第十苦話 青紫雲の龍 中編


 ◐玖三帆十九歳/克巳十四歳/


 桜が散るころ、落人の滝の上流、川岸にあるプレハブ小屋で、わたしは神事のため、身支度をしていた。

 この二月に目出度く坂下のお姉さんは巫女役を辞し、本人の希望通り、山を降りて行った。なんでも、遠い都会にある美容学校に通うのだそうだ。

 クウちゃんが娘さんに駆け落ちを誘われていたことを知っていたが、どうやら彼女は堅実な方法で村を出奔することに決め、うちの同居人は、旅立ちの日も見送りに顔すら出さなかった。

 今月も神事の日がやってきた。

 わたしは玖三帆と違い、根がまじめな性分だ。練習だって欠かさないので、前任よりもよっぽど優等生だとコッソリ言われているのを知っている。

 わたしが鏡を見ながら鬘を整えていると、鏡面ごしに声をかけられた。

「克巳」

 なんでしゃろか?わたしはそう意味を込めて、袴の裾を引きずって振り返り、背後の男を仰ぎ見た。赤袴姿のわたしをジイッと見下ろす能面のような顔が降りてきて、すぐ脇に胡坐をかく。

「おまえ、うまくやっているか」

「何をです? 神事これのこと? 巽ちゃんとのこと? 玖三帆くんとのこと? それとも他のこと? 」

『わかっているくせに』というように、柳さんはにんまりとする。

「葦児の娘が山を降りて、サゾ、おまえは嬉しかろうなア」

「……はあ? 」

 おもわず大口を開けて顎を突き出したわたしを、「ハハハ」と柳は笑い飛ばす。

「だっておまえ、あいつをあの娘と取り合ってたんだろ」

「ぼくがぁ? クウちゃんを? はン、まっさかぁ! 」

「それは本当か? 」

 柳は、好奇心と何かよくわからないもので濡れた目で、わたしの目を覗き込んだ。幕がはためき、入口から夕の明かりが斜めに差し込んで、柳の顔を照らす。陽光に眼が赤みを増して見えた。

 思わずずるりと後ろに胸を引いた。わたしの上に、柳が覆いかぶさるようにして逃げ道を塞いでいる。壁と鏡面が脇腹にあたり、行き場を失くした爪先が床をこすった。

「それは本当のことか? 」

「……ぼくはもう生涯、恋やらはしないと思います」

「フウン……そうか……しかしなぁ、わしにはわかるぞ。わかるんだ。うそつきめ」

 焼けるような目が、わたしをジイッと見ている。目の前の男が、何を言って考えているのか分からない。穴でもあけて、中身を見ようとでもしているのかもしれない。

 ヒュウゥ……幕から吹き込む風が鳴いている音を聞きながら、蛇ににらまれた蛙になって固まるわたしの頭を、おもむろに柳の広い手が撫でた。

「ハハハハハハ……! おまえもそんな顔ができるんやナア……! 」

 何かしらの気は済んだらしい。ぺったりと自分で自分の頬をさわると、ひどく指先が冷たくなっていて、喉の奥に苦いものを感じた。

「そんな顔をするな……わしはおまえが気に入っているんだよ、克巳」

「ぼく、何かしましたか」

「おまえは何もせんのがいいのさ。ナア、わしのところに来ンか」

「……養女にするってこと? 」

「難しい言葉を知っとるんだなあ、おまえは。………いいぞ、望むならなんでもしてやる。ててにも夫にもなってやるよ」

「ぼくなんかを傍においても、どうせ――――」突然、耳の上を強かに叩かれた。

 勝手に体が横に跳ねて、畳の上に落ちる。後から染み出るように痛みが来た。

 うずくまるわたしの上に、立ち上がった男が跨った。

「……おまえが何をしたいかを聞いとるんだよ、わしは」

 口をきくまでに、数分かかった。胸が弾みすぎて痛い。暴力に慣れていない体が、突然のことにびくびくと陸に上がった魚のように驚いていた。しかし緩んだ脳みそが、緊張して引き締まった気がする。短いあいだに、わたしはいろんなことを考えることができた。

 あとから思えばおかしなことをしている時がある。そういう時はいやに高揚していて、何もかもが笑えるし、何もかもが悲しくってたまらない。真っ黄色な閃光が、頭の中を飛び跳ねては弾けて、四方八方に広がっていく。

 逆に、ひどく冷静になるときもある。暗い孔の中にゆっくりと沈むように、脳髄が冴えて、自分でもその冷たさにゾッとする。

 そういう時のわたしは、ひどく刺々しく硝子の様に透き通っていて、色んなものが見える気がする。見えるのは大概、いやなものだ。このとき、わたしは自分が正気であることを痛いくらいに自覚する。

 確かに、わたしは死を望む。

 何も現世への未練がないわけではないけれど。別にこの世が恨めしいわけでもないけれど。

 でも、死の先に何かを望んでいるわけでもないのだ。

 しいていうのなら……そう。

 かつて自害という死のかたちは、やがて死者への道を往く敗者にとって、『名誉の死』のかたちだったという。わたしの願望は、それと似ているのではなかろうか。

 だから精神病者の自殺志願者のように、すぐに死にたいというわけでも、衝動的に死にたくなるわけでもない。

 わたしは正気だ。目的として、死が必要だというだけである。

 ヒトはよく「世界の最後に何をしたい? 」という質問をする。「最期は眠ったままがいい」という現実逃避型のヒトや、「好きな人に告白をする」というロマンチスト、「好物を腹いっぱい食べたい」という食いしん坊もいる。

 そんなわたしが、最後に持つべき欲望として選んだのが、「誰かに食べられたい」ということである。

 人生には妥協も大切だ。母があの人の裏切りに妥協し、許していたように、先を見越してある程度の損害は、想定してしかるべきことである。

 つまりは――――――こいつなら、望んでわたしを食べてくれるだろうか……と。

「あんたは……ぼくをどれくらい気に入ってる? 食べてもいいくらい好きになる? 」

「しやねエ。食べたいくらい可愛いサア」

「ぼくはすぐに死ぬやろうけど……そしたら、食べてくれる? 亡骸を、食べること……できる……? 」

 声に出して『おねがい』することは、初めてのことだった。今度は興奮で、心臓が痛いほど高鳴っている。

「かわいいおまえなら、食ってやるともさ! ああ、よかった。おまえとわしは、おんなじ気持ちやったんやねえ」

「じゃあ、それを証明できる? 」ぼくは跳ねる様に立ち上がる。ぽよぽよと世界が浮ついていた。

「本当に死体が食えるか、食ってみせてよ」

「いいぞいいぞ! それだけでいいなら! どうせ今日、死体が出来るんだからな、それで見せてやる。わしならば死肉の少しも取ってこれる。そんかわり、おまえもわしに誠意を見せろよ」

「ほんとう! 」

 歓声をあげるわたしを、柳の腕が引き寄せた。「本当だよ。わしになら、造作もないだろうさ」

 陽が落ちたのか、差し込んでいた夕日が波が引くように去っていった。部屋が暗くて柳さんの顔はよく見えなかったが、笑っているようだった。わたしも笑っている。

「あんなもの、巽に食えて、わしに食えないことがあるもんか。昔はたんまり食ったんだから」

「昔? それっていつくらい? 」

「おまえが生まれる前さ―――――ああ、そんな話はどうでもいいじゃあないか。約束だよ、克巳。おまえを食ったら、ずうっと一緒……」

 柳さんの腕が腰に巻き付き、指が這ってわたしの下腹を撫でた。

「ねえ……そうすりゃア、おまえはもうおれの体も同然だ……おまえを食う前に、おまえの体を使いたいなア……はもう駄目なんだ」

「どういう意味? 」

「おまえを食うには口がいるだろう。歯もなくちゃあいけないし、胃袋も無けりゃあ、噛みつくだけになっちまう。血肉にすンならあ体が無けりゃあ……ネ?

 ここに、わし孕んでおくれ―――――」

 柳さんは笑っている。ぎゅうっとより強く抱きしめられた。耳に息が差し込まれる。土の匂い……雨の匂いのする冷たい息だった。どこかで覚えのある息だった。

「わしを産みなおしておくれ。そうしておまえが、わしに名前をつけるンだ―――――いいやんね? 約束したんだから……」

 こんなに触れ合っているのに、男の着物の向こうからは、胸の鼓動が聞こえなかった。

 心はぽっかりと、波の無い水に浮かんだ舟のように浮かんでいる。自己という静かな水面を覗き込み、わたしはその男の胸の中で、ひっそりと自分の正体と、願望の意味を理解した。

 ホワイ・ダ・ニット? わたしはどうして自ら死を望むのか?

 これにてQ.E.D。

 それもわたしは、この世が嫌いになりきれない。そんなふうだから、死んでも死にきれない。これはそういう悲劇。

 わたしは、憎むべき悪の道を歩んでいる。

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