第二十一夜 菓子の穴、または水鏡 後編
◐龍
風が無い。ひどく冷たい。
どれだけの時がたったのだろう……。
陽の光が恋しい。ここは狭くて、何も見えない。
ただ暗いのではない。瞼の裏よりずっと濃い闇が、みっしりと満ちて身動ぎすら阻む。
髪も爪も、こんなに伸びた。いつしか脚も、岩間に伸ばしきれないほどに伸びている。窮屈な脚を畳んで小さくなっているうちに、どんどん伸びた脚はついにぐるりと蜷局を巻き、かかとは首に巻いても余るほど。
瞼を閉じようとも変わらぬ闇。もはや本当に目玉が二つもあるものか。わかったところで役立たずの身になってしまった。
ああ……わたしは誰だったか。闇に溶けだしたのか、忘れてしまったことに気が付いた。それに気が付いたのもいつだったのだろう。擦り切れて小さくなったような自我を舐めまわしながら、『寂しい』と何度も繰り返した……気がする。
風が無い。ひどく冷たい。
もしかしたら、風を感じる肌すら、この身には残っていないのかもしれない。
そう考えると、そんな気がしてくる。
もしかしたら肉が無いから、こんなに寒さが沁みるのか。指が手に届かなくなったのも、悴んで持ち上げられなくなったわけではないのかもしれない。この首に巻いた脚も、ほんとうは脚ではないのかもしれない。頬に、ざらり、と脚の皮が触れる。思い起こせば、自分の脚は、こんな水で磨いた岩の様な固さをしていなかった気がする。
疑問の代わりに、無意味な瞬きを繰り返す。
瞬きを三度も繰り返せば、眠たくなってしまう。しかし次に目を開けたときとの差異はなく、ほんとうに眠っていたのか、少し長い瞬きをしてしまったのか、それとも目を閉じる前が夢だったのか、それも分からない。
ときおり、光に満ちた夢を見る。無音の世界で淡い色の光が滲み、流れる雲のように形を変えながら点滅を繰り返す。あれは確かに陽の光。嗅いだのは緑と土の香り。そして、触れたあの温い柔らかいものは……。そんな夢。
夢で考えたことはすべて泡沫だ。泡になって頭を離れ、弾けて消えてしまうが、それすらもこの目玉には映らない。
ただただ光が恋しく、ただただあの緑を吸い込みたくて、ただただあの温いものにまた触れたくて、泡のように浮かぶそんな欲に、自分が何かの生き物であると確認して、また眠る。
何かを忘れている。
でもそれが、何だったのかが分からない。疑問の代わりに、目玉の皮を上下させてみる。
一回、二回、三かい……。
また眠くなる。
夢を見る。
眼が覚める。
眠る。夢を見る。覚める。眠る。夢を見る。現と錯覚する。目が覚める。考える。眠る。夢を見る。覚める。眠る。覚める。眠る。夢。覚める。眠る、夢、覚める。眠。夢。眼が……。
それはまるで、赤子が産道を滑り落ちたようだった。
産声のかわりに湧きだす記憶に悲鳴を上げ、首を振って背を曲げる。腹の下で潰れて短くなった腕が、きちんと動くことを知った。顔を、額を、背中を、伸びた脚が打ちつける。
大きな音がした。
音というものを忘れた鼓膜が破れるほどに波が立っている。目玉の皮を持ち上げると、刺すような白が突き刺さる。自らの舌の先が喉奥を突き、悶えながら咳き込んで、鼻孔でいっぱいにその泥の香りを吸い込むはめになった。
やがて、薄らと目を開けたとき、世界が一変していることを知った。すでにそこは、瞼の裏より濃い闇ではない。
自分を拘束していたのが、泥と水だと知る。
そこが、深く鉢のようなかたちの水底だと知る。
首を振ると、そよ風のような波を感じることが出来ると知る。
そして、自身の体があまりにも変貌していると知る。
ただ、自分のことだけが思い出せない……水鏡に映るこれは、わたしの姿ではないはずなのに……。
覚えているのはそれだけだ。
紫電を映した玉が二つ、天を思い出してどくどくと瞬いていた。
その黒龍は、黒い水底で体躯を丸めてわだかまる。思い出してしまった孤独に悶え、長い長い刹那の悲鳴を上げたのだ。
◐
すり鉢状に抉られた底で、闇の天空、水面を打ち付け揺らすもの。それは確かに雨と謂えよう。この鱗の影がちらりとわかるほど、薄ら明るい光が照るようになった水底に、ぼとぼとと大玉の雨が降る音がする。
身体は重く、けしてあの水面にまで体を持ち上げることは叶わない。
龍にとって、沈黙の日々は荒れ狂う波のようだ。
昼も夜も区別なく、ただ『無』の中にいると、せっかく取り戻した自我が高波のような感情の渦の底に消えてしまいそうになる。自我を保つに必要なのは、この『無』を破る変化であった。
この雨と謂う変化は龍に彼方の外を感じさせ、喜ばせた。
首を反らして水面を見上げるばかりでも、まだ待てると心が慰められた。
はて、何を待つというのか。忘却の波に失った約束であったが、龍は、ここで自分は何かを待ち暮らしていたのだと思い出す。
ばしばしと瞳から紫電が迸る。
それは、あの水彩で滲んだ夢の中で、誰かと交わした約束のはずであった。
あの人は忘れてしまったのだろうか。
長い時が経ったのだ。自らも何も分からなくなっていた。だからあの人も、約束を忘れてしまったのではないだろうか。
潮の混じった水が、水を少しうめた。
そうして泣きはらして……気づく。
地響きのような雨。
水の嵩が増えている。
なんてことだ。もうあんなに天が遠い。届く明かりも細くなり、水底には再び闇が忍び寄ってきていた。
これではなおさら出ることは叶わない。
ああ! なんてこと!
龍は首を伸ばした。
膝を立てようとしても、長くて丸いこの綱のような体では立つことも叶わない。鉢のふちは滑り、短い腕では掴まることも難しく、うまく岩肌を掴んでも今度は体を支えきれずに落ちてしまう。
涙に代わり瞳から紫電が迸る。
雨は止まない。
そんな龍の身に、雨を割ってその手が現れた。小さな子供の手であった。
その子供は、龍が忘れていた呼び名で彼女を高く呼んだ。
『母』と、声なき声で求めたのだ。
◐
小さなころ、海で溺れたことがある。母が目を離したほんの一瞬、足が滑って、浮き輪の真ん中から潮の中に沈んだのだった。
母は確か、妹の世話をしていていたのだったか。
水音で、ほんの少し気付くのが遅れた。それでも、ほんの一分もなかったことだった。
おれは、あっ、と思った時には水に顔が浸かっていた。手足は水を掻くばかり、上も下も分からなくて、とっさにつむった目を開けることも出来なかった。真暗な中でもがくうちに、あっというまに水が口に入り、鼻に入り、空気で満たされているところが侵食されていく。鼻の管の奥が、つんと痛んだ。
声高に母を呼んだけれども、それは頭の中のことだったので、当然聞こえるはずもない。手足のつかない現状に、ぼうと漠然と、底が抜けたのかと思っていた。そして抜けた底は、地獄にでも落ちて行ったのかと。
死ぬのだと思った。
そしてその時、おれは誰かに逢ったのだ。
瞬きの間、耳に潮水といっしょに入り込む声があった。その声は、もしかしたら海の神様の声だったのかもしれない。
そう思った瞬間に、母の腕が力強くおれを引き上げた。
引き上げられたおれは、少しの間、息をしていなかったらしい。おれは、小柄な母がやっと足がつくほどのところまで流されていた。
母はおれを岸に上げるために、妹の手を離した。
―――――離してしまった。
ああ……水は嫌いだ。潮水なんて、もっと嫌いだ。
再び砂浜で眼が覚めたとき、そこは地獄だった。
母はどうしてか、海辺の街に越した。冬は海すら凍るような、波が高くって岩ばかり、ちっとも泳げないような漁村だった。
そこでは妹を覚えているのは、おれと母親だけだった。
時がたつほどに、おれは妹は本当にいたんだろうかという気になっていく。幼いころに、ひとり遊びの延長で見た夢なのではないかと。母が徹底して妹のことを口にしなかったので、余計にそんなふうに思った
中学に上がったころ、母が入院した。
入院した病院は、婦人科の隣に産婦人科があった。
入院している間、何かあったのだと思う。
―――――ちょっとそこに座んなさい。
ときおり母は、妹の記憶を吐き出すように、話をしたがるようになった。
――――満帆ちゃんは、まだこんなに小さかった。―――――どうしておいて行っちゃったんやろう。あんなに小さかったのに。―――――浜に戻ればよかったんだ。他の人に助けを求めれば……。
母は喋った。貯め込んだ膿を吐くように、発作のように。
―――――どうしてあの時、近くに人がいなかったんだろう。―――――いや、探せばいたかもしれない……大きな声で助けを求めれば……。―――――玖三帆は大きかったから、先に満帆を置いて……そうすれば……。
おれは何も言えない。言っちゃあいけない。おれが喋ると、母は鬼になる。
静かに、息を殺し、おれは鬼が吐く毒を受け止める器になる。
――――海に行きたがったのはおまえだった。だからわたしは、無理してでも二人の子供抱えて……。―――――ああ、どうしてあんた、もう少し待ってくれなかったの。―――――おまえは大きかったんだから、まだ一分あっても生きていられたかも。満帆ちゃんは小さかったから、溺れるのも早かったんだ……。
おれはお母さんの子供なんだから。満帆の兄ちゃんだったんだったんだから……。
―――――おまえが溺れなきゃ、満帆ちゃんは……。おまえのせいで満帆は……。
そう思っていられたのは、いつまでだったか。
―――――どうしておまえ、浮き輪を離したりしたのよ……。
―――――もうウンザリだ!
―――――こんなのは地獄だ。どうしておれは地獄にいる。―――――こいつのせいじゃあないか、こいつが、おれと満帆と両方うまく助けてりゃあ良かったんだ。―――――どうしておれのせいで満帆が死んだ? ―――――おれはあの時、あんなに苦しかったんだ。溺れていたんだから当たり前じゃあないか。五つだったんだから仕方ないじゃあないか。―――――浅瀬でも三つになったばかりの子供を置いて行きゃあ、そうなることも仕方ないだろうさ。―――――誰のせいって、全部がゼンブおまえの、おまえだけのせいじゃあないか!
―――――それはおまえの地獄だろう! おれを巻き込むなよ!
夢を見た。
夢と謂っても、見えるのは暗闇だ。
耳ばかりが夢中を彷徨っては、暗闇のなかにある音を拾う。
聴き慣れた潮騒と、遠くの踏切の遮断機、襖越しの布団で眠っている母親の寝息、裏の爺さんが、五時ぴったりに自転車で出勤していく音……。
そうしたすべての音が、潮の音に飲まれて遠ざかる。
ざざあ――――――ん……
ざざあ――――――ん……
不幸な話をわざわざ言葉にしてぐちぐちと連ねるのは、一番嫌いだ。それが当事者の口からだったのならば、尚更に虫唾が奔る。穴みたいな目ェしやがって、どこを見てンのかわかりゃしねえ。気色悪い、胸が悪くなる。そんなことしか言えねえのか。おれはあんたなんかどうだっていいんだ。おれは、おれは……。
ざざあ――――――ん……
ざざあ――――――ん……
濡れている。
おれの足が濡れている。
何も変わらない地獄に空いた、小さな異変の孔。
微睡みの中に虫食いのように空いた孔。
部屋の中に、潮の匂いが流れてきていた。濡れた布団と、濃い生臭さ。
十七歳のおれは、いつもより少し早くに目を覚ます。
瞼を開けたら、今度は新しい地獄―――――。
◐
嫌な夢を見た。
いや、分かっている。夢じゃない。寝る前に振り払ったと思っていたのに、まだ瞼の裏に、血だまりと、克巳が短刀を握っている背中が焼き付いている。鼻孔には、薫り立つ鉄の臭気が張り付いたようだ。
寝床を抜け出し、適当な服を着ると、おれは奥の部屋へと忍び歩いた。克巳が眠っていることを確認して、おれは音をたてないように家を出る。
重い大きな蝙蝠傘が傾くほど、強く雨が降っている。滝のような雨で地面が曇り、濃い霧を蹴とばすようにして坂を下った。
隣家の屋根が見えてくると、同じように煙る地面を蹴とばし、人影が坂を上ってきた。
「ああ……っ! 玖三帆くん! 」
葦児サト子だ。
―――――葦児サト子という女は三人いる……――――――
おれはヒトの名前を覚えるのが苦手だ。顔だけを見覚えのある小柄な小母さんは、胴回りを揺らし、傘を持つおれの腕を引いた。
「バスが―――――つやが―――――」
「エ? 」
「バスが夜から帰ってきていないの! 道が埋まっていて、松弥くんが運転していたバスが土砂崩れに巻き込まれたかもしれないって。もしかしたら佐陀先生も乗っとったかもしらん! 」
雷が吠えた。
おれは雷鳴に誘われたように、嘶く空を仰ぎ見た。傘を上げた雨に煙る向こう側は、地面を舐める霧が坂の上を波打っている。見上げた我が家の上に、白い腹を見せて稲光が奔った。笛のような音を立てて風が吹く。
照らされる黒い屋根のシルエットの上に、小柄な影が重なって見えた。
龍が啼くと雨が降る。
この日、瀧川の龍が目覚めた。
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