第1話

 彼女は囚われていた。


 そこは、深い水の中のようであり、風すら吹かない虚空のようでもあった。


 彼女は、自らのおかれた環境を知ることはできない。閉じたまぶたは開くことはなく、鼻は何も匂いを嗅ぐこともなく、耳はただ静寂の響きを聞くだけだ。そして、その肌に触れるものはない。全ての感覚を奪われて、指一つも動かすことはできなかった。ただ、彼女の意識だけがそこにある。


 己の存在自体を疑ってしまうようなこの状況で、彼女が得ることのできるものが唯一つだけある。それは、光だ。まぶたごしに感じる青白い淡い光だけが、彼女に自らの肉体を自覚させていた。


 いつからここにいるのか。彼女には時間の感覚はなかった。一年なのかもしれない。十年なのかもしれない。それを知る術はなく、その努力も放棄していた。


 孤独と黙考の中、ただ、彼女は救いを求めていた。声にはならない、心の叫びを上げ続ける。


 救いを求めても報われない。そんな中でどうして自分が正気でいられるのか、彼女には理解できない。狂気の沼に沈み込んでしまえば、どれだけ楽なのだろう。それとも、すでに自分は狂ってしまっているのかもしれない。そんな自問自答を、数え切れないほどの時間、繰り返してきた。


 変わることのない青白い光を浴びながら、彼女は救いを求め続けていた。




 

「ユハ、ユハ」


 ユハは、自分を呼ぶ声で目を覚ます。


「ユハ、起きなさい。もうすぐ着くわよ」


 一人の娘が、ユハを見下ろしていた。薄い褐色の肌、黒い色の瞳を持ち、修道女の常として肩までに短く切った髪は、ウルス人としては珍しい栗色だ。

 

「ああ、シェリウ、おはよう」

「おはようじゃない。いつまで寝てるのよ」


 シェリウは、ユハの額を軽く叩いた。ユハは大袈裟に痛がる振りをして、寝台で寝返りを打つ。


 夢を見ていた。しかし、それがどんな夢だったのか。それを思い出せない。とても大事なことだった。それだけは覚えている。目を閉じるが、夢は遠くへ去り、眠ることはできない。


 今、二人が乗っているのは、大河エセトワを航行する船だ。ウル・ヤークス王国の王都アタミラに向かう必要があった彼女たちは、穀物を運ぶ大型船に便乗できたのだった。聖王教会の修道女である二人には、敬意を持って個室が割り当てられている。物置部屋に等しい狭さに寝台が二つ押し込まれているような場所だったが、限られた空間しかない船内では、貴重な場所であることは間違いない。


「早く起きなさいよ。もうエセトワから運河に入ったんだから」

「え!?私、全然風景見てないよ!」


 ユハは跳ね起きると、碧眼を大きく見開いて驚きを露わにした。


「何言ってるのよ。私は見飽きるぐらい見たわ。あんたはずっと寝てたでしょ」

「だって、船酔いで辛かったから……」


 ユハは、十五の歳にして初めて外の世界に旅立つこととなった。それまで一度も修道院のある村から出たことがなく、小舟にしか乗ったことがないユハにとって、数日を船で過ごすという体験に心躍らせたのだが、期待はすぐに絶望に変わってしまった。出航したその晩から、ユハは船室にこもりきりになったのだった。


「船旅、初めてだったものね。でも、もう大丈夫そうね。顔色も良くなってる」


 シェリウはユハの黒髪を撫でる。ユハは笑みを浮かべると頷いた。


「うん、自分のどこが悪いのか分かったから、癒す方法が分かったの」

「またそんな非常識なことを……」


 シェリウは呆れた表情でユハを見やった。“癒しの術”と世間では一括りにして呼ばれているが、怪我や病気によって行使される術は異なるし、それに伴って必要とされる薬草や薬も異なる。例えば、同じ外傷でも切り傷と打ち身、骨折では働く魔力は異なる。病気を治療するとなれば、術の根底は同じでも、病によって全く異なる働きの魔力を操ることが要求されることとなった。同時に幾つもの力を操ることが必要な場合も多い。そして、それらの術も、あくまで、その傷や病に対して知識があるからこそ行使できる。


 初めて体験するような流行り病に対しては、癒し手は、手探りで治療方法を探すしかない。まさしく、その身を糧として対抗する力を編み出すのだ。現在伝わっている癒しの術というのは、過去の癒し手たちの命と知識を受け継いできた証なのである。


 だからこそ、癒しの術を今ここで編み出したというユハの言葉は、癒し手の常識からすれば信じられないことだった。しかし、ユハにとって、病の原因を理解したのは事実だ。理解したからこそ、癒す術を知ることができた。


「でも、原因は簡単だったのよ。“酔い覚まし”の術とは原理が違ったんだけど……」

「だから、普通はそんなことは簡単にできないの」


 シェリウはユハの言葉を遮って強く言う。ユハは口を噤むと、小さく頷いた。自分の力が特別であることを、今は自覚している。修道院長と、シェリウが教えてくれたのだ。そして、それを秘密にしておくことも必要だと戒められた。自分は癒しの術に優れている。人に知られる事実はそれだけで良い。二人きりであるために思わず口にしてしまったが、シェリウはこんな状況でも戒めを忘れないように促している。


 ユハは溜息をつくと、寝台を出た。


「もう運河に入ったってことは、そろそろアタミラが見えるってことだよね?」

「そうね。多分、そろそろじゃないかな」

「よし!到着する前に遠くからアタミラの城壁を見ておかないと」 


 ユハは強く頷くと立ち上がる。王都アタミラの城壁の壮大さ、美しさはずっと聞かされてきた。大河エセトワの風景を見逃してしまった今、アタミラの遠景は必ず目に焼き付けておかなければならない。ユハは心に誓う。


「ユハ、ちょっと待ちなさい」


 シェリウの制止に、ユハは立ち止まる。シェリウはユハを鋭く指差した。


「その格好で出て行くつもり?」


 ユハは自分が薄い貫頭衣一枚しか身にまとっていないことを思い出して、思わず赤面した。




 頭巾付きの法衣に着替えたユハは、部屋を出ると、船上に上がる。シェリウは荷造りをするということで船室に残った。


 甲板の上に大きな影が差している。


 何が陽光を遮っているのか。疑問とともに顔を向けた視線の先には、運河の只中で船を鎖で引く巨大な灰褐色の塊がいた。


 ユハは、呆気にとられてこの生き物を見た。


 その巨体は、館や塔に例えても誇張ではない。彼女の暮らした村で、この生き物より大きな建物は修道院くらいだろう。その巨体は分厚く硬そうな灰褐色の皮で覆われている。まっすぐ伸びた四本の足は、澄んだ水を掻いて跳ねるように進んでいた。まるで丘のようななだらかな曲線を描く巨大な胴体は、運河の水を押しのけて波立てている。そこから伸びるしなやかに動く長い尾。そして、蛇のような長い首。しかし、その先にある頭は蛇ではない。その巨大な体に比べてとても小さく感じる角ばった頭は、どちらかといえば亀に似ていた。杉の巨木のような足と尾を持つ、と聖典では表現されていたが、それが誇張ではないことを実感した。


「ムハムトだ……」


 ユハは、聖典に記された名を呟く。


「ムハムトを見るのは初めてかね、修道女様」


 初老の船乗りが、笑みを浮かべて声をかけた。


「はい、私は田舎にいたもので。噂には聞いていましたが、こんなに大きいなんて……」


 ユハは船乗りに頷いてみせる。


「初めて見た人は、皆驚くよ。こんなに大きな生き物は、ムハムト以外には竜しかいないだろうね」

「この運河にはムハムトが沢山住んでいるんですか?」

「いや、運河で働くムハムトは三匹くらいじゃないかな。大きな船が上るときに、力を借りるんだよ。こいつは、わしが若い頃から運河で働いてるなあ」

「ムハムトは長生きなんですね……。あなたは、ずっと運河で船乗りをされているんですか?」

「そうだよ。大きいのから小さいのまで、沢山の船に乗ったさ。お陰でここらの運河のほとんどは知ってるよ」


 この運河は、大河エセトワから王都アタミラへ続いている。アタミラ周辺には、これ以外にも大小無数の運河がはしり、水運や農業のために活用されていた。


「運河はいくつもあるんですよね。ムハムトは三匹だけで大丈夫なんですか?」

「なんでもかんでもムハムトを働かすわけじゃあないからね。数が足りないってことはないんだよ。だけど、この土地に巨人がいた大昔には、ムハムトも羊のように一杯いたって言われてるな」

「私、聞いたことがあります。巨人の国の王様が、ムハムトたちを使ってこの運河を造ったんですよね」


 子供の頃に聞いた昔話を思い出す。かつて大地を支配した巨人たちの遺構は、世界中で見ることができる。そして、この地ではそれが運河であり、現在でも整備されて人々に活用されているのだった。


「そうらしいね。でもなあ……」


 船乗りは、遠い河岸に目をやる。つられて、彼女もそちらに目を向けた。羊の群れと、それを追う羊飼いがまるで点のように小さく見える。


「牛で畑を耕すようにはいかんだろうに。どうやったのかねえ」

「本当に不思議ですね」


 ユハは頷くと再びムハムトを見る。ムハムトは、頭の上にまるで帽子のように乗っている人間に操られているようだった。どうやって操っているのか、ここからは遠くてよく見えず、ユハには見当もつかない。灰褐色の体に白い紋様が幾つも描かれているのは、このムハムトの名前なのだろうか。少なくともユハの知る文字や意匠ではない。


「修道女様、調子が良くなったようですね」


 通りかかった若い船乗りの男が、ユハに対して恭しく一礼した。その丁寧な物腰に戸惑いつつも、ユハは頷いた。


「はい。ずっと寝ていたら大分良くなりました」

「それは良かった。困ったことがあれば何でも言いつけてください」

「あ、ありがとうございます」


 答えたユハにもう一度丁寧な礼をすると、男は立ち去った。


「ユハ、どう?ムハムトは。びっくりしたでしょう」


 甲板に上がってきたシェリウが、満面の笑みとともにやって来る。驚かせようとして黙っていたに違いない。ユハは思わず苦笑すると頷く。 


「うん、びっくりしたよ。本当に、聖典に書かれている通りだね」

「私もびっくりした。ムハムトを見ただけでも、ここまで来たかいがあったわね」

「村の人たちにも見せてあげたいなぁ……」


 ユハは呟く。聖典に記された物語の数々は、村の人々にとって教えであり、そして娯楽だった。夜毎炉端で語られる古の奇跡の物語は、人々の胸を躍らせる。それが現実となって存在しているのだから、さぞや興奮することだろう。


「本当ね……。私たちの旅のことを、一杯話してあげないとね」

「そうだね」


 ユハは笑顔で頷く。


 ムハムトに船が引かれて仕事が減ったためか、船上の船乗りたちものんびりとした様子だ。通りかかる船乗りは皆、ユハとシエリウに一様に恭しく一礼していく。


「どうして皆、こんなに丁寧なのかな?」


 ユハは船員たちの態度に疑問を感じて、シェリウに聞いた。修道女という立場だけで、ここまで礼儀正しくされた経験はない。


「出航の前に、あんたが怪我人を治療したでしょう。そのお陰ね」

「治療……?ああ、あの時の」


 数日前のことのはずが、遠い昔のように感じる。


 ユハたちが港で船に乗り込んだ時、船上には怪我人が溢れていた。航行中、魔物の襲撃を受けたのだという。そのため、ユハとシェリウは、出航の前に怪我をした船乗りや護衛の傭兵たちの怪我を癒したのだった。


 僧侶が皆、必ずしも癒しの技を使えるわけではない。癒しの力というのは特別な才能だ。実際、シェリウには薬草や薬の知識はあるが、癒しの術は使えない。しかし、聖王教会の僧侶に癒す者としての役割を期待されていることは確かだ。人々はそこに聖女王の代理人としての姿を見ているのだから。


「あんたのお陰で、ずっと快適だったわ。美味しいものを沢山ご馳走になったんだから」


 シェリウはにやりと笑う。


「え、そんなのずるいよ、私食べてない!」

「どうせ食べても戻すだけだったでしょう。魚の餌にするなんてもったいない」

「何よ、ひどいよ」


 ユハは膨れっ面で顔をそらす。視線の先に、きらめく何かが見えた。


「あっ、あれ!」


 ユハは思わず指差す。


「アタミラのお城ね」


 シェリウは頷いた。


 運河の先に見えるのは、白磁の城壁だった。城の城壁といえば、石積みや煉瓦積みで直線的な形をしている。しかし、今見えている巨大な城壁は違った。その形は、遠くから見れば曲線を描いていることが分かる。王都アタミラの王城は、円形の城壁によって囲まれていることで知られていた。その表面は陶磁器のように滑らかで輝いている。王城の城壁は抜きん出て高いが、その周囲を、さらに三重に城壁と運河で囲まれていた。そして、その周辺には広大な市街地が広がっている。


「あんな大きな街があるんだ……」


 ユハは呆然として言う。船に乗るために立ち寄った港町など、比べ物にならない。こんな遠くから見ても、どれだけ巨大な街なのか分かる。


「本当に、遠くに来たわね……」


 シェリウの声に小さな不安の色を感じとって、ユハはシェリウの横顔を見る。アタミラを見つめるシェリウの目は、揺らいでいるように見えた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る