第二夜 かもしれないのうた 後編

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 我々は、長期休みになると旅行に行くことにしている。

 今回逗留先に選んだのは、旅行パンフレットの端っこに小さく載っていた温泉街だった。

 さすがは火山の多い国というだけあって、こんなところにも温泉が湧くのかとちょっと驚いた。それくらい、ここは都市部とさほど遠いわけでもない。

 わたしたちは五年ほど前から、いっぱしの人間の真似事として学校に通うようになった。


 わたしは見てくれのとおり中学校、相棒は夜間の半通信制高校に就学している。長期の休みとなると旅行に出かけるのは、わたし達の故郷―――――つまり我々の生前のそれ―――――を探すためという名分で、見知らぬ地で人の目を気にせず遊ぶための恒例行事となっていた。

 もちろん今ごろといったら、運動会に修学旅行、学園祭と盛りだくさんなのだけれど、今年はいろいろあって夏の休みはちっとも休めなかったので、自主的な長期休暇と言うやつで「ちょっと羽を伸ばそう」とのテーマで、我らが愛車に乗り込みやってきたのだ。


 乗り物酔いをいなすため、私はシートに座ると途端に眠くなってしまう。ハンドルを握ったのは、いつも通りカッちゃんであった。

 途中、警察に職務質問なんかされないか、はらはらする道中であるのは言うまでもない。免許証を見られたら、怪訝な顔をされるのは必須だからだ。見た目はもちろん、生年月日も怪しまれるだろう。ちゃんとした教習所で受験して取った免許ではないからだ。書類の上では、カッちゃんは定年間近の五十男である。

 ちなみに、免許証では面を被っていないレアなカッちゃんが拝めるので(そう、私も忘れがちだが、あの面はその気になれば着脱可能なのだ。なかなか『その気』にならないのが難)、奴は免許証を私にも見せたがらない。だから警察に要求されても、そのまま無免許でしょっ引かれそうである。

 毎回ちゃんと車検と免許更新には赴くのにね。彼の基準は、私の認識の斜め下どころの次元にゃあ存在していない。

 しかし、私とこの能面男との付き合いは(付き合いだけは!)呆れるほどに長いので、こいつの車に乗るのも、はらはらするのも、私がなんだかんだ後ろのシートで野球帽を顔に乗っけて寝てしまうのも、いつものことだった。



「つきましたよ」

 揺り起しても起きない私のアイマスク代わりの野球帽を取り上げ、ついでにマスクのゴムをべちんと引っ張るという悪質な嫌がらせをして、カッちゃんはさっさと枕代わりの旅行バックを持ち去った。ひりひりする頬と、シバシバする目を擦りながら、しぶしぶ狭い車内から脱出する。

 宿は和洋折衷のたたずまいをした、こじんまりした旅館だった。灰色がかった群青の瓦屋根が透き通った秋の日差しに照らされ、とても鮮やかである。

 心無い下界に比べ、紅葉と背景の連なる緑が目に優しい。心なし空気も澄んでいるような。

 深呼吸する私の横から、白塗りの面のカッちゃんが私に着替えの入ったバックを押し付け、自分は自前の薄っぺらな黒い革鞄を下げた。……相棒は優しくない。


「重いィ……」

「いろいろ詰め込むからいけないのです」妖艶な女の声で、カッちゃんは言った。「荷物は最小限でよろしい」

 今のカッちゃんの顔には、白塗りの女の顔がくっついていた。おたふくに似ているその面を、“おもかげ”と私は呼んでいる。


「ああもう」

「もう、ではない。おまえはまったく、しょうがないったら――――」

「おもかげは煩いんやもん」

「もん、じゃない。いい年をして、慎みがないったら……」

「カッちゃんやて、その鞄一つきりやないの。着替えもまともに入ってない男のどこに慎みが? 」

「空船とおまえとでは、また別の話です」

「けっ、おんなじ話やっちゅうの。自分贔屓なんは良くないと思いますゥ」

 二歩、三歩後ろに下がり、私は「えいっ」と助走をつけて、遙か高みにあるその面にアタックした。

「まあ、雲児―――――」


 指先が能面をかすめ、ポーンと斜め下へ飛んでいく。

 小言を言いかけたカッちゃんは、ぷつりと口を閉ざして棒立ちになった。私は白い面を拾って、差し出された手に渡す。カッちゃんは、無言で懐におもかげをしまった。え、セーターのどこに、しまう懐があるかって? そんなもんは私は知らん。


「……そんなに儂に会いたかったのかいのぅ」

 今度は老人の声が嬉しげに弾む。大きな手が、私の頭をぽんと撫ぜた。ちょうど私の目線あたりに、翁のあごひげの先っぽが垂れる。

「そうかそうか、クウ坊は儂がええのか」

「うん、まあね」分別と常識があって、私に甘いからね。

「そうか、そうか」

「そうですそうです。ぼく、翁がいちばん好きやでぇ」

「そうかあ、そらあ爺も嬉しいのう」

 この翁はどうやら、私を孫のように思っているようなのだった。対して先ほどの女面はといえば分別も常識もあるのだが、とにもかくも神経質で姦しい。しかしカッちゃんは運転の時には、用心深くて慎重な女面をかけるようにしているようだ。私が車で寝てしまう要因は、女面のせいもあると思う。



「カッちゃん、カッちゃん、ぼくぅ、この鞄重いねんけどォ……」

「そらあ駄目だな。重いものは爺には持てん。すーっぐに腰をやってしまうからの」

 ほっほっほっ、なんて、カッちゃんは笑っている。ジジイなのは顔だけじゃないかよ、と思いつつも、舌戦じゃ年の功に勝てるわけもないので、私は大人しく重い鞄を肩にかけた。




「いらっしゃいま―――――」

 旅館の自動ドアをくぐったとたん、ぷつっと声が途切れた。

 毎度毎度のことなので、私は背後のカッちゃんに荷物を押し付けてから、受付のお姉さんに声をかけた。カッちゃんは荷物を担いで、ロビーのソファにどっかり陣取る。

「予約した七島ですけンど」

 引きつった顔をしていたお姉さんは、まばたきの後にはにっこり私に笑いかけた。そうね。お面男より、マスクのガきんちょの方が心臓に優しいもの。誰かさんは八方美人だというけれど、お姉さんには、社交的でステキネッ! と思ってほしい。

 お姉さんは、カッちゃんを見ないようにしているのが丸わかりである。気付かないふりで、こっちもマスクをちょっと下げてにっこりする。

「ご予約の七島様ですね。二階の向かって右端、桃華の間になります」

 鍵を受け取り、先導する仲居の後ろをカッちゃんの袖を階段まで引いていく。

「………」

 喋らないカッちゃんを、仲居さんはちらりと胡散臭げに横目で見た。


 桃華の間は、障子で仕切られた六畳ほどの和室が、二部屋ある部屋だった。入口から見て最奥に、広い窓があった。そこからどうやら外に出られるようで、木の欄干が見える。和製バルコニーのようになっているようだ。その先には木。さらに向こうには山。さら略には、西日で白く光る海。

「おおっ! 山が真っ赤。向こうに海が見えんでェ。カッちゃん見てみぃ」

 言うと、すぅとカッちゃんは滑るような歩で、部屋一角に広がる紅葉を望みに行った。

 ぼくは体を反転し、仲居さんに向き直って話を聴く。

「御夕飯は六時ごろに、お部屋にご用意いたしますね。お風呂は夜の十時までですので、それまでにお済ませください」

「へい。わっかりました」

「それで……その、お面をつけたままのご入浴はいたしかねますので……」

 声を潜めた仲居はまた、ちらりとカッちゃんを見る。

「ああ、わかっとります。大丈夫です。夜に入りますんで」

 変な返答だったんだろう。仲居はことさら困った顔をして、「いえ、湯船にお面を浸けられるのはご遠慮願いたいという意味で……」と、付け足した。

「ええ、だから、夜はお面外しますんで。もちろんマスクもはずしますよぉ」

「はぁ……そうなんですか」

 仲居はまだ話の分からない顔をしながらも、なんとか納得したようだった。私は部屋を見渡して言う。

「ええとこですねぇ。ぼくら、近所にこないな観光地があるぅやなんて知りませんでしたわ」

「今回は、御兄弟でご旅行ですか? 」

 ちょっと笑って、私はいう。

「まあ、そないなもんです」

「こう云ってはなんですけれど……大変ですねェ、お兄さん」

 同情するような顔に、私はマスクの下で一寸(ちょっと)口の端を下げ、声だけは明るいままにこれだけ言った。

 まったく、これだから人間の営みというものは疲れるのだ。

「……ま、ぼくらは一蓮托生なんで、たいがいはお互い様ですわぁ」



 すっかりおやつの時間になってしまったけれど、腹の虫は夜まで辛抱できない。宿から遊歩道を下って三十分もしたところに、雑誌に載っていた蕎麦屋があるというので、そこで食事にすることにした。

 ヘーコラ空腹を抱えながら、遊歩道と名のついたハイキングコースを、紅葉狩りしながら歩いて約一時間弱。……おい、どこが三十分だ。責任者出てこい。

 サボったおかげで、本日は平日の午後……というより最早夕方である。ピークが過ぎ、行列が出来ると噂の店にも、難なく座ることが出来た。漆塗りの木の長椅子がいくつも並ぶ店内で、私達はいちばん奥まった隅っこの八人掛けに通される。ワァイ。広いぞぉ。



「きつねそば一つと、天ぷらそば二つ……あ、替え玉とか出来るお店ですか? やっぱだめ? じゃあ、やっぱり天ぷら二つで……」

 私はマスクをあごの下まで落とし、念願の海老に齧りついた。七味の香りで、鼻がむずむずする。

 正面ではカッちゃんが器を顔の真下まで引き寄せ、猫背になって抱え込むと、翁の面を斜め掛けにずらし、片手で面を支えながらずるずる啜っている。カッちゃん曰く、面を外すときの感覚は、水の中で息を止めるようなものだという。

 面の視界は、基本的に目についた小さな穴である。こうしてずらしてしまうと、真下がようやく見えるだけだ。私から見れば狭い視界で四苦八苦どうにか口に運ぼうと必死な構図なのだけれど、傍から見れば、怪しい風体の能面男でしかない。少ない客の目が痛かったが、それ以上に、逞しい横幅をしたおばちゃん店員の目が怖かった。

「ふう、食ったぁ」

 カッちゃんはまだふぅふぅやっている。膨れた腹をさすりながら、私は席を立った。カッちゃんが器から僅かに顔をあげる。頭の上で傾いた翁が言った。下ではカッちゃん自身の口が、箸を咥えてもぐもぐやっている。

「どこにゆく」

「ちょっと電話になぁ。おやじに到着したよぉって知らせやらんと。カッちゃん、ゼッタイここ動いたアあかんよ」

「おう。わしゃあ今は、アツアツのお揚げさんと一騎打ちの最中じゃあ」


 私は店の軒下まで出ると、先ほどからブルブル震えているそれを耳にあてた。

 もしもし、というと、渋い艶の含んだ声が返答する。

 わたしは、しばらく話をした。

 電話の向こうで、その人はわたしに繰り返す。

『あんたたちは、おんなじ人間じゃあないんだ。肩越しに違う景色を見ているんだよ。それは当たり前のことだ。だからいいかい、馬鹿なことはするんじゃないよ。あんたのそれは、思い違いだ……』

 毒にも薬にもならない話である。

 カッちゃんが食事を終えるのは、だいたいわたしの三倍かかるので、わたしは頃合いを見計らって話を切り上げる。胃が重たくて、頭が痛い。

 ―――――ぶちり。わたしは引きちぎるように通話を切った。


 ◐


 夕映えを背に、私は長い息をついた。湯気で溶かれてけぶる空には、もう微かに星が浮いている。

「クウ」

 カッちゃんが私を呼ぶ。

 鼻先まで硫黄に沈んで、ぶくぶくしながら私はお湯の中で返事をした。カッちゃんは面の代わりに、黒子のようにタオルを顔に巻いている。商店街の福引でもらったものなので、プリントされた『美墨生花店』の文字が絶妙にダサい。

 不機嫌な顔をしていたんだろう。カッちゃんは、湯船に顔半分まで浸かっていた私の頭を掴んだ。そのまま、ぐいっと引き上げ―――――うぎゃあ。


「あっだだだだだだだだ! あ、あほかっ! 首が引っこ抜けたらどないすんのや! 」

「頭ぐらい縛って入れ。湯船に髪が落ちるだろうが」

「タオル男に言われたアないわい! 」

「お前が、陽が落ちないうちに露天に行きたいっていうからだろうが」

「なんや上から目線やの! カッちゃんはいつからぼくの兄貴に……いてっ」

 何も夜が近づいたからって、一時早く面を取ったからって、そんなふうに言われちゃあ、温厚な私だって苛々する。

「空船のばぁーっか! 」

 カッちゃんのタオルを巻きつけた顔に向かって湯をぶちまけ、私はさっさと湯船を出た。せいぜい顔に濡れタオル貼り付けて苦しめばよい。カッちゃんは面は取れても、作り直している途中の顔・・・・・・・・・・・を晒すことはできやしない。

 つまり、今の時間じゃあ、カッちゃんは体は洗えても顔は洗えないのだ。風呂好きのこいつはひどく長風呂で、代わりにわたしの方は烏の行水でも良い方である。何もこいつと暑苦しく裸で景色を楽しむこともない。

 濡れた頭を掻き上げて、私はさっさと洗面具をまとめた。



「クウ、もう日が落ちそうだ」

「しやね」

「日が落ちる前に部屋に戻れよ。寄り道すんなよ」

「わあっとりますゥ」

「本当に分かってんのか。見られちゃ事だぞ」

「お面男に言われたないもぉん」

「がきんちょ……」

 カッちゃんの呆れ声を尻目に、私はへへーんと脱衣所に駆け込んだ。

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