第二十苦話 なぜと告白 前編


 もう何度目か。おれは眼を開ける。


「集合的無意識、という言葉を知っているか」

 耳に慣れた声に従い、おれは天井に向けていた首を廻した。

「ユングは読んだよ……あんたがおれに、読めって言ったからさ」

「そう。おれは、おまえの『面』にあらわれているものは、それではないかと考えた」

 腹に力を入れて起き上がる。おやじの達磨頭を、眠気でぼやけた目で眺めた。


「美女は理想の中の母。魅力的な異性は肯定してくれる自己の分身で、屈強な男は英雄となった自分。老爺は優れた父か祖父、正解に導いてくれる賢者を象徴イメージする」

「そうだ。……おれは、おまえの『面』は、おまえの中にある、記憶を失う前の自分を投影した姿ではないかと最初に仮説を立てた。……その仮説は間違いで、実際は、おまえの中に溶け込んだ亡者たちの成れの果てだったというわけだが、さて、」おやじは半身をまわして、腰から上だけで振り返る。背後の襖絵の金魚が、月明かりに黒々と躍っていた。


「……真実を知って、今のおまえは、あれをどう考える」

「どう考えるって? それこそどういう意味」

「おまえにとって、面とは何だ、という話だ。分離した半身のように扱うか? 名前を呼んで、それぞれの自己を肯定するか? それともただの厄介の種か」

「おれを構成するものと考えるかな」

「それはどうして」

 感情のこめられていない問いかけは、まるで電話通販のガイダンスみたいだなと思った。


「あいつらには、そりゃあ昔の名前があるんだろうよ。実際、あいつらの話を聴いて、確かに人間だったころの名残りを見た。でもそれは『おもかげ』だ。おれに……いや。玖三帆と克巳に喰われた亡者たちの記憶の残滓がそう見せたのかもしれないし、もしかしたら別の……ああいや、それはいいか」

 おれは穏やかな気持ちで、月明かりを顔半分に受ける男の目を眺め、口を動かした。


「そうだな……結論を出そう。雲児は、双子の兄弟がいたらああいうもんなんだろうと思う。一卵性で、同じ胎で同じように育まれて、同時に生まれて、別の肉体を持つ人間として育った誰かがいたのなら、それはきっと雲児のようなんだろうな……と、おれはおもう。でも、面はちがう。おれの中では明確に違うんだ。あれは、おれが背負うべき業のようなものなんだ」

「業か。前世の報いとでも言うか」

「さすがに言いたいことを汲み取ってくれるよな。まさにそれだ。おれにとって面とは、玖三帆と克巳が仕出かしたことの、報いの結晶なのだと思う」

「ほう? ならば、どうして雲児に報いは無く、おまえにだけ報いがある」

「たぶん、振り分けが違うのだろうよ。おれにはあの山の亡者が憑いたかわり、あいつには別のものが憑いたんだろう。ほら、ドレッシングの瓶を注ぐとき、最初のうちは油のほうが多く出て来るじゃあないか。それで底のほうに玉葱やパプリカが溜まるだろう。そういうもんなんだろうさ。あいつに科せられた報いは別にある」

「雲児に科せられた報いとは、何だと思う」

「それはおれが決めることじゃあない。あいつにしか分からんだろう」

「おまえは今、玖三帆か? 克巳か? 」

「どちらでもないさ。どちらでもあるけれど。どちらもがあって、空船だ」

「……雲児と同じことを言う」

 おやじの、半分夜に沈んだ顔の奥が瞬いた。


「集合的無意識に話を戻そう。例えばおまえは、この乙子誠光をどう捉える」

 その魚のような無表情に、おれは即答した。

「翁。物事の正しいかたちを示してくれる第二の父で、人生の師だ」

「……そうか」

 乙子のおやじは、満足そうにその達磨顔に皺を寄せ、にっこりと笑んだ。

 ごつごつと丸い顔が笑みの形のままドロリと崩れ、木目の肌が浮かび上がる。

「ほっほっほっ。やはり、雲児と同じことを言うのだなあ。よくぞ見破った。さすがの慧眼である。じいは嬉しいぞ」


 おれは言った。

「乙子のおやじは、そんなふうには笑わない」

「慕っておるのぉ。じいは妬いてしまいそうだ」

 袖を叩いて翁は高く声を上げて笑う。

「では空船。内なる玖三帆と克巳にとっては、わしは誰だ? 」

「その質問に、何の意味がある」

「ふふ……空船よ、忘れたか。未だ此処は黄泉路なのだぞ。問いには応えねば、黄泉路はいつまでたっても終わらない。黄泉がえりは賢しいものが果たす。オルフェウス然り、伊邪那岐然り。地上に戻りたいなら応えることだ。正解を探すことだ。正しくなくてもよい。おまえがそうだと素直に言えば、われらの形はそれになる」

 今度は少し考えた。

 考えているうち、足元はいつしか揺れ始め、おれはいつしかもとの小舟に座していた。ここは黄泉路であるからして、こころ向くまま何でも起こるのだろう。


「さあ、応えよ空船。翁の真名とは、いったい何だ」

 翁が急かす。

「早う言え! 」

「瀧川を拓いた男。最初に天女の呪いを受けた老人。あんたは。人魚の最初の父親で、おれたちの伊邪那岐だ」


 ぶわりと薄紅の華が舞った。

 花の嵐は、飛沫と花弁を纏ながら渦巻いて船を揺らす。船頭がコンパスの針のように傾いて、霧中の海を行く船の進路がカチリと、明らかに変わったように見えた。


 華の嵐のすぎたあと、そこには一人の男が座っている。

 ぷうん。と、鼻をつく腐臭。

 針金細工のように痩せた背中を丸め、首だけをもたげたそこには、ひどく恨めしげな男がいる。

「……では、わしは? 」

 おれは河津に言う。

」おれははっきりと、河津をそう呼ぶ。

「おまえは、死人。不吉と黄泉の象徴。玖三帆の父親。最初のやなぎ――――」

 河津の半開きの唇が、よりぼかんと落ちた。


 おれはもう一度いう。

「おまえは柳だ」


「わ、わしが? わしが柳? おっ――――おまえは、そうして……」

 河津はうろたえる。ゆらゆらと後ずさり、その血走った眼がおれを射抜く。


「ホントウに、それで良いのァアアカアァァ――――? 」

 河津の輪郭が、泡立つ湯のように膨れ上がった。

 ぶよぶよと白い、並外れた肥満体の巨漢のようにも見える体。顔だけは河津の―――亡者の、痩せ細り、記憶も感情も摩耗した虚ろな顔だ。


「うるさい」

 おれはかつての父を、憐れみの目で見上げる。


「おまえは柳なんだ。玖三帆にとっての父親なんて、それでいい。醜くいままの姿でおれと雲児の中にいろ」

 河津は歪に笑い、それを隠すように、泥が重く巻きついていく。

「……ハア。あっぱれ」

 溶けた泥の内から現れたのは、憂い顔の武者面。


「ではおれは何だ! 」

 肩を怒らせて、男面は胴間声を上げる。

「おれが柳でないというのなら誰だ! 言ってみろ! 」

「おまえは――――」おれは、上下に揺れるその肩に手を伸ばし、面の奥を覗き込むようにして言った。

「中将在原面……不遇の男……屈強な武者……――――おまえは

 男面が息をのむ。

「おまえは柳じゃあない。夜叉丸だ。亡者は嘘をつくんだと、そうおれに教えたのはおまえだろ」

 振り子を追うように、男面の瞳が揺れているのがよく見える。

「亡者はたばかる。おまえが柳を装ったのは、もっと隠したいことがあったからだ。おれには、もう分かる。おまえは刀を持った武者だ。夜叉丸、おまえ……瑞子人魚に逢いたかったんだろ」

 ぶるりと男面の体が震えた。

「違う……おれは柳だ」

「違わない。もはやおまえは、おれの一部だ。。今までぜんぶから目を反らしていただけだ」

 おれと玖三帆の負った共通の罪だ。

「その目孔は誰の為にある。おれが浮世を見るためだ。見ようと思えば、すべてわかる。おまえ、瑞子に名前を問われたから、とっさに柳と名乗ったんだ。あの舟の先には瑞己人魚もいたものだから、おれにも柳のふりをして謀った」

「……違う」

 男面はかぶりを振る。ぎちぎちと歯が鳴った。


「おれがそうだと言うんだ。。おまえは、夜叉丸だ」


「ちがう! お、おまえ、おれ、おれから、名前も記憶も奪うつもりか? あ、哀れとは思わんのか? 父親を――――化け物なんぞに弄られた父親の魂を――――! やめろ! そんな目で見るな! ……お、おれは、河津なんかには、なりたくない……死にたくない! 」


「あんたはとっくに死んでるよ」


「違う、違う違うちがう……おれは……! 」


「あんたは柳じゃない! 」


「ちがぁ―――――ッウ! 」


 桜が巻く。一瞬、桶を返したように、潮の味がする雨が船を打った。





「……釣眼は龍神。オカミ様。それは最初っから分かってる。あいつは最初から、自分から名乗っていた。『自分は龍神だ』と……」

 おれは濡れた顔を拭って目を開ける。



「なら、おまえが最後だ。しやろ。女面おもかげ

 甲板に、扇状に長い黒髪が広がる。

 三つ指をついて顔を伏せた女面が、喉の奥で含み笑った。


「……あれが伊邪那岐だとしたら、あたくしは伊邪那美なのでしょうか」

「さあ、どうだろう」

「……ふふ。ひどいひと」

「そうかもしれない。おまえだけは、おれに嘘をつかなかった。ただひとり、現世で半分生きているおまえだけは……」


 おれは腰を上げ、女面と肩を並べるように座りなおした。

「女面は、口うるさいけど、いつも正しいことしか言わないんだ。そんなおまえの名前を当ててしまったら、きっとおまえは前みたいに良くしてくれないんだろう。恩返しを見られた鶴みたいにさ、消えてしまう気がするんだ。それがとても残念で、おれは口が重い」

「それでも応えなければ。雲児のもとに還るのでしょう」

「戻ったら、もうおまえと顔を合わせては酒を吞めないな……」

「……あら、気づいていらっしゃったの」

「長く、半分のおまえは、おれたちを見守ってくれた。おまえには、一番悪いことをしたと思ってる」

「それは雲児に言ってやって。終わってしまったあたくしではなく……」

「なあ、呼び捨てにしてもいいかい」

「何を言っているの、いまさら」

 おれはその人の名前を、あえて呼ぶ。



「巽、すまなかった……おれたちを生かしてくれて、ありがとう」



 からんと音がする。

「……嗚呼、なぜ。どうしてか、だわからない」

 右の肩に、少し重いものが凭れ掛かった。


「わからないの……その声で名前を呼ばれるだけで、こんなに涙が――――」

 白い貌が笑む。


「まるでいっぱしのヒトみたい。こんな呪いなら、もう、死んでもいいわ」

「言ったろ。おれたちゃア、とっくに死んでるよ」

「ふふ……おまえたちはそうだった」

 女の貌が、泡になっておれの肩に降り注ぐ。





「あなたと、また会えますように……」


 黄泉の霧を洗い流すような、白く透き通った涙雨が降り注いだ。











(『孕み人魚と惡の華』は明日で完結となります。

それにともない、本日23時より朝8時まで、毎時間に更新されます。

これにて完結となりますので、夏休みを使って一時間ごとの更新を追いかけるもよし、纏めて読むもよし、『孕み人魚と惡の華』を最後までお楽しみください。)

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