第十五話 焼けのが原 後編

 あの時も、おれは逃げた供物を追い、すぐに神事の最初の出発点である滝まで駆けた。神主となったはいいが、未だ手馴れず、供物が逃げたとなれば自らも人手の一人として駆けずり回っていたころだ。

『空御身の滝』は、滝口から水面までの高さが大人の男の背ほどしかない、小さな滝である。川の流れに逆らい、上流の滝まであと少し、木々の切れ目から白い飛沫が見えようというところで、おれは前方から見知らぬ若い男が駆けてくるのが分かった。

 おれはそれを視とめると足をゆるめ、街道の外れ、木々の隙間にある岩に腰を下ろした。男はおれに気が付かず、目の前を通り過ぎようとする。

 ―――――――あっ! おい、そこの兄さんっ!

 おれは、情けなく慌てた声色で男を呼び止めた。さも木々の合間に身を潜めていたふうを装い、男に近づいていく。

 ―――――――待ってくれよォ。おれ、おれ、おれもおんなじなんだよぉ。ま、待ってくれよ!

 ―――――――……なんだ! あんまり大きな声を出さんでくれ。捕まっちまう!

 ―――――――す、すまねえ……でも、あんたが逃げたおかげで、おれも逃げることが出来たんだ。恩返しをさせとくれ。協力しようじゃあないか。

 ―――――――ばかをいうな。てめえみたいな鈍そうなやつと逃げたら捕まっちまう。おれは行くぞ……。

 ―――――――ま、待ってくれ! ……とうやらあんたとおれは、捕まっているところが違ったようなんだ。おれは聴いたんだよ、どうやらこの山を一番早く降りる道があるらしい……な、な? いい話だろう。見たとこ兄さんは漁師だろ。その道ってのは、舟で川を下るんだそうだ。な、兄さん。おらぁ水が苦手なんだよぉ……いいだろう? なっ。

 男は渋々ついて来た。

 ―――――――はあ……ふう……なあ、おまえ、ずいぶんと山歩きに慣れていやがるんだな。

 ―――――――まあなぁ。これでも漁師の見習いやってんだ。こんな年になっても独り立ちできねえ小僧扱いだけどよぉ。

 昼でも薄暗く、木々がみっちり密集した森である。足場も悪く、男はすぐに息をあげていた。おれはつらつらと法螺を吹きながら、慣れた獣道を辿り、山肌を蛇行するようにして、たっぷりの時間をかけて、男をそこに案内した。

 ―――――――な、なあ、まだか?

 ―――――――もう少し、もう少しだ……ああほら、あそこに聴いた目印の付いた杉の木があるだろ。あれを横切って、もうすぐだ。ここのやつら、船は大事だからってんで隠してんだよ……あっ、ほら、あばらやが見える。きっとあれだ! なあ、なあ、おれが様子を見てくるよ。だからちょっと待っててくれ。

 おれは男から離れ、木々を縫ってあばらやへ近づく。あばらやの裏手には集落でも選りすぐりに屈強な男衆が数人集まり、めいめい網やら銛を手にしていた。

 ―――――――どないしや、柳さん。

 ―――――――供物が逃げやったんや。そこの森におる。おれが誘い出すから、おまえらここで網に掛けやアし。わかったな?

 我ながらにして、こうしたことが本当に上手いと思う。おれは男が網にかかったの見届けると、ゆったりと洞に戻り、着替えて逢魔が時を待って滝に向かった。供物の男は網に絡まったまま、ぐったりとして川辺に転がされていたが、おれの顔をみるやいなや、わあっと起き上がってがなり立てた。

 ―――――――だましやがった! だましやがったんだな! このくそがき!

 ―――――――柳さま、いか程にいたしましょうや。こんどの供物は暴れに暴れましてや……ここぞという時に踏ん張りますんで、網を三枚かけたうえに、こないして重石を置いておんのです。供物に血を流させるわけにあいけませんし、空舟にあ折りたたまんと入りゃしません。こンまんまじゃあ刻限に間に合いませんや……。

 確かに今回の空船は、この男には小さすぎて、ひざを抱えるように押し込まないと入らないだろうことが分かった。

 ふうん、とおれは頭を捻り、考え付く。

 ―――――――こいつは漁師やと言うとった。もしかしたら空船に押し込んだとて、どうにか抜け出して泳いで岸に上がるやもしれん。

 しれっと口ではそう言ったが、空御身の滝は高さのわりにその滝壺は存外深く出来ており、滝と比べて三倍もあろうかという深さで、落とされた供物はたっぷり半刻は浮かんでこない。やがて滝壺から見当違いの川の深いところから、プッカリと浮かび上がってくるのが常である。それに空船には蓋を閉め、ビッタリと釘を打つのだ。

 首をひねる男衆をぐるりと見渡し、おれは得意の詭弁をふるった。

 ―――――――首に二本、丈夫な縄をかけや。そんで、あっちと、そっち……両脇の川岸まで縄持って戻ってや、供物を滝口に流しイ。したら首を支えに滝ンとこにぶら下がり、首の骨だけスッポ抜けて血も流れん。あとは縄を手繰って、供物を空船に入れりゃアいい……。

 ―――――――エッ、エッ、けんど柳さま。そんなことせんでも……。

 ―――――――鳥食うときゃア絞めるモンやろ。鹿も、猪も。そいから血を抜く。龗様は、首の骨がくっついてるかどうかなんて知らやん。穴の開いていない血袋ならばえンや。しやろう?

 供物は蒼くなって震えあがっている。男衆も顔を歪めていたが、動きはのろいながらもめいめい動きだした。供物を網の絡まったまんま担ぎ上げ、船に乗せようとする。供物の男は言葉にならない罵倒を喚き散らし、自分を持ち上げる腕の中で生きの良い魚のようにのたうって、浅瀬に落っこちた。

 おれは取り落とした若衆を睨み付け、水しぶきをあげて芋虫のように這っていく男の背を軽く踏みつける。肩のあたりに馬乗りになり、首に右手を添え、左手で後頭部を押さえつけた。耳から下になる顔半分が墨色の石の間にぴったり嵌まりこみ、ぶくぶくとあぶくが浮いてくる。三枚掛けの網の目を縫って暴れ狂う男の爪先が、自らにまたがるおれの足首にかかり、ぎりぎりと締め付けてくる。

 やがて一仕事を終え、露を払い払いよろめきながら立ち上がったおれは、慄く男衆に向き直り、それを指さした。

 ―――――――おい、まだ殺しとらんぞ……神主が殺しをするか……ええか、よう見イ。一度逃がしてまうと、こうしていたずらに苦しませることになる。供物は供物でしかない。供物になった時点で、それは人間やないんや。龗様に捧げる供物なんやで。おまえらにとって、儀式とは飯を食う種を撒くことやと心しィ。……ほら、なにをマゴマゴとやっとンねや。はよ供物を空舟にしまいや。次からは、逃げた供物はおれがさっき言うたとおりに首に縄ァかけるんやで……。


 あの時に大口をたたき、自ら供物の男の首を押さえつけたのは、男衆をよりうまく動かすための味付けのようなものだった。

 これであいつらも、みすみす逃がすような真似はしないだろう……そんなふうに思ったそれが、今ではどうか。

 おれは中州の尻側に立ち、縄で隙間なく、肩の根から股上までを縛られた男が目隠しをかけられ、おもちゃのようにヒョコヒョコと河口へ向かって歩かされているのを、ぼんやりと見つめた。煙草でもふかしたいところであったが、さすがに神主の装束では口寂しいのも我慢するしかない。

 男の首に、縄の輪が二本かけられた。滝下では、漁師たちが手慣れた様子で網を広げているに違いない。

 むこうの川岸で若衆が一際どやどやと騒いでいた。中にはあの時分には新参だった少年もいる。いまや少年という年でもなく、にやにやと無精ひげの下で笑いながら、供物の行方を目で追っている。

 左右の縄の端は船に乗せられ、それぞれ左右の岸にある木に縛られる。中州の先端、滝を見下ろす位置に座らせられた供物は、木板の上に押し込められて寝かされる。箱には首の横あたりに左右に一つずつ、孔が開いており、それは首から垂れる縄を通すための孔であり、けして空気孔ではない。箱に詰められ、横から船大工役がガンガンと釘を打った。中はきっと、自身の呼気で蒸せるほど狭い暗闇であろうし、孔から吹き込む外気はことさら冷たく肌を刺すであろう。そして今ごろ、その孔だけが、供物が見る最後の景色だ。

 どの供物も、最後は必ず言葉にならない声をあげる。ときどき滝下で受け止めた網から出しても、息があることがあるので、向こうの岸で、今度はどうだろうか、などと言う声が聞こえる。

 次にあの箱舟に入るのは、そう声を交した隣人かもしれないし、自分自身かもしれない。しかし彼奴等は、それでもいいのだ。

 空船に乗てしまえば、供物はヒトを捨て、最後の皮を破って獣になる。水に食まれて嚥下され、肉というモノと化し、そうして抜け殻は人魚の餌になる。

 彼奴等は信じている。死の果てにはまだ次があり、幽世への旅路へ向かうだけだと。恐怖には終わりがあり、苦痛はいずれ取り除かれる。

 そうでなければ、あまりに現世の身は哀れだからだ。


 ことん。

 不意に何かが落ちる音がして、おれは運転席に舞い戻ってきた。

 フロントガラスの向こうで消波ブロックが山と積まれ、白波が見え隠れする。外は陽が落ちかけ、すぐ横の窓から熱い西日が差している。

 その音は、助手席でウトウトする巽の膝の上から、買い与えたばかりの大判冊子が滑り落ちた音だった。外国語の青鼠色をした本は、紙がぎっしり詰まっていて結構な重さである。

 巽が強請ったあの絵は画家にとっての代表作らしく、絵具の陰が分かるほどの細密な印刷で掲載されていた。

 おれは膝の上にそれを戻してやり、スカートの裾を捲って鱗にあてた布が渇いていないことを確認すると、寝息で上下する胸元にまで毛布をかけてやった。おれも暗幕をかけ、シートを傾けて一息つく。いくら暗くしても、ちょっとの明かりさえあれば、おれの目は仔細を映すようになっていた。眼を閉じ、初めて物事の形から遠ざかることができる。

 静かだ。

 あんまりにも静かだ。

 人魚とは、ほとんど息の音がしないものである。ともすれば死んでいるかのように、口をぴったり閉じて、寒々しく手足をあわせて縮め、胎児のように丸くなって眠る。……他の人魚もそうなのかは知らないが、巽はそのようにして眠る。

 しじまの中にいると、頭の中で勝手に水音が聞こえだす。

 シトシト……

 ぴちゃぴちゃ……

 ざざざ……

 ドウドウドウドウドウ……………

 ―――――――ネエ、お兄さん、ぼくンとこ来た人でしょう?

 今くらいの秋だったと思う。時代は進み、世間が不景気だなんだと煩かった。

 龗神社から集落に向かっての道すがらには、前日の雨で赤茶けた落ち葉が地面の上に貼っついていて、おれは道中、二度ほど転びかけた。小川の脇で克巳は、枝の切れっぱしを片手におれを待っていて、開口一番にそう言った。

 ―――――――おまえ、春に集落ン来た子供やろう。……というような感じに、おれは返したと思う。そのガキは、一見して垢抜けず埃っぽいにおいがしたし、目鼻立ちも特別可愛らしいわけではない。最初の頃はむしろ、目玉の白いところばかりが目立った無愛想なガキだった。

 ―――――――しやで。ぼく、お兄さんが山に来いっちゅうから来たんや。忘れた?

 ―――――――……おれが? そら勘違いや。

 おれはもちろん、この山を下りることは出来ない。この百年余りは山に引きこもりっぱなしだった。

 ―――――――ウウン……お兄さんやったよォ。もう一年くらい前やけど、ぼく、覚えとんもん。

 穴のように真っ黒い目ん玉が、おれを覗き込むように見上げていた。生暖かく土臭い息が、鼻先にかかる。


「ぼく、ちゃんと覚えとるンよォ。嘘つかんといて……」


 跳ね上がって起き上がり、車内灯をつける。手の平で顔を拭うようにこすった。

 いつしか外は、とっぷり日が暮れて月が高いところにある。

「やなぎ……? 」

 隣で巽が薄らと目を開けた。

「……なんでもないですよ」

 巽は眉丘に谷を刻み、唇から前歯を覗かせた。「なんでもないって顔していない」

「平気です。夢見が悪かっただけです」

「……帰ってきてから、たいしたこと口にしてないじゃないか。何かあったんだろう。わたしには何も言えない? 」

 巽は重い腰を引きずるようにして、運転席にまで体半分身を乗り出した。「わたしじゃ駄目? わたしはまだ駄目か? 」

 きらきらと碧の目が目前にある。恐怖に似た、言い知れぬ予感がして、おれはわずかに身をすくませた。

「巽? 」

 巽の指先が、おれの服に控えめに縋ってくる。

「ねえ、柳、わたしはまだ綺麗じゃない? わたしは、わたしは……おまえになんだってするよ。わたしが出来ることなら、なんだってしてやるよ。だから、だから……」

「それは、わたしと夫婦になりたいって、そういう意味ですか」

 彼女の頬はおれの言葉に一瞬白く血の気が引き、次には耳の先まで赤くなった。怯んだように手指が離れていく。

 巽は首を垂れて丸く縮んだ。

「わたしは、おまえがこわい。それが悔しい」

「悔しい? なぜ」

「おまえが酷いやつだって知ってる。酷いことをいっぱいしてきたって。でも、わたしはおまえがいないと生きていけない……なのに、おまえをこわいと思う自分がいやだ。わたしはなんでこうなんだろう。なんで人魚なんだろう。オンナジ人間だったなら、きっともっと、うまくできたはずなんだ。……どうしようもできないことが、悔しい」

 巽は震えていた。

「でも、わたしが人魚じゃなけりゃ、あんたはわたしを特別にはしなかった。それも悔しく思うんだ。ねえ、わたしは美しくない? まだ綺麗じゃない? 」

 毛布がめくれ、座席の下にぶら下がる巽の足が見える。鱗がささくれた足は、皮膚が渇いてついた傷が無数に存在している。おれの視線に気が付いた巽は、苦い顔をして裾を引いて足を隠した。

「知ってるよ。おまえは克巳が好きだった。そうだろう。わたしはまともに歩けもしないし、いつも血に飢えきった人魚だ。わたしに食われやしないか、おまえが怖がっているのも知ってる」

「お、おれは……」

 やっと絞り出したおれの声は、みっともなく震えて掠れている。

「くやしいナァ……どうしてわたしは、人魚なんだろう。どうしてこんな時に泣いちまうほど弱いんだろう……」巽はよりいっそう項垂れ、ぽろぽろと真珠のような涙を零した。

「……でも、柳、わたしは悔しいよりも、こわいんだよ。おまえはどこにも行かないで。わたしをおいてかないで。なんでもするから……夫婦にでもなんでもなるから……」

 だからどうか、どこにも行かないで、と、巽はつぶやいた。おれははっとする。

 ―――――――ああ、こいつはおれの時が短いことに、気が付いていたのだ。

 そうだろう。だって毎日のように、この腕で抱えているのだから。

「あなたは……き、綺麗です」

 こんなことは初めてだった。おれは奇妙なことに、途方に暮れるほどに困っていた。人魚が綺麗なのは当たり前のことである。おれはその、当たり前のことしか口にできていない。

 巽は長い間泣き続け、やがて疲れ果てて眠った。おれはといえば、言葉を忘れたように舌が引っ込んでしまい、ぼんやりと何もない天井を見上げたままで夜が明けた。そのころにようやく金縛りが解けたように、よろよろ車から抜け出し、真っ赤に爛れたような朝焼けを睨んだ。

 腹の底がひんやり冷たく、ひりひりと痛んだ。

 巽はおれの生涯をかけて手塩にかけた花であった。そもそも手折れば喰いつかれる花であると分かっていたから、はなから手を出す気は無かった。あれは見て愛でるものだ、と幾夜も自分に言い聞かせてきた。

「なんでもするから」と繰り返した巽の声が、頭蓋の中で反響している。自分の欲望をまざまざと自覚する。

 しかしおれは知っている。巽のやつが忘れているすべてを、おれが持っている。

 だっておれは、もう自分の正体を思い出していた。

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