、疲れが抜けていない」
ハサラトは苦々しげな表情で頷く。
苦戦の様子をハサラトから聞き、シアタカは黙り込む。栄光ある軍団、ギェナ・ヴァン・ワがここまで苦戦するとは思ってもいなかった。何かが狂ってきている。なぜか、そんな感覚を覚えた。
やがて、一行は街の中央にある一際大きな館についた。カラデアと同じだと考えるなら、おそらくは太守の館だろうとシアタカは推測した。あちこちが傷付いてはいるが、ほぼ形を留めている。おそらく、意図的に損傷を少なく占領するように指示が出ていたのだろう。
一行は、館の前で恐鳥や駱駝から降りた。アシャンも、彼女を殴った騎士によって手荒に駱駝から引きずりおろされる。意識を失った体は、力なく地に横たわった。
「おい、無茶をするな!」
シアタカが鋭く言う。
「こんな女にはこれぐらいの扱いで充分だ」
騎士は鼻で笑った。そして、彼女の頬を軽く叩く。
アシャンが呻き声をあげた。ゆっくりと目を開く。辺りを見回すと、シアタカの知らない言葉で呟く。一瞬シアタカと目が合うが、冷たく鋭い視線を向けられただけで、アシャンはすぐに顔を背けた。
「従者は別室に案内させる。旅の疲れを癒してもらおう」
ファーダウーンは、振り返ると、ウィトを見やる。
「ウィト、ひとまず、休んでくれ」
シアタカはウィトに頷いてみせる。ウィトは一礼すると、その場に留まった。
騎士に半ば引き摺られるようなアシャンとともに、シアタカはファーダウーンと共に中庭に面した回廊を歩く。開放的な造りが、カラデアの太守の館に似ていた。
回廊を抜けて辿り着いたのは、広い部屋だった。粗削りな列柱が立ち並び、天井は高い。おそらく、五十人は入ることができるだろう。部屋の中央に、一人の男が胡坐をかいて座っている。
「良くぞ戻った」
その声に、シアタカは身を硬くした。いつ聞いても、その声の主に頭を垂れるしかない。
「ただいま戻りました、将軍閣下」
ヴァウラはゆっくりと立ち上がると、厳しい表情でシアタカを見る。
「それで、報告することはあるか?」
「指揮を誤り、部下を死なせてしまいました。弁解のしようもありません」
そう言って、シアタカは跪いた。
ヴァウラは無言だった。じりじりとした時間が、シアタカの上を流れていく。ゆっくりと火に焦がされているようだ。将軍の前にいると、常にこういった圧力を感じざるを得ない。
「部下を預けてみればこのざまだ。無様としか言いようがないな」
鞘ばしる音が聞こえる。首筋に、ひやりと冷たい感覚がはしった。
「本来ならば、死罪だが、功績もある。カラデアにおける情報収集。そして、蟻使いを連れて帰った。罪と、これらの功を比較し、お前の罪を減ずることとしよう。部隊長の位を剥奪する。よいか」
「はい。ご厚情感謝いたします」
シアタカは深く頭を垂れた。
「蟻使いは、その娘か……」
ヴァウラはアシャンに視線を移すと、眉根を寄せた。
「なぜ、顔が腫れている?」
アシャンの頬は、赤黒く変色している。
「私が殴りました。その、無礼をはたらいたもので」
騎士が慌てて弁解した。
「愚か者め!下がれ」
ヴァウラは一喝した。騎士は狼狽した様子で、部屋を出て行く。
「私をどうするつもり」
アシャンが、口を開いた。その声は微かに震えているようにも聞こえる。
「ほう、ルェキア語は喋れるようだな」
ヴァウラは笑みを浮かべた。
「お前たちは、キシュガナンの地に攻め込むつもりなんだ」
「そうだ。お前には、それに協力してもらう」
「協力?」
「そうだ、蟻使い。その能力が欲しい。大蟻を支配する力だ」
アシャンは驚いたようだった。
「キシュは支配できない。ラハシは、キシュと心を通わせるだけなんだよ。私がキシュを支配できるわけがない」
ヴァウラは鼻で笑う。
「協力したくないのは分からないでもない。無理矢理仲間の元から攫われ、こんな所まで連れてこられ、殴りつけられたのだからな。だが、意地を張るのは賢い選択とは言えんな。これ以上、痛い目にあいたくはないだろう?」
アシャンは、ヴァウラを睨み付けた。ヴァウラは無表情にその視線を受け止めると、言葉を続けた。
「それに、別の方法もある。ウル・ヤークスには腕のよい魔術師がいる。魔術師は、お前の心や魂を書き換えてくれるだろう。そして、お前はウル・ヤークスの忠実なる僕となるのだ」
見れば、アシャンの顔が蒼ざめていた。調律の力も禍々しいと恐れるのがキシュガナンだ。心を書き換えるなど、想像の範疇を超えているだろう。シアタカには、ヴァウラの脅しが真実なのか、分からない。聖導教団の魔術師がそんな術を使えるとは聞いたことがない。しかし、ありえないことでもない。
シアタカの心にわだかまっていた疑問が、黒い雲が広がるように、徐々に育ちつつあった。少女を脅しつけてこちらの言うことを聞かせる。それが、誇り高き聖女王の僕のとるべき道なのか?シアタカには分からなくなっていた。
アシャンは、狭苦しい部屋に押し込められた。人が一人、横になればそれで窮屈になってしまうような部屋だ。窓もなく、扉を閉められたことによって、真っ暗になってしまった。おそらく、物置にでも使われていたのだろう。
狭い部屋だが、小柄なアシャンならば充分な空間ではある。アシャンは寝転んだ。
今頃になって、殴られた頬がひどく痛む。熱を持ち、脈打つように疼くのだ。頬は大きく腫れ上がり、片目を覆い隠すほどだ。
「あいつ、本気で殴りやがって」
思わず痛みと怒りで唸る。そっと頬を撫でるが、痛みを感じて手を引いた。
アシャンは、先刻の会話を思い出していた。あのヴァウラという男。恐ろしいまでの迫力をもっていた。怒りと憎しみで支えていたからこそ何とか話すことができたが、その力がなければ圧倒されたまま何も喋ることはできなかったに違いない。あのシアタカがまるで怯えた犬のようだった。
痛みは消えない。
痛みを紛らわせようと、寝返りを打つ。口の中に違和感を感じて、舌で奥歯を探った。細かく硬いものが、舌に当たる。口に指を入れるとそれを取り出した。
「奥歯が欠けてる……」
泣き出しそうだった。だが、それをこらえた。ここで泣けば、完全に敗北だと思ったからだ。泣くことで、自分を殴りつけた騎士に、あのヴァウラという男に、そして、ウル・ヤークスという化け物に屈してしまうように思えた。
暗闇の中で、暗闇を見つめる。
痛みに耐えているうちに、徐々に心が落ち着いてくる。奇妙なことだが、痛みが、心に対する重しとなっている。アシャンは、大きく息を吸った。埃っぽい空気だが、充分だった。
ようやく落ち着いてくると、心の奥底に揺らぎを感じた。何か、別の心が触れている。この感覚は馴染みあるものだ。物心ついた時より傍らにあった繋がり。キシュだ。
アシャンの心は喜びで激しく波打った。それによって、小さな揺らぎ、キシュとの繋がりが掻き消される。アシャンは慌てて心を静めた。今更ながらに、キシュが感情の激発を嫌う理由が分かった。今まで常に傍らにいたために分からなかったが、今のように遠く離れている場合、大きな感情の乱れは、キシュとの繋がりを容易く断ってしまうようだ。こういう非常事態に身を持って納得させられるとは思ってもみなかった。
再びキシュと接触することができた。だが、微かな波は、そこから意図を汲み取ることが難しい。
キシュの心が近付いてくるのが感じられる。今、キシュがこちらに向かっている。それだけは理解できた。
アシャンは、ありったけの力を持って、自分の存在を主張した。私は、ここにいる。ここにいるよ、と。
キシュがこれを受け取ったのか、確信はなかった。だが、受け取ったと信じたかった。
希望を、持ちたかった。
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