第二夜 かもしれないのうた 前編

 錆びた閂が外れる音がした。せき止められていた記憶が濁流となってうなり、鉄砲水となって雲児クモジを押し流す。

 ……最初に雨音が聞こえた。

 黒い雨だ。ぼとぼとと、塊のような雨が降っている。遠雷が近づいてくる。やがて、地響きがするほどに、天が唸る。咆哮する。

 水の矢に掘り返された土からは、生臭いような、鉄臭いような、青臭いような、おぞましい臭気が水気を辿って立ち上った。

 赤い葉がひらりと舞う。

 冷たい雨が降る。

 桜が咲いている。

 沼がある。

 天に日が差す。

 雨音はやまない。

 土のにおいがする。

 水。水。水。空―――――。

 おうおうと、龍が啼く。山の下で、上で、龍が啼く。

 黒い水。岩屋の奥。桶の中の醜い赤子。人魚。老婆。

 人魚が笑う。子供が泣く。溺れる―――――。

 腹の膨れた女が、樹に喰われている。白い花、あれは桜。

 おまえはうそつきだ。おれが殺した。雨の中で高く誰かが叫ぶ。違う、ぼくがあいつを殺してしまった。静かなところで誰かが呟く。

 体が落ちる。

 水に落ちる。

 痛い。苦しい。苦しい。苦しい!

 泥に溶ける。

 ……真っ黒だ。

 のっぺらぼうが叫ぶ。

 ―――――――わたしは誰だ! 顔はどこにある!

 水面を雨が打つ。水を掻き回し、泥が浮かんだ。赤い糸がとろとろと浮かんでは、水に溶けていく。水の中から、白い顔がぼくを見ていた。どこかで知っている誰かの顔だった。彼女がぼくを呼ぶ。あいつを呼ぶ。何度も、何度も。名前は泡になる。ぽこ……ぽこ……ぽこ……溶けて、混ざって、丸くなり、一つのものが二つに分かれる。

(……ああ、泣いている。あの子が泣いている)

 あの子が泣くから、雨が降るんだ。

 ―――――なあ、カッちゃん。ぼく、思い出したよ。おまえ、嘘ついとったな。あれ、全部嘘やったんやな。

 ―――――嘘はつかんといて……言うたのはおまえン方やったやろ。

 しやろ。なぁ、なぁ……なぁ……。


 ◐


 嫌な夢を見た気がする。

 私は、埃と芳香剤の匂いの染み着いたシートに顔を埋め、上掛け代わりのジャンパーの中に足を引き寄せた。

 鼓膜を揺らすのは、自動車の駆動音。古くて小さな、まん丸いライトの軽自動車だ。

 ……とろとろと、糸がほぐれる様に……氷が溶けだすように……意識がまた、暗闇に遠ざかっていく。


 暗闇の先にあるのは、遠い過去だ。


 小さなころは嫌いだったものを、年月を経て好きになる、ということは、ままある事例であるのではなかろうか。

 例えば、私にとっては乗り物の類がそれだった。脆弱な三半規管を持っていたらしい私は、本当に自分も覚えていない小さなころから、車輪のあるものに乗るのが大嫌いだった。


 酒にしろ何にしろ、よくいったものだけれど、喉から酸っぱいものを逆流させる苦しみは、酔わない人には分からない。揺れる地面にふらつく脳、焼けるようにのたうつ胃袋、ねばつく口内、酸っぱくて辛い、舌の上の自分の粘液の味―――――この時、すなわち拷問なのでありまして。

 酒は飲まなきゃいいだろうけれど、乗り物はそうもいかない。

 この御時勢ですのでね。弱点を持つ人間としては、周囲の理解がほしいところなのである。

 いやはやそんな私でも、今やすっかり車輪のあるものの魅力に憑りつかれ、車窓の人となっているのだから、まったくもって先は分からないもんだ。

 なんで人は、こんな気持ち悪くなるものにわざわざ乗るんだろう、なあんて思っていた幼少期だったけれど、背が伸びれば、自分の脚だけでは行けないところも出てくるもの。すっかり便利さに味をしめた…というか、必要性を実感したのは、地元を突如襲った冬将軍によって公共機関が止まった時だった。

 ありゃあ、酷かった。地元はもともと積もる地域じゃない。薄暗くなっていく空の下、スニーカーをぐずぐずに濡らしながら、降る牡丹雪を憎みつつ、悪路に様変わりした街道を歩くことの…なんと心細いこと。母の運転するワゴンが脇の道に停車した時、柄にもなく天の助けと思ったね。ええ、涙ちょちょ切れましたよ。

 自分が家と真逆の道を、えっちらおっちら歩いていた、ナンて事実を知らされた瞬間なんて「もう絶対自分の脚を信用するもんか」とも思ったからね。

 え、なんだって? それいつの話?だって。

 そりゃあ、ずいぶん昔の話だよ。カッちゃんに会うほんの少し前。

 だからもう、気が遠くなるほど前……ずうっと前の話だねぇ。


 ◐


 今生の私の名を、天際の雲児あまきわのくもぢという。

 隣の相棒は、煙霞の空船えんかのからふね

 同じく齢三十ばかりを数えると、怪奇の末席に腰かけている存在である。

 齢が定かではないのは、私たちは、その素性や、それまでどこから来て何をしていたかが、私たち自身にも明瞭としていないためだ。

 今生の名も、我らを拾い上げた生臭僧侶が名付けた。



 今から三十年と少しむかし、その乙子という修験僧が、台風一過の山奥をエッチラ歩いていた。

 その時の乙子の顔には、蜻蛉の目ようにピカピカ光る偏光レンズのサングラス、脚絆の先にあるのはスニーカー、背中に小岩のように背負った登山用のリュックサックからは、錫杖の先っぽが飛び出しているという生臭具合であった。

 獣道と交差する山道は、しばしば木々の切れ間から、果て無い海原のように山々が広がっているのが見える。嵐が過ぎ去って三日と経っていないというのに、夏の盛りから降下しつつある山脈は、紫幹翠葉の様と輝いていた。

 不思議とそれを見ていないのに、私にはその山脈が、まるで歩いたことがあるかのように瞼の裏に浮かぶ。うつくしい山だ。おそらく空船……カッちゃんも、同じように感じていると思う。


 乙子は、緩やかに張り出した崖上の道に差し掛かった。

 眼下には、轟轟と流れる広い砂色の流れがある。広い河川敷は泥と流木で汚れ、これでも流れが細くなったことを表していた。川の流れに乗って、嵐の残滓が初めて感じられる。

 何気なくやった下に、乙子は目を眇めた。

 黒い泥濡れの生き物が、泥溜まりに二匹絡まって蠢いている。

 最初、それは大型の鳥が、泥に濡れてもがいているのかと思ったそうだ。

 次には、死にかけの猿。しかしそれにしては、大きさがおかしい。最後には並外れて大きな山椒魚。

 オオサンショウウオは、その体躯が150㎝にも膨れ上がるというので、乙子は「へえ、なんだ」と、そこを通り過ぎようとした。

 再び歩き出そうとした乙子の耳に、甲高い……何と称したら良いのだろう。乙子は「無数の尖った鉄針のような」耳に刺さる甲高い音を聞いたと語った。

 思えばそれは、声だったのだろうという。


 乙子は再び、河川敷を見下ろした。

 次の瞬間、乙子は肩からリュックサックを下ろし縄を取り出すと、下生えを分け入って斜面を降りていった。河川敷の泥濡れの石の表面は乾いているが、無数の小石は踏むと転がって走りにくい。それに近づく頃には、そのころすでにオヤジだった乙子の親爺の心臓が、銅鑼のように胸を打っていた。

 乙子の目に映っていたのは、山椒魚にあるはずのない、泥を掴む腕である。

 近づくとそれは、確かに山椒魚とは違うものだった。

 泥から腕が生えている。腕の横から、明らかに脚と思えるものがある。そのシルエットは、蜘蛛にも見えたかもしれない。

 乙子は瞬間的に、泥の中から頭にあたるものをマジマジと探す。

 再びの泥溜まりの声は、蛙に似ていた。

 ィエッ……ヤッ、アッ……アアッアァ……グォッゴッ、オッ、オッオッオ……。

 歪に丸い泥溜まりの中心に、一組の白い眼球に浮かんだ黒い瞳が、ゆっくりと頭を下げる様に、乙子に向かって瞬きをしたのを見て、乙子はそれに、触れることを選ぶ。酒で泥を洗うと、それは二つのヒトの形を取った。

 それが、だった。


 ◐


 私たちを拾い上げた乙子誠光という人は、現在、地方の開発途中の田舎町で平屋建ての邸宅に住み、一年のうちほとんどを夜な夜な飲み歩くという生活をしている。

 聖職者らしい看板はひとつも出していないが、『不思議』にかかわる商いで、私たち二人を含む三人の生計を立てていた。

 乙子のその『仕事』については、この先機会があれば話す時も出てくるだろうと思うので割愛するが、彼は基本的に、『幽霊を見た』といえば枯れ尾花を疑うし、神仏の存在を肯定する口で神仏の救いの手を否定するうえ、酒も飲めば女も抱く。家電が好きなので、しばしば最新のものを買いたがる。

 面相も、達磨か地獄の極卒かという強面の禿げ頭なので、普段着の和服も相まって、隠居したやくざの幹部だと近隣に噂されているくらい俗世に染まり切った生臭である。


 乙子の目は、『かもしれない』のフィルターがかかっている。

「あれは幽霊ではないかもしれない」「これは本当は人間ではないのかもしれない」「あいつには自分には見えないものが見えているのかもしれない」「ここには悪いものなんて無いのかもしれない」他、他、他他……。

 乙子が我々を拾ってしたことといえば、病院で体中隅々まで検査し、その合間に近郊の行方不明者の一覧を探し出し、古新聞を漁っての情報収集に努め、我々のとある『特異な人間離れした体質』が露出してくると、DNA検査までやらされた。

 そこまでやって乙子は、ようやく拝み屋家業の出番とばかりに、今度は怪異を通した目で、我々を調べ上げた。

 そして分かったことは、おおまかに三つ。

 まず我々の痕跡は、この世に存在していないも同然だということ。

 三十年たった現在においても、我々がどこの誰かということは、公的な記録はもちろん、我々自身の記憶に尋ねてみても、答えが返ってこなかった。

 次に、我々はおそらく死人だ。水で死んだということは、人間の検査で判明した。

 昨今の数十年での検死解剖の技術は発展著しい。内臓の具合で、いつどう死んだかが分かるのだそうだ。損傷が少なく、今しがた生きていたくらい綺麗な体なら、わかることも多い。

 最後。

 我々は、日の半分を人として過ごすことができた。日のもう半分は、化生の類に

 私と空船は、『人』であるときの自分こそを我が身と思っているが、妖となったときには夢うつつのごとく曖昧になってしまう。裏返っているときの記憶も、霞がかかっているかのようだ。その時の行動に、責任は取れない。



 だからぶっちゃけちまうと、一蓮托生の相棒と言えども、私はカッちゃんとは一緒に歩きたくない。とくに公道なんかに出たもんなら、奴はとんでもなく目立つもんだから、私まで変に見られてしまうからだ。

 立てば死神、座れば怨霊、後ろ姿は、さながら妖怪変化。

 無念なことに、カッちゃんはありえないほど真っ黒いセーターに、黒いズボンを好んでいる。

 私の後ろを猫背でスタスタ憑いて……訂正、着いてくるこいつは、夏もこの調子のふぁっしょんせんすなのである。


 青空に紅葉が映える、秋の陽気。舞う紅い葉っぱが、私の肩を避けて石畳に落ちる。微かに硫黄の匂いがした。

 ふと振り返ってみると、カッちゃんの頭にも真っ赤な葉っぱがくっついている。私はそれを、無造作に払ってやった。

 ……何せこの不気味な男にくっつくと、せっかくの風流も、風流と云うより禍々しかったので。


 仕方のないことだけれど、観光地は人の目が多い。私はマスクの下で嘆息した。(私はひどい鼻炎持ちなのである。)

 ちょっと軽く拳を握って、こいつの頭を叩く。

「あんたなぁ、ついてくんなら、もーちょいマシな格好でけへんのかいな。目立ってしゃあないやないの」

 混乱しないでほしい。これは正真正銘、私がくっちゃべった言葉である。地方人の脳内は、わりと標準語で構成されているものだ。

「出来んのう。クウちゃんが見繕ってくれるんならばァ、また別じゃがの」

「ぜぇったい、いやや。文句言うんやろ。色が派手だとかナントカ言って」

 カッちゃんは首をのけぞり、皺枯れた声がけけけ、と笑って、大きな手があごの白いひげを掻く。硬い硬い木目の浮いた頬の筋がぱかっと下に落ちると口が開いて、笑顔の体裁を取った。昼間のカッちゃんの体は、死んだばかりの水死人。

 この爺どもが本体だ。


 見あげるように細長い真っ黒の大男は、顔に能面をかけている。


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