第二十一夜 菓子の穴、または水鏡 前編
◐河津
「瀧川では、昔っから水害が多くってねぇ……」
河津は何が可笑しいのか、ウヒャヒャと手を叩いて笑った。
「雨は降るし、土は流れるし、川は溢れるし……山の形がよく変わるから麓ジャア山を動かす神さまがいるんだって謂って、誰も住み着かない山だったんだ」
脳裏に浮かぶのは、重なり合う緑の海原だ。木々の下には、血潮のように根を張る水が奔る。わたしが知るその場所は、一反の風になびく大きな布のような形をしていて、ときおり吹く風の音だけがする場所だった。
「おまえにや分からぬだろうナア……なんたって、百年千年の話ジャアないからね。……しかしそんな禁足地に、恐れ多くも踏み入った夫婦がふたり……」
河津の手が水面を掻く。「ごらん」
何も映らないほど黒いばかりの水面に、波の筋が白く光っていた。それがもやもやと線になり、雨ざらしのまま獣道を行く男女の絵姿になる。
「これの名前を、そうだな……
「……葦児が最初の人間? 柳……男面のやつは、矢又の一族が最初だったって言ってたぞ」
「自分で言っていたろ。そらあいつの嘘か、じゃなけりゃ勘違いだ。……でもマ、あンがち大事なところは誤魔化しちゃいない。そこが奴の意地の悪いところサ……そうだろう?」
「八雲は無事に子供を産み落としたが、子が母の命を吸い取ったように、そんまま死んじまった。産み落とされた子供の名前が、その様を表して『玉児』という。のちの『玉依の姫』……『龍女』と呼ばれたその娘は、人魚だった」
「じゃあ、その夫婦っていうのは……」
「禁断の恋にウツツを抜かした天女と
「そして、その天女から生まれた人魚は、枯れ木のように皺枯れて生まれてくる。いくらたっても歩けるわけがなく、十年、二十年、……娘を負ぶさり野山を歩いた日々には、やがて最後が来る。ある日、荒ぶる嵐の夜に、父子は鉄砲水に飲まれた。生き残ったのは、萎え足のはずの娘ひとり。水を泳ぎ、てての死肉を食って生きのびた。そこからさらに、五十年、百年、二百年……山は玉児の血を吸い、ゆっくりと眠るように静かになっていった」
河津は穴倉のような瞳を、ゆっくりと瞬いた。
「……いくらかたった夏のころ、一群の人間たちがやってきた。かつての十束と八雲と、立場は似て非なる逃亡者たちだった。都から逃げてきたその落ち武者たちは、泥濡れで瀧川に辿り着いてもなお、矜持を失わぬ武者たちだった。彼らの多くは、一門に参じた家臣たちであり、中心にいたのは一人の少年武者だ。これは、瀧川にて『矢又』と名を改める。名を『矢又の夜叉丸』という。夜叉丸は先に逃げた父を追い、この瀧川の山の麓の漁村へやってきたが、その父親はすでに沖に漕ぎ出て自決した後だったそうだ。そうするうち追手が来て、一行はからがら山に入り込んだというわけだ」
……水面は、どこか
「彼奴等が山に入り、息を吸い、玉児と出会って瀧川の水の流れを掻き回したとき、『瀧川の
「よくわかんないなぁ」
「いずれわかることだヨ。辛抱、辛抱……そうして玉児と夜叉丸は出会う。
夜叉丸は玉児を『龍女』、神話の『玉依の姫』となぞらえ、御神の化身と祀り上げ、妻とする。……最初に生まれたのは娘だった」
「娘ってことは、人魚? 」
「そう……夜叉丸は、その娘を厭うて『みずこ』と名付けた。いつまでも水子のように、ふにゃふにゃとして醜いから『みずこ』……。その娘の行方は、おれには分からない。次に生まれた姉弟は、きちんとした脚が付いていた。瀧川は静かに繁栄していく……夜叉丸は老い……玉依姫は、若く若く……幼くなっていく……。やがて玉依姫は、日がな水に沈んだまま、浮かんでこなくなった……夜叉丸はそれを憂い、ある日、自らも船に乗って水に入った。……そしてそのまま、浮かんでこなかった。家臣が追って、玉依姫の寝所である洞窟に入ると」
わたしは、面の下で、河津の痩せた面立ちが変わっていくのを見た。膝に置いた手の肌が張りを取り戻し、首筋の黒ずんだ皮膚に血の気が通っていく。
桜色の白い頬、白刃のような鋭い眼差し……その座姿は……。
「姫は、まことの龍となった。雨を降らせる水の神……それは暗い谷間に流れる水の化身『
わたしは、つい、河津に尋ねた。
「……河津。あんたは夜叉丸やったんか? 」
「フッヘッヘッ! 勘違いするんじゃねえ。おまえはおれで、おれはおまえ。おいらたちにゃ名前はねえ。水底の土佐衛門様だ。何か見えたンなら、そりゃあ水鏡に映ったおまえの面なのサ」
笑い飛ばした顔は、相変わらず痩せていて、濁った瞳が穴倉のようだった。……見間違いだろうか。
「時を経て、事実は伝説になり、伝説は神話に変わる。百年、二百年、五百、千……」
「待ち。瀧川は、平家の落人が拓いたって男面は言うとった。それが嘘やなかったンならば、せいぜい五、六百年や。しやろ? ……そらあ長い時やろうけど、そんなに神の成りや形がコロコロと変わるもんやろか」
「でも、変わったのさ。百年は、平成になってもヒトには長い。思想が移ろうのに百年二百年では十分だと歴史が証明しているジャアないか。
彼らがもともと信仰していたのは、日流子という童子神だ。葦児の一族とは別に、矢又なる姓の一派ができたのは、閉塞された集落では当然だったのかもしれない。
蛭子伝説を知っているか? 兄妹神が交わり生まれた不具の神。あれは、近親婚の恐ろしさを伝えるものという説もある。血の近いもの同士の子供は、何かしらの変異をおこしやすいものらしい。その変異を、厄とみるか、選ばれたものの証とみるか、神話とは両極端だ」
「室町のころ、神仏混合の信仰が進み、『蛭子』という神は、『恵比寿』という福の神に転じた……というのは有名な話だ。ヒルが縁起のいいエビに出世して、捨て子は立派になって陸に帰って来た。福を船に乗せてなぁ。そんな蛭子伝説を媒体に、瀧川の『日流子』、『
「しかし柳の奴は、少し違う解釈をしたようだ。ヒルコとオカミという響きで、オカミを『龗』と間違えた。間違いじゃあないが、正解でもない」
「瀧川においての日流子とは、オカミと同一。かつて親に捨てられ、常世より天を照らし上げる太陽になり、海から上って山の頂に落ちるまで恵みをもたらす童子神である。
相対するように顕現したのは、もう一柱の『日流子』さま。かつて子を捨てた母人魚は、やがて谷川に身を落とし、龍となった。
彼女はすべてを飲み込む龍となり、谷間から地下を通り、洞の奥へと身をくゆらせる。二柱は上下で並べられて拝まれていた。恵比寿信仰とは違うのは、瀧川の日流子さまは未だに『捨てられた子供』であり、ただの福の神ではないところだ」
「だから彼らは、日流子の機嫌を取らなければならなかった。子供の機嫌を取るために、海と太陽を眺める滝の上から供物を落とし、荒ぶる龍神おわす洞から水の力を借り、海原へと貢ぎ物を届けようとした」
「しかし、自然とは平等の恵みなどは与えられない。日照りの年もあっただろう……大水で田が流れた年もあっただろう……冷夏、暖冬、害虫、村人同士のいさかい……それらを宥めるためには、神の力を借りるほかに無い。
「天災が起きるのは、神の機嫌が悪いから。水害が起きるのは、供物に不備があったから。悪事を働けば空船に乗せられる。死を慰めるのは、死の先に行くという神の膝元、常世という世界。もう何も怖くない……神以外は」
「蛭子信仰は、そもそも海で根付くことが多い。彼ら夜叉丸の一行は、山を越えてやってきた。彼らの故郷には海があったかもしれないが、いちばん夜叉丸に印象付けた『海』とは、父の死んだ浜辺だった。そう……逃げ延びた父が、ひとり船を漕ぎだし自害したという海だ。そもそも、夜叉丸は、その父を追ってこの瀧川近辺まで来たのだった……」
「姿を春の桜と例えられたことで知られた父は、ひとり寂しく世の嵐にさらされ、桜のように海に散った……補陀落渡海……常世という、あの世ともいえない場所へ行く儀式……その体も辞世の句も残さずに……大将として一群を率いていた男は妻子を遺して藻屑となり魚に食まれて……さて、夜叉丸は何を思ったか」
「供物を船に詰めて水の流れに落とすという神事のかたちは、夜叉丸か、その近しいものの意志を感じるように思わないか? ……そう、きっと、そこだけは変わらなかったのだ。供物を人とするか……恵みの稲穂や果実とするか……それとも幼子の玩具とするか……」
「ずいぶん論理的な話にしやがる。オバケのくせによ」
「我々は俗世を映す鏡なのさ」
「……ふん」
「……事がおかしくなったのは、柳と巽がこの瀧川に辿り着いたころだった。そのころ時代は維新から数十年、日本が大きく揺れながら変動していった時代だ。その振動は、俗世離れた瀧川にも届いただろう。瀧川に辿り着いた柳に、長老の老婆はこう言った」
―――――――……龍女には、治水の力がある。のみならず、水を肥やし、それを吸った地を肥やし、地で育った実を肥やす。自在に雨を降らすこともできようという。龗はお眠りあそばされ、久しく二十年。そろそろ地の根が緩み始めろう……。
「二十年前から、瀧川では災いが連続していた。とくに水害が多かった。彼らは祖先から聞いて、『龍女』が治水に有効だと知っていたんだ。古い神は眠りについたのだ。だから新しい神が必要だった」
「……それが巽」
「そう……巽人魚は、龍神『おかみ様』になった。された」
「……同時に、幼い人魚は、足萎えの神『ヒルコ』にも重なった。もしかしたらかつての夜叉丸も、玉児人魚を同じように重ねたのかもしれない。『日流子』は夜叉丸がつくった神なのだろうから」
「巽人魚は、『御神様』こと玉児人魚のように、いくつもの形を得た……『治水を司る龍神』、『親の手から放たれた足萎えの童子』、『不老不死の生きた妙薬』、『村の絶対的巫女』、『人食いの化け物』……望むより前に必要に応じた貌が宛がわれ、総じて彼女は、同じく『おかみさま』と呼ばれるようになった」
「おれと……お前たちみたいにか」
おれは鏡に映したように、目の前に並ぶ貌を見比べた。
「そう」
「そう」
彼らは白い貌で笑う。
「まるでわたしたちの面のように」
「瀧川の村人たちのように」
「さと子たちのように」
「巫女役のように」
「男たちが供物に変わるように」
「柳の中身のように」
「釣眼がおかみだったように」
「死霊の塊である河津のように」
「女面がおもかげと呼ばれるように」
「男面が一人の柳だったように」
「わしが翁面であるように」
「釣眼が自分の貌を失くしたように」
「時代のように」
「人のように」
「おまえのように」
「疑い、探り、腸をぶち撒け、貌にある目孔を覗き込まなければ」
「その面の奥はわかりゃない」
「……ジャア、おまえは誰なんだ? 」
ぱちりと。
その漆の玉のような眼を開き、船尾に座っていたそいつは、指した指を伝って視線を動かしておれを見た。
「……おまえは最初に言うた。『ぼくの名前を思い出せ』と。でもおれは、おまえをチッとも思い出せなかった」
「………」
そいつは黙っている。俯いた顔を、髪が簾のように隠してしまった。おれは膝を下ろし、そいつの顔を覗き込むようにする。
「雲児の……いや、克巳のふりをしとるおまえは、誰なんや」
「……ずるいヒト。ぼくはここではあなたに嘘がつけないと、そう言うたのに……」
黒目だけがおれを見た。
「けェど言えない……まァだ言えやあない……わたしは、わたしは……! 」
ゆらり、船底が波打った。
川水が嵐の海原のように荒み、船を横から下から揉んで突いて引っ繰り返そうとしている。船頭で面が泡を食っていた。ぽろぽろと代わる代わる面が顔から落ちては拾っている。
「おれにはお前が分からない。でも、話から予想することはできる……」
「思い出していないンなら言わないで。克巳のふりは、とても楽しかった……これは本当だよ」
「これだけ話せるやつは限られとる。克巳、玖三帆、柳、巽、雲児、空船……」
「言わないでったら……」
「おれには、さっきの河原ではおまえが黒髪の子供としか分からなかった。ここにきておまえの姿がやっと見えたんだ」
「わたしは罪人だ。もはや名前なんて無い……」
「名前は今までのおまえを象徴しとるんだ。雲児と空船だってそうだった。名前をつけられて自我を持った。おまえは誰に似ている? 克巳にそっくしだ」
「この船は流刑なんだ……わたしはどこにも行けない。行ってはいけない……帰るところも、全てまやかしだった。わたしは全部嘘を言った。おまえに嘘しかつけなかったんだ……」
「おまえの名前は」
「言わないで」
「―――――巽だろ、なあ。おまえは巽だ……」
巽は、破れた水掻きのある手で顔を覆い、かぶりを振った。
「ああ――――――惨いことをする。名前なんて、けっきょくわたしの形をつくろってはくれなかった。そんなもの意味がない……まやかしだ――――――全部まやかしだ! まやかしにしたのはわたしだった! 」
「おれにはもうわかったぞ。思い出した、おまえは巽だ。まやかしなんかじゃあない。それだけが本当だ! おれたちは、玖三帆と克巳は、おまえを――――」
「違う! 違うんだ! 本当なんてどこにも無い! わたしはそれを知ってるんだから! 」
叫んだ巽は、腕を突き出した。
どぷりと厭な音がした。
おのれの体に影が差し、傾いで浮き上がった。赤黒い波が体を引きづって船底が飛ぶように遠ざかっていく。波の泡の中で水の渦にまかれた河津の面が、目口からあぶくを吹きながらケラケラ笑っている。
―――――だァから言ったジャアないか……死霊を信用するなって。
謡うような声が続く。
―――――死霊は嘘をつく―――――ゥ―――――生者を騙して手を叩く―――――ゥ―――――。
水面に伸ばされた手は水ばかりを掴んで、巻き上がる白波に千切れて見えなくなった。
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