第6話 雨の街、護送中
降り掛かる雨がうっとうしい。いつもならゆっくりと歩いて靴音を楽しむだろう石畳の道。今はただ早く抜け出したい。追いかけてくる背広たちの足音が聴こえる。数が次第に増えているようだ。こんなにしつこいとは思っていなかった。
たった一言、『嘘』という言葉に背広たちはひどく驚いたようだった。予定は全て取り消され、私は車に詰め込まれた。雨の中を車は走り、見知らぬ街をいくつか通り抜ける。私はこの混乱に嫌気がさし、されるがままになっていた。
雨が一段と激しくなった頃、車は急に止まった。閉じていた眼を開くと、既に日は沈んでいた。夜の街を街灯がぼんやりと照らしている。新しい背広が近くの建物から走り出してきて、運転席の背広と言葉をかわしはじめた。びしょ濡れになっているせいか、やってきた背広はずいぶんいらついていて、こちらには全く注意を払っていない。
ふと外を見ると、見覚えのある建物が眼に入った。以前に立ち寄って、買い物をしたビルだ。買い物ができるのは演奏会の後に許される、わずかな自由時間の間だけ。頭を巡らせると、他にも記憶の端に引っかかるものがいくつも見つかった。猫の看板を下げたカフェ。独特な形の街灯。この街には来たことがある。
そう思ったときには、もう左手が車のドアノブに伸びていた。隙を見てドアを大きく開き、道を横切って細い路地に飛び込んだ。振り返らなかったが、背広があげた怒号は聞こえた。
それから何分ぐらいたっただろう。息が切れ、体はひどく重くなった。足にまとわりつくスカートをさばくのも一苦労。年甲斐もないことをしただろうか。そんな思いと同時に、私は自分の中で何かが開かれていくのを感じていた。覚えていなかったことを思い出す、そんな感じ。
ハートマン夫人が持っていた銃はゲリラが密輸入した海賊版。政府の広報活動に反感を持つ人たちが渡したもの。アシュレイ夫人は情報局の局員、すなわち背広たちの仲間。そんな、今となってはどうでもいい情報と混じり合っているのは、無数の人々から組み上げられた「不在」。戦争に動員されて、どこかへ連れていかれた人々と彼らの帰還を待ち続ける人たち。そんな無数の人々に関する情報、その行間から組み上げられた「不在」の集積物。
初めてはっきりと意識した。それこそが私の要石で、意図して与えられた行動原理だったことを。
私は一体なんだったのか。
いつの間にか、足が止まっていた。背広たちの気配も消えている。自分がどこにいるのかもよくわからなくなっていた。空っぽになった気分で立ち尽くす。
ふと、何かが私の感覚にそっと触れた。私を振り向かせる何か。ピアノの音だ。雨音の間をくぐり抜け、微かだがはっきりと聴こえてくる。それは私が初めて弾いた曲だった。一番好きだったから、どこに行っても必ず演奏した曲。簡単だけれど、誰もが親しんでくれた曲。
どこから聴こえてくるのだろう。その音が、私にとってのタイトロープのように感じられた。ぐるぐるとまわりながら、場所を探り当てようと耳を澄ませた。そして見つけた。道の反対側、70mほど先。これも見覚えのある建物。二階建ての、小さなホール。
私があの子と出会った場所。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます