第二十苦話 なぜと告白 後編

 さて、あとはあいつだけだ。


「雲児ぃ……」


 ぷかぷか浮かぶ船の上で、おれは一人、呼んでみる。しかし、船が水を掻き分ける微かな水音がするばかりだった。

 おれは太いため息を吐く……吸う。


「――――雲児!!!! 」

 果て無しの霧の向こうに声が吸い込まれる。


 どっと疲れが圧し掛かった気がした。なんだか、いきなり心細くなる。

 そういえば、ずいぶん『黄泉ここ』で船頭として働いていた気がするが、おれはいったいどれくらいの年月をここで過ごしていたのだろう。


「……はあ。なんだよまったく……おまえが迎えに来るんじゃあないのかよ……」


 船は進む。おれひとりだけ乗せて。

「こんなとこに置いてくなよ雲児……。おまえが連れて来たんだろォ……覚えてないけど」

 おれは自分の膝を引き寄せて首を垂れた。

「おれ、こンまんま漂流してたら莫迦みてえじゃねえか……」

 垂れた首をゆっくりと持ち上げ、見上げた宙は、ずいぶん明るい青に澄んでいた。もう夜明けと謂っても良い。ここはもう、黄泉の外れなのだろう。けれど果たして、それがイコール現世に近いということなのか……。

 雲児がいない。面もいない。

 こんな夜は初めてだった。

「雲児…………」

 手持無沙汰に、船底を撫でる。木目が鮮やかな漆塗りの船底は、しっとりと手に吸い付くような、ひどく落ち着く手触りだった。

「いい船だな……持って帰れねえかな。この船……」

 無心に撫でまわしているうちに、おれの頭の中で、あぶくのように何かが浮かんでは水面に顔を出す前に消えていく。

「あれ……この船」

 ばちんと頭の中で何かが弾けた。

「そうだ……この船、ひっくり返ったはずじゃ」

 船底はからりと乾いている。別の船ってことはないだろう。だっておれは、ずいぶん長い間ここで船頭をしていたのだ。相棒の見分けくらいつく。

「船……」

 そういえば、おやじは何と言っていたか。


『……なんで空船と名付けたか? 船とは、人生の暗示だ。『』。おまえにゃぴったりだろ』


 ばちんとまた何かが弾ける。


『異界から無事に帰るパターンには、いくつかある。


 ひとつ。異界のあるじと仲良くなって許しを貰うこと。浦島太郎や、舌切り雀がそうだ。


 ふたつ。アイテムを使用し、逃げ延びること。ジャックの豆の木がそうだな。安珍・清姫の類似パターンで、師匠にいただいた有り難いお札を使って小坊主が山姥から逃げのびるっちゅう話もある。


 みっつ。大切なものを捨てること。盗んだ宝や、自らの抱えた欲を象徴するものを捨てることと引き換えに、現世へ戻る。これは失敗パターンだが、蜘蛛の糸なんかがそうだ。他にも有名どころを上げるのが難しいくらいある。


 よっつ。これは、多くのオカルトにいえることだが――――そのものの本性を見破り、弱点をつくこと。知恵あるものが生き延びるパターン。謎かけや、隠された秘密を暴くんだ。なぞなぞを口にするスフィンクス、菓子と音楽が弱点のケルベロス、糸玉でミノタウロスの迷宮から生き延びたテセウス……ギリシャ神話ばっかりだな。

 ……いや、日本にもある。極卒を騙して、あの世から夢を通じて帰った話だ。「おれは深く眠り込んでウッカリあの世に来ちまった。だから現世へ還してくれ」ってな。




 古くからね、黄泉は、夢と通じとるんだよ―――――』




 ばちん。


 そうか、なら。


「この船が、おれの夢だ」


 おれは、いつしか傍らに鎮座していた櫂を手に取り、船底に向かって真っすぐに突き下ろした。




 ◐



「……そうか。カッちゃんは、そう決めたんやな」

 ぼくは薄っすらと口元に浮かぶ笑顔を堪えきれなかった。


「ぼくらはやっぱり、別のもんやった」

 考え方が違う。価値観が違う。

 そう。それは、ぼくらが別の人間であるという証明になる。

 ぼくは、それだけを確かめたかったのだ。

 ぼくという存在は、確かに玖三帆と克巳という、二人の人間でできている。空船も同じ。

 でも、空船は大人の体を持ち、ぼくは子供の体である。三十年の時は、夜と昼、大人と子供という違いから、別の意志を与えてくれた。

 でも、ぼくは思ったのだ。


『片時も離れられないぼくらは、本当に、二つぶんのいきものなのか? 』って。

 ぼくらは『一』と『一』ではなく、『二分の一』に分かたれたものだとしたら……。


 ぼくらは人間じゃあない。例えば二重人格者のように、ぼくらの魂というものは、根の内では同じものだったら。

 もしカッちゃんがヒトに戻ることを本気で望んだとき、ぼくに止めるすべは無いし、ぼくは止めないだろう。

 もし、カッちゃんが、『ぼく』の時間を欲したら、ぼくはきっと止められないのだ。


 ぼくは、カッちゃんと別のイキモノだという証明がほしかった。

 ぼくが、ぼく自身であるという証明が欲しかった。

 ぼくがカッちゃんを大事に思う心が、けっして自己愛でないという証明がほしかった。



「……もう帰ろう。瀧川あの場所に」



 黒い水を見下ろして、そう口にする。

 水鏡に手を伸ばす。冷たく肌を刺す水は、ぼくの手首を飲み込んで揺れた。

 伸ばした手を掴むものがある。水に垂れたぼくの髪が、色を吸い取られるように白銀に染まっていった。

 ―――――ぼくらは日の有無で、そのたびに


「おかえり。カッちゃん」

「うるせえ。後で覚えてろよ。あほクウ」


 カッちゃんは悪態をついて、ぼくの頭を捥げそうなほどに撫でまわした。

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