第十五話 焼けのが原 前編

 白い大地が広がっている。鳥の一羽も飛ばない凍えた闇しか無い大地の上で、裸足のまま立ち尽くしていた。

 足はもはや痛みも感じず、胸の中には虚無だけがある。

 永遠程に長い夜を、そうして過ごしていた。やがて表土を割って、小さな芽が出る。ぬっとりと濡れた棘のついた芽は、体に巻き付きながら、するすると伸びていった。

 芽はやがて木になる。葉も蕾も芽吹かない。裸で細く鋭い棘を持った枝が、蔓のように伸びて脚を囲い、肉を食んで、土に水が染みるように血の管へ根付いていく。陽も水も、この木は必要としない。いるのは寄生する相手だけだ。

 おおう、おおう、と風が唸り、肌を強く叩きはするけれど、もはやそれも遠いところの出来事。微睡むことも無く、ただ星ばかりが明るい黒い空を見上げる。いや、あれは、本当に星なのだろうか? この夜は終わらないというのに。

 ずきり、と腹が痛み、ふと虚無を覗くのから我に返った。なんてありさまだ。おぞましい。醜い木にも、どことも知れぬ白い大地にも、そして、いつしか餓鬼のように腹を膨らませているこの身にも、恐怖が奔り、竦みあがる。

 胎動する。知らぬうちに、この腹の中に何かがいる。

 のけぞり、頭を動かすと、枝に絡まった髪が引かれた。

 枝は緩慢な仕草で揺れ、蠢く。いつしか枯れ枝は、無数の蛇の頭を持っていた。彼らは腹の皮をちろちろ摩るように撫でては、ときどき肉の感触を味わうように這い、満足そうに鼻を鳴らしていく。

 やがてまた、永遠にも近い時間が経つ。


 木は裸のまま、葉も蕾も芽吹かない。かわりに鈴なりに実を付けた。それらは赤子の形をしている。目が顔の半分もあり、生白く、歯の無い口を大きく開けて泣き喚いては、乳を強請ってまさぐってくるのだ。

 幾ばくの時が過ぎたのだろうか。

 永久の日暮れたる白夜の空の端がやがて、白々とした光を漏らしだす。

 黒い影にすぎなかった山々を青白く染めていき、僅かにも、この足元にも陽光が届いた。

 張りつめて鉄のように鋭かった枝がやせ細っていく。赤子たちはもがき、一斉に泣きだした。枝は揺らめく。大きな総身を揺らし、無数の蛇たちはただの枝に戻っていく。


 暁だ!


 待ち望んだ暁光は、もはやこの木の根元まで来ていた。冷たい夜気が押し流されていく。

 枝は炎のようにくねり、片手でそれを制しながら、髪が引かれてのけぞった。胎の中でもがき、蠢くものがある。

 仰いだ空には、淡い青が刷かれつつあった。

 ああ、あつい、あつい。燃えるようだ。

 赤子が獣のように叫び、しゃむにに柔らかな乳房の尖りに食らいついてくる。

 天空に鳥が一匹飛んできて言った。

 呪いとは、因果の糸と糸とを結ぶこと。因果とは、これからの運命と、すでに終わった運命のこと。糸とは縁、縁は決して切れぬ糸。我らは縁で機を織り、因果の布で、この世を覆う。

 いざないたまへ。いざないたまへ。

 我らを因果の外へといざないたまへ。

 我ら機織り娘。

 ともがらよ。もう忘れたか。おまえの選んだ因果の代償を払うのだ。

 我らを因果の外へといざないたまへ。

 ……ああ、逃げられない。


 朝が来れば、やがて赤い空がこの身を焼き、何も見えない夜が来る。今、闇に見えなかったものが、まざまざと照らし出される。

 この足はすでに、地を踏める脚ではない。この総身は一輪の花。この木に咲いて、実を付け、肥らせるためだけにある花である。

 あちらの丘に連なるものを見よ。あれは次のわたしたちだ。

 咲いては枯れ、またああして生まれ出でるもの。終わりはこない。

 赤子の小さな手が触れる。

 ネエ、おかあさん。はやくちょうだい。

 ああ……わたしの枯れる日も近い。


 ◐


 隣で短くか細い悲鳴をあげて、巽がシートから起き上がった。

「どないやした」

「……いや、何も……何か、怖い夢を見た気がして……」

 巽はそろりそろりと探るように視線を動かし、やがてすぐに自分が車での移動中だと知れると、ふっと疲労の混じる安堵の息を吐いた。窓の外が雲一つの無い快晴だったことも、安心の要因のひとつであろう。

 窓のふちに頬を乗せ、窓の外を見る端正で小作りな横顔を見ていると、ふと、尻の下が宙にポンと浮いたような不思議な気持ちになる。長く重ねた年月の中で、ちょっと手を伸ばせば届きそうな百年前の記憶もあれば、途方もなく海の彼方にあるような五年前の記憶もあるのだから。


 おれは高速道路を飛ばし、県を五つは超えるつもりでそこに向かっていた。

 おれは、かつてのそこに思いを馳せる。五年前、あの台風で大きな土砂崩れがあり、かなりの被害になったと聞いた。山にあったいくつかの集落が廃村となったのだそうだ。それをテレビのニュースで見た時のおれの気持ちを、誰であっても説明できるやつはいないだろう。また、再びそこに向かおうとしている今のおれの気持ちも、誰であっても理解できまい。

 暴風雨のような混乱から立ち直り、すっかり心は凪いでいた。しかし空が明るくなれば、暴れた気持ちの残骸が散らばって見え、なんとも苦々しい。

 あそこは、おれと巽が一度は根を下ろした場所であり、克巳と玖三帆が死んだ場所であり、おれが君臨した王国のようなものだった。少しずつ、少しずつ、長い時をかけてあの集落に自分の匂いを刷り込ませ、支配してきた地なのである。おれは後悔していないし、後ろ暗いこともない。何ら怖いものは無い―――――――はずなのだ。

 バックミラーから、やつれた顔の中年が見返してきた。―――――――そう、おれはもっと怖いものを知っているんだから、幽霊如き……。

 巽は狭い助手席で、もぞもぞとしきりに足をすりあわせ、顔の半分ガラスが曇るほどの溜息を吐いた。



 ―――――――珍しいほど綺麗な女を手に入れた男は幸せだ。

 と、そんな持論を実践して教えてくれたのは……親父だったか。死んだ兄貴は、親父のそんな性分を根っから嫌っていた。そんな男が、人魚の誘惑に死んだのだから、可笑しくてたまらない。

 珍しい綺麗な女。おれは親父の上を行ったと誇らしい。克巳はその点、ただの人間だった。珍しいほどに妖しく魅力的に見えたたけれど……それでも、あいつは人間のガキでしかない。死んでからそれを思い出し、ほっとしたのだ。

 いやあ、しかし、おれは、それはもう悩んだものだ。おれは克巳を手に入れれば、確実に狂うだろうという根拠のない確信があったから、克巳と巽、衝動と理性との間でぶらぶら揺れたのである。



 おれは園芸を嗜んだことは無いが、それでも道端の雑草と思っていた草が綺麗な百合に似た花を咲かせたら「オッ」と足を止めて摘み取りたくなる。

 落す花粉が毒だと分かっていたって、玄関にでも食卓にでも飾りたくなってしまうのだ。だって、あんなにも綺麗なんだから。

 あのころ巽は五十、六十と過ぎても皺くちゃの婆あのまんまで、これもまた花にたとえるのならば、綺麗な花を咲かせるよ、と手塩にかけたのに、いつまでも葉っぱのまんまで蕾一つ兆しが無いというような……そういう落胆が胸にあった。

 しかしこいつの足だけは綺麗だったので、もう少し、もう少し……と考えているうち、こういうことになってしまったのだ。

 どんなに高い金魚も、ああはならない。銀のような、蒼のような、藍のような、碧のような、かと思えば桃色のような、黄金に反射することもあった。きらきらとした鱗と優雅に長いひれ。おれは水の中を生き生きと掻いて泳いでいく巽の後ろ足を見るたんび、熱っぽく溜息を吐いたものだった。

 綺麗なひれは失くしてしまったが、おれの宝物は百年余りかけてやっと、その価値を分かりやすくおれに示してくれた。

 当の本人は、また、こっくり……こっくり……舟をこいでいる。

 フロントガラスの先にある青い看板の白い文字が、旅路の半分を示す。おれの意識は、さらにあの山に馳せていく。



 あの村には、不思議な慣習があった。『おかみ様』というものを信仰し、昭和初期までは完全に下界とは切り離されていた。いわゆる隠れ里というものだった。壇ノ浦の後、逃げ延びた平家の落人が拓いたというが、真偽は定かではない。

 山肌を撫でるように木々が拓かれ、碧い木々の並ぶ森林と、田畑の黄緑の対比が美しい集落である。

 家屋や田畑は、その勾配を利用して階段状に存在し、霧が切り開かれ朝陽が覗いてくる様子は、まるで常世の光景だ。

 おれらがあの村に来た頃は、だいたい五十から八十ほどの住民がいたように思う。

 村の中心からちょうど南に位置する山奥に、その『龗神社』はある。それは山肌に出来た亀裂の先にある洞窟と、洞窟の後部より空いているという水脈、さらにその水脈の上流にある『おちうどの滝』を含めたまでがこの神さまの陣地だという、ひどく長細く伸びた神域を持つ。

『龗様』は水を司る龍神だというだけに、そこは水の豊かな土地であった。豊かすぎて夏のたびに水害が絶えず、彼らは治水のため人柱を立てる風習がある。その神社の水脈の上におれたちは幸か不幸か落っこち、地下洞窟まで流され、さらに言えば、おれたちが現われたのはまさにその儀式の真っ最中だったのだ。

 おれたちはまず、村の長であり、神事を執り行う最高権力者である老女に引き合わされた。


 ―――――――どっから来はった。

 白髪を二つに分けて結い、田畑に焼けた肌に顔だけを白く化粧をした皺だらけの顔が、蝋燭にぬらぬらと照らし出されているのが酷く不気味に見えたのを覚えている。

 おれはナントカ村のナントカです、と名乗った。その頃はまだ『柳』という名は使っていなかったのだ。

 ―――――――あれをどこで手に入れた。

 ―――――――……あれ、とは。

 ―――――――あン物の怪やぁ。どこで手に入れた。

 ―――――――あれの母親から託されたもんです。

 ―――――――そうか……おい、おまえたち……。

 老女は側らに控えた男衆を引き寄せ、言った。

 ―――――――こいつを村の下まで案内しなさい。

 おれは男衆に固められながら、苦い思いで山を下りた。人魚は取り上げられてしまった。これからどうすればいい……項垂れ、黙って先導する男たちに付いて行った。道中はまるで獣道だったが、彼らには慣れた道筋というものが見えるらしく、獣に会うこともなく順調に歩は進んでいく。

 それは、彼らが外界との境界としている小川を跨ごうとした時だった。

 ―――――――なあ、おい、赤ん坊の泣き声がしないか?

 ―――――――そンなん聞こえらへんで。なあ。

 ―――――――おう。赤ん坊なんて、こんな山ン中にいるわきゃねえヤアろ。

 いいや、おれには聞こえたのだ。うぎゃあ、うぎゃあ、と、からすに似た赤ん坊そのものの声―――――――直後、臓腑が捩れるような痛みと共に、あの乾きがおれを襲った。今度は這う力も出ない。気が遠くなるほどの痛み、すうっと目の前が遠くなり、おれはばったりと倒れた。

 ―――――――ああ……やっぱり、そうなりゃったか。ほれ、水を飲ませておやり。

 とんぼ返りして担ぎ込まれたおれに向かって、老女は淡々とそう呟いた。おれが集落の入り口にかかったとたんに起き上がれるようになったので、男衆たちは冷えた目でおれを見ている。飲まされた澄んだ水は、土と緑の匂いがした。

 ―――――――あんた、この集落に留まンなさい。ありぇは龍女やぁ。あれらのまじないは、人の手には解けはしない。

 ―――――――あれは、人魚ではないのですか。

 ―――――――うちらは龍女と呼んでおる。龍の眷属ろう。しやから龍女りや。あれらには女しかおらず、清水にしか住みつかぬときく。ここより他を探すのは難儀となろう。して瀧川にも、あれが必要や。

 ―――――――取引をしようということですか。

 ―――――――そン取ってもろて構いせん。瀧川のもんとして迎えいれる。しやから、あの龍女をここで育てイ。

 ―――――――………。

 おれが答えずにいると、老女は胸を絞るような細切れの息を繰り返し吐いた。

 ―――――――……龍女には、治水の力がある。のみならず、水を肥やし、それを吸った地を肥やし、地で育った実を肥やす。自在に雨を降らすこともできようという。龗はお眠りあそばされ、久しく二十年。そろそろ地の根が緩み始めろう……。

 ―――――――その、おかみとやらの、代わりにしようというんですか。

 ―――――――かわりやない。龗様のかわりはおらん。これはうてる手をうつという。そういうことや。それによぅ……もうおまえは、ここの水を飲んだやった。しやろう……なあ、おまえら……。

 老女は、控えて渋い顔をしている男衆に顔を向けた。その面は、深い皺に切れ込みを入れたように、深い笑みをたたえている。

 ―――――――こっつは、もう瀧川の水を分け与えた男……龗様が、ふたたびこの瀧川にお顔を向けはるまでの辛抱りや……わかるな?



 しかし老女の期待は果たされず、終ぞ龗様が起き上がることはなかった。

 ここの儀式は、本来であれば、秋の朔日においてのみ行われるものであって、毎月のように人柱を立てる必要はなかった。おれの裁量によって変えてしまった儀式は、もっともな名目で巽に食事をさせるというだけの理由しかない。

 一度決めてしまえば、村人は驚くほどに従順だった。文化経済に外つ国との流れが入り込んで久しいというのに、彼奴等の時代は、百年前から止まっているようだった。

 最初に出会った村長が死んで、五度の代替わりをしたころからだったろうか。年月でいうところの百三十二年。神事の取り纏めは、村長ではなくいつしかおれに移り、村長は、本来の意味での『村の長』というそれだけの立場になっていた。

 瀧川には、いくつかの独自の言葉、言い回しがあった。

 例えば、雨風や雷、あらゆる天災を『龍神が啼く』と言い、儀式で供物が『うつせおみの滝』を滑り落ち、あの洞窟へ辿り着くことを『空御身うつせおみが落ちる』『空御身を落とす』といい、供物を入れる箱舟のことを『空船うつせぶね』と呼ぶ。

 夏の神事の準備のことだった。

 供物は集落の人間だけでは足りず、とうの昔に担当の者が、余所から連れてくる手筈となっていた。

 ―――――――供物が逃げた! 柳様、どうしようっ!

 洞に飛び込んできた若衆の一人が、わっと叫んだ。まだ男と認められたばかりの十四あたりの子供で、見るからに慣れていない。他の男らは新参をからかっているのか、小突いたり苦笑すら浮かべているものもいる。

 ―――――――ああ、またか……。

 おれは、気怠く息を吐き吐き、立ち上がった。二十に一回ほどは、こうして供物が逃げ出す事態になる。最初はそれはもう慌てていたものだが、もうすっかり慣れてしまっていた。

 ―――――――とりあえずは捕まえや。したら、いつも通りにせい。

 若衆はこくこくと頷いて、慌ただしく洞を出ていく。まったく、ここをどこと思っているのか。神の寝所だぞ。あきれ果てながら身支度に腰を上げると、背後で水の飛沫が上がる音がした。

 ―――――――ねえ、どうしたの。

 ―――――――……何ということもありません。

 ―――――――そう……。

 とぼとぼと舌っ足らずに口籠る声色ですら、皺枯れて醜い。おれはげんなりとして、癖になった溜息を吐いた。

 集落には、女ばかりが増えつつあった。何せ年に一度は若い男を供物に流すのだし、供物が捕まらなければ、良い頃合いの男を順くりに使うしかない。男が生まれれば尊ばれるが、それは育った行く先に供物になる可能性があるということだ。言わずともわかる。集落の母となった女たちはおれを目の敵にして、いざ集落に降りれば熊でも見たような顔をして引き籠っている。

 そうなると、もはや楽しみといえば、一つしか無かった。

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