第十苦話 青紫雲の龍 前編

 ぼとぼとと、塊のような雨が降っている。

 黒い雨だった。遠雷が近づいてくる。

 やがて、地響きがするほどに風が唸る。咆哮する。

 水の矢に掘り返された土からは、生臭いような、鉄臭いような、青臭いような、おぞましい臭気が水気を辿って立ち上った。


 冷たい雨が降る。

 華が咲いている。

 あなたは誰?

 天に日が差す。

 雨音はやまない。

 土のにおいがする。

 水。水。水。空―――――。

 おうおうと啼く。山の下で、上で、龍が啼く。

 黒い水。岩屋の奥。桶の中の赤子。人魚。老婆。

 人魚が笑う。子供が泣く。溺れる―――――。

 腹の膨れた女が、樹に喰われている。白い花、あれは桜。

 おまえはうそつきだ。雨の中で高く誰かが叫ぶ。違う、あいつがうそつきだ。静かなところで誰かが呟く。

 体が落ちる。

 水に落ちる。

 痛い。苦しい。苦しい。苦しい!

 泥に溶ける。

 ……真っ黒だ。

 わたしは叫ぶ。

 ―――――――わたしは誰だ! わたしの体はどこにある!

 水面を雨が打つ。水を掻き回し、泥が浮かんだ。赤い糸がとろとろと浮かんでは、水に溶けていく。水の中から、白い顔を見つめた。どこかで知っている誰かの顔だった。あのヒトはもう、動くことはない。あの人を呼ぶ。何度も、何度も。

 名前は泡になる。ぽこ……ぽこ……ぽこ……。

 手足が千切れ溶けて、混ざって、丸くなり、一つのものが二つに分かれる。

(……ああ、泣いている。あの子が泣いている)

 あの子が泣くから、雨が降るんだ。

 どこに行くの。

 置いていくの。



 ―――――――わたしは、誰。



 ◐玖三帆十八歳/


「おまえは、死んでもいいのか」

「死ぬときは自分で死ぬつもりだから、いいの……ネエ、きみは死にたくはないんでしょう」

 克巳は、日向の猫のように瞬きをした。

「ソンならぼくが、ゼッタイ死なない御呪おまじない、かけてあげようか」

「そ―――――」

 気が付けば、おれは大きく頭を振っていた。

「―――――そんなもんは、いらねえっ! 」

 細い手首が手の中にある。克巳が本当の猫のように、まん丸く目玉を開けていた。

「おれは……ああくそ……だから女は苦手なんだ! 餓鬼でも女は女だ! 」

 女というものは……いや、ヒトというものは実にややこしい。ヒトという枠組みの中でも、女が特にややこしい。砂粒みたいなことを、まるで津波でも来たかのように気にして――――そう、おれの母親が、そんな女だった。

「おれは知ってンぞ……そんな、アナボコみたいな目をしたやつは、すぐに死んじまうんだ……」

 母親もこんな顔をしていた。よりにもよって、餓鬼だったおれの前で!

 不幸を勲章みたいに口にする女だった。おれはそんな母親が嫌で嫌で嫌で……けれども、その女はもういない。

「どいつもこいつも辛気臭エ顔しやがって……」

 不幸な話をわざわざ言葉にしてぐちぐちと連ねるのは、一番嫌いだ。

「不幸しか自分に寄ってこないような顔しやがって……」

 それが当事者の口からだったのならば、尚更に虫唾が奔る。

他人ひとが、幸せになる気で、辛抱しているところに水差しやがって……」

 克巳は目玉を蕩けさせ、こちらを見ている。おれはその枝キレのような腕を、地面に叩き落すように手放した。

「―――――そンならみんな勝手に死んじまえッ! 」

 背中でビッシャリと扉を閉めた。おれは暗い廊下をドカドカと揺らし、部屋に体を投げ込む。

 おれはただ、疲れていた。よくよく大事なことを考えるのは、寝て起きて、風呂入って飯を食ってからにしなくちゃあいけない。疲れた頭は、ろくなことをしない。休みすぎるくらいでちょうどいい。

 布団に潜って目を閉じた。暗闇が天井から真っ逆さまに落っこちてきて、おれは何も変わらない朝日で目が覚めるのだ。

 どうせ勝手に日は昇る。今日は曇っていたので、ちょっと雨くらいは降るかもしれない。そうしたら、外の土塀に干してあるやつを屋根の内に入れなくては。

 大事なことは、寝て起きて、腹をいっぱいにしてからだ。

 おれはそう決めて、どこか水の匂いのする闇に、身を任せて沈んだ。

 ひそひそと囁く女の声で、おれは暗闇から、うすら明るい微睡みに浮かび上がった。

 それはどうやら布団の真横の襖を隔てた向こう側、廊下の方から聞こえてくるようだった。

 おれは布団から顔だけを出し、窓の外を枕の位置から仰ぎ見る。東向きでいちばんに朝陽が差し込むはずの擦りガラスは、重い藍色に染まっていた。

「こんな……泥棒みたいなことをして……明海あけみ……聞き分けなさい……」

 ……坂の下の、さと子│小母おばさんの声だ。

「うちには分かりやらん……お母さん、どうしてそんなことを言うの」

 これはその、娘さんの声。

「声が大きい……わたしはここではよう話さん……さっき言うたので全てやっで。ここにおっても仕方ない……見つかる前に帰ンましょう、明海……ネ? 」

 ……これは誰の声だ? 合鍵は返してもらったのに……どうして。

「しやっても……! 」

「馬鹿なことを考えンやないで明海……っ!」

 ナンやら数人で言い争っている……。

 そして、さと子さんは言った。

「言うたやろ……! 山を降りるなら、あン子を巻き込んだアいけん……互いに不幸になるだけやっで……玖三帆はもう手遅れや……可哀想に。あン子には昨日、水を飲ませたんやから」

「そんな……ひどい! お母さんっ! 」

 ……おれは直感した。

 これは面倒ごとの匂いがする、と。

 壁に耳あり障子に目ありという。あんたたち、その話をここでするんじゃあない。頼むから。

 おれは例のごとく、とてもとても、非常に面倒くさくなったので、手近にあったチリ紙を引き寄せた。手指が畳を擦り、衣擦れしたその音で、扉の外の動きがいっそ不自然なほど沈黙する。おれはチリ紙を丸めて耳に突っ込むと、全部夢ということにして目を閉じた。

 女の泣き声が、闇の中に遠くなる。やがて静寂に被さってくるこの音は、潮騒だ。

 ざざあ――――――ん……

 ざざあ――――――ん……

 ――――――かわいそうに。

 ――――――かわいそうに……。

 女の声だ。どこかで聞いた覚えのある、すすり泣くような女の声だった。

 ――――――あの子はもう、この海には来ないのね。

 ――――――ああ、あれは仕方がない……もう手遅れだ……。でも大丈夫、きっと玖三帆は殺されないさ……だってあいつは、大切な……。

 ――――――しいっ!

 ――――――……おっと……ああ、でも、あいつはあそこの水を飲んでしまった……。瀧川の水を飲んでしまった……。

 ……飲むとどうなる?

 おれはその声に問いかける。

 ――――――瀧川の姫は離さない……水を分けた子供たちは、残らず手元の置いておきたいのさ……姫は嫉妬しいの寂しがりで有名なのさ……。

 ――――――やはり逃げられなかったのさ……。ああ、惜しいことをした……。あの時潮に浚ってしまえばよかった……。

 ――――――おまえが大きくなるまで待とうと言ったんジャアないか。もったいない……忘れていたよ。おまえはすっかり水が怖くなっちゃって、あたしたちの海に来なくなってしまったから。ああ……餞別に教えてあげる。瀧川から出られるのは女だけ……。その女が子を産めば、どこに行っても迎えが来る……。

 おれの母親は、それを分かっていたんだろうか。

 ――――――どうだろう。でも、おまえたちもそうだったじゃあないか……なあ? そうだったろう? なあ、なあ……なぁあ………。

 そオうぅだったろォ………ォオウウゥゥゥウウウウ………―――――――。


 ◐玖三帆十八歳/


 目を覚ましたおれは、のろのろと気鬱を背負って家を出た。陽は高くのぼり、てっぺんより少し東寄りである。黄金の稲を横目に段々を降り、赴いたのは長老たる老婆のもとだ。鍵のかかっていないガラス戸を勝手に開け、上がり框から家の奥に向かって家人を呼ぶのが、この集落の訪問の作法である。

「すみませぇん」

「はあい」

 しばし後、出てきたのは、痩せて眼鏡をかけた初老の女性だった。

「弥百合さん御在宅でしょうか」

「あらご丁寧に……お母さんなら、いま柳さんと。まあお上がンなさい」

 これは好都合だと、おれは断って弥百合夫人と柳さんが歓談しているところに乗り込んでいった。歓談というのは語弊があったか、襖の向こうでは厳かな様子で、手つかずの茶碗を置いて膝を向かわせている。その視線がいっぺんに向く、下座の端っこに座ったおれは、「あのう」と、冷や汗をかきながら切り出した。

「今日の神事に、出たくないんです」

「あらぁ」

 娘そっくりに、弥百合夫人は声を上げた。「でも玖三帆くん、ここじゃア男の人は、みんな神事にや出やるんですよ」

「承知しとります。こん度わざわざ招いてもらった身で、おこがましいことをいいますが、おれはご遠慮させてください」

 柳は顎を撫で、じっとおれを見ていた。

「……いいんやぁないか」柳の方は、なんでもないように口を開いた。

「別に、神事に参加するしないは自由やっで。玖三帆はナンかの役目があるわけでも無し、外から来た奴にゃあ馴染めんこともあるろうな。弥百合、ええやろう」

「や、柳さんが、そうおっしゃるなら」

 夫人は眼を白黒させている。

 間近で見ると、男は若い。おれと十かそこらしか変わらないんじゃあないだろうか。柳の面差しは、我が事ながらも鏡で見るこの顔に似ている気がして、おれはやはりこの集落の血が入っているのだと感じる。

 この人は何者なのだろうと疑問が頭を掠めたが、おれは深く考えないことにして、ただ頭を下げた。


 ◐玖三帆十八歳/克巳十三歳/


「なんでまだ、おれはここにいるんだろうナア……」

「なによう。クウちゃんたら、哲学ってやつ?」

 居間でおれが剥いてやった林檎をむしゃむしゃと食べながら、克巳は言った。

 あの夢は本当だったのかも、とは言わない。だっておれは、逃げるだなんだと考えながらも荷造りひとつしなかった。きっと無駄になるだろうという気持ちが蔓延ってしまって、何もかもがどうでもよくなってしまったのだ。

 おれのため息に、克巳は眉を寄せた。

「ヴヴン……なんや辛気臭い……喧嘩売っとンのか? 」

「はあぁ……おれはナア、いま、すっごく憂鬱なんだ……」

 克巳としかめっ面を見合わせていると、平手が飛んできておれの額を強か叩く。「イテエ」

「なンよぉ。ぼくン友達が来るっちゅうだけやないのぉ」

「おまえ、友達ったって……そらあ神さまなんだろう? やだよォおれ……気イ使うやあないか……はア、なんだって面倒な……」

 克巳は見せつけるように、ニッコリとした顔をおれに向けた。

「巽ちゃんはいい子やぁで。嫌わんでやって」

「おれはナ、克巳。自分で言うのもなんやけンど、イチで頑張るか、ヒャクで怠けるか、センで爆発するしかア無い人間なんやな。好き嫌いはそん次の問題でナ」

「知ってるぅ。百で頑張ってよお」

「知っとるやろ……おれは加減がナ、苦手なんよ。神さまをブン殴るかもしれねえ……したらどうする? 」

 克巳は器に残った最後の林檎に、ざっくりとフォークを突き刺す。

「フン。言い訳するやつは嫌いなんやろ? 気張りナやア」

「…………」

 取り付く島もないとはこういうことか。おれは黙って、克巳の手からフォークを毟り取った。


 巽という女神は、神主に連れられ、忍ぶようにして明け方ごろにやってきた。

 柳という神主は、別れる直前まであれやこれやと主の世話をやき、まるで初めての幼稚園に子供を預けた父親みたいに後ろ髪をひかれる様子で、小さな人魚を我が家に預けていった。

 たいして話したこともないが、柳という男はあんなに甲斐甲斐しい印象の男だっただろうか? もしかしたら、巽さまの前でだけ見せる顔なのかもしれない。

 これより週に数度、克巳と遊ぶために、彼女はここを訪れる。

 正直、気が重い。

 けれど、ここで生きていくのだとしたら、これは好機と取るべき特例なのだった。しかし、もともとのおれには、そんな野心を持つような心の余裕は皆無であるのでつまり……ただただ気が重くなるばかりなのだ。

「巽さまったら。マァた、こんなところで寝て……」

 別に巽さまは嫌いじゃあない。彼女はとても素直で、大人しい娘だった。

 夕刻になると、柳が迎えに来るので、渡しておれの任務は終了だ。同時に、おれたちは夕食の準備を始める。

「……クウちゃんはどうして、まだここにいるの? 」

「なんだ。出て行ってほしいんか? 」

 克巳は茶碗を手に箸を止め、ひどく顔を顰めた。「……そうかも」「そうか」「いや……ごめん。やっぱり違うと思う」

 珍しく口ごもってうんうん唸り、克巳は両手の茶碗を上げたり下げたり身悶えしている。その間におれは漬物を齧り、みそ汁を啜って、煮物の皿を空にした。ぽりぽり漬物を齧る音だけが響く中、克巳はやっと顔を上げるや、おれを顔を見て特大のため息をつく。失礼な。

「カッちゃんは怖くないの」

「お前は怖いんか? 」

「質問を質問で返さンで」

「……おれはな、どこで死んだっていいんだよ。おまえだって似たようなこと言ってたろ」

 おれは口の端っこで笑ってみせた。

「おれは面倒くさがりなんだ。ここから逃げる労をとるより、ここにいてみようって思っただけやって……怖いから、あの神事とやらには関わりたくないかなぁ」

「……下の明海姉ちゃんに、一緒に行こうって言われてンでしょう」

 ごきゅりと喉が鳴った。……どうしてそれを。

「駆け落ちって、いうんでしょう」

「エートな……カツ。おれは現実主義者なんだ」

「しやねぇ。わかるよ。山ア二人で降りたところで、金も仕事も無い夫婦じゃあ苦労どころじゃ無いやろうしね。あとクウちゃん、あの人はタイプじゃないし」

 おれは肩をすくめた。こいつは時々、おれ以上に現実主義者だ。

「そういうこと。……それにおれはさ、思うんだ。この山は、降りようと思って降りられるもんなんだろうか、って」

「なに言うとンの。バス運転手の松弥さんなんて、毎日山を降りてるやない。高校は街にあるし、麓の仕事がある大人だっているのに」

「……マ、そうだよな。冗談だよ」

 しかしおれは思うのだ。

 ただ降りるだけじゃあない。んだとしたら、あいつらは追っかけてくるんじゃあないだろうか。

 おれは、母親がのことを思い出す。

 母親が三日、ただ家で呆然としていたところに、訪問者があった。

 母親の故郷の親戚だというその男が、おれをこの瀧川に誘ったのだ。

 おれは土地を離れたい理由があったので、否もなく誘いに乗ったのだけれど……さて、あいつらは、どうしておれたち母子の居場所を知っていたのだろうか。

 その違和感に気付かなかったわけじゃあない。今さら何を言うというような話だ。

 でもおれはもう、あの夢が本当のような気がしてならない。

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