第十八話 雲がちぎれる時 前編
高台の家は、平屋造りの古い家屋で、長方形の家をL字に囲む庭があった。
庭と謂っても、土塀と家との隙間とでもいうべき空間で、土が剥き出しのそこは、どこからか種が飛ばされてくるのか、温かくなると野草が茂って色とりどりの花を咲かせる。
我が家にやってきた同居人は、そんな無精な庭を横目に見ても眉一つ動かさなかったくせに、初夏のある日帰るとすっかり綺麗に刈り取って、種を植えようと言ってきた。放っておいても夏には花が咲く丈夫な草だという。
その男は、赤茶の混じった毛足の長い猫のような髪の下に、これまた昼間の猫のような、気怠そうな顎が尖った顔がある。背はあまんまり大きくないし、痩せていて筋肉質なところも猫に似ていると思う。
これの名前を、葦児玖三帆という。
わたしがそいつに興味を持ったのは、こいつとヨクヨク似た男を、もう一人知っていたからだった。
そいつはわたしを迎えに来たあの男で、名前をヤナギというのだそうだ。
長い長い七時間の車中にも、口を利かずに窓の外をジッと眺めていた幽霊みたいなヤナギの横顔と、この玖三帆くんという輩の顔は、とてもよく似ている。
ヤナギの方が面長だけれど、赤いむやむやした髪や黒目の小さな眼、耳の形なんてソックシだ。
「……誰も気付かないの? 」
「そんなん、気づかんふりしてンだけやよ。克巳ちゃんも、あんまり言うたあかん」
「それより克巳ちゃん、いつ柳さんと会うたの? 」ズボンの裾をかがりながら、不思議そうにさと子小母さんは言った。
◐克巳十二歳/秋
ここは、へんなのばっかりだ。
「ようやっとるか」
玖三帆が来るより以前、田んぼの端っこから、そう声をかけてきた男がいた。四十がらみの男で、「誰だろう」と首をかしげると、心外そうに「一緒に電車に乗ったやないか」という。
不思議なことに、わたしを迎えに来たのはこの小父さんで、ヤナギという男では無いという。というか、そもそもヤナギさんとは村の偉い人で、電車に乗ることはおろか、山を下りたことすら無いという。あとから聞いたところによると、玖三帆の母親が山を下りた時も、 恋人だったヤナギさんは一歩も山から動かなかったそうだ。わたしを迎えに来る役目を負うわけが無い、高い立場の人間だった。
不思議に思ったので、わたしはその日のうちに本人に確かめてみることにした。
毎日必ず通るという、村の下段の小道に張り込み、ヤナギを待った。
「おまえ、春に集落ン来た子供やろう」
そう言った『ヤナギさん』は、わたしに会ったことはないという。
その次の日、うちにやって来た『ヤナギさん』とまた顔を合わせた。
「……おい、おまえ。こン前の春に、村に来た小僧やな」
わたしの認識では三回目だったが、『ヤナギさん』は、再び初対面を主張した。
「そんなわきゃアない。じゃあおまえ、いつおれと会うた言うんや」
おかしいのは、わたしの方なのか?
わたしは、一人きりの友人にそれを溢した。
その友人は、昼間に集落下段からさらに降りたところにある瀧川下流の河川敷、水浴びが禁止されている大岩のあたりで会える、巽ちゃんと言う女の子だ。
いつも顔と脚に布を巻いていて、脚が悪くて歩けないという。それなのに、どう登るのか、川の真ん中の大岩の陰に座っている。
世話役のヤナギさんが厳しいため、昼間の僅かな時間に抜け出してくる。
運が良くなければ会えない友である。
その正体は村衆が一心に拝み倒している『おかみさま』とやらだということには、やがて気が付いた。本人はすこし世間知らずな、人見知りの少女である。人目を気にしなければ会えない友というのも、なかなかにスリリングで面白い。
彼女はわたしの言葉に、布を垂らした顔を俯かせ、陰鬱に黙り込んでしまった。
わたしが話を変えようと口を開きかけたとき、彼女はポツリ……と言った。
「……わたしのせいだ」
巽ちゃんは、顔の布を川岸の岩の上に脱ぎ捨て、黄色い目に涙をためて、わたしを睨むように見た。
「きみとはもう会えない」
「……どうして? 」
「柳にばれた。……もう会えないよ」
「そんなことは無いんじゃあない。そンならぼくが、会いにいくよ」
「無理だ……柳は、わたしを閉じ込めておきたいんだ」
首を振る巽を慰めて、わたしは繰り返し提案した。「一度お願いしてみたら」
翌日、朝食を食べていると、がらりと戸口が開いた。
そこにはヤナギさんがいて、憮然とした顔で田舎特有の高い土間に腰掛け、わたしに言った。
「巽さまとの親交は許しちゃろう」
「ただし……」と、ヤナギさんは言った。
「こんどから、おまえも神事に出やり。したらオマエはもう、瀧川の子ヤデな」
◐克巳十二歳/秋
ここ瀧川の子供は、七つになると『おかみさま』にお参りをしなければならない。
外から来た人間には、時が来れば神官である柳さんからお声がかかる。
七つになった子供は正月に、外から来た人間はお誘いがあった最初の神事の前日に、岩戸の奥の本殿に行って、神酒を飲まされ、おかみさまへの拝礼をし、それで正式な瀧川の住人と認められる。
九月の十七の日、わたしは本殿に呼ばれた。
時代劇のような格好をした柳さんから差し出された盃は、夜目にも赤い色をしていて、中身は酒の匂いのしないただの水だった。
「こン盃の中身は、おかみの沼の水ヨォ」ヤナギさんは言う。
「ヨシ。これでお前も瀧川の子やっど。……次は神事や。おまえ、笛はできるか。……できんか。なら師匠をつける。舞と笛、稽古せい」
人魚は沼の中に浸かっていたが、一言も言葉を交わすことができなかった。
翌日に迎えに来た師匠というのは、坂の下のお隣さん。
葦児さんちのお姉さんだった。
下段から川を上り、『おちうどの滝』とやらの上にある小屋に連れていかれ、そこで説明を受けた。今後、ここで装束の着付けから、笛と巫女舞を習うという。
「あーっ良かった! いいかげん、やめたいと思ってたもん」
毎月のことで面倒だしさ、と、彼女は嬉しそうだ。「これやめたら、髪染めてパーマかけるんだから」
神事は夕方から夜に行われる。
最初の神事ということで、わたしは恰好だけをお姉さんと同じ装束に整えられ、拍子にあわせて太鼓を叩くようにいわれた。
「本日は最初の秋の朔の神事だからこうやって舞台を整えたけど、いつもはこんなに大がかりじゃあないのよ」
わたしたち以外に神事に参加するらしいのは男ばかりで、なにやら投網などを携えている。
神事のための化粧をしたお姉さんの顔は、世闇が近い時刻にしても青い。
ドコ、ドコ、ドコ……と、男衆の先触れの太鼓が鳴りだした。
「いい? あんたはあの舞台の左で太鼓を叩くの」太鼓の拍子が重なるうち、舞台袖で強く腕を掴まれて、繰り返し彼女は言った。
「あんたからは見えないだろうけど、何が聞こえても逃げちゃいけないよ。しっかり叩かないと、おかみさまに食われちゃうんだからね……」
中州に誂えられた舞台の左、下手の方へわたしは座り、太鼓を叩く。間抜け面の童子の面を脳天から額にかけて被せられたわたしは、俯いて真下の視界を確保することになる。手元しか見えないので、太鼓には集中できると思ったが、そう上手くはいかなかった。
わたしが太鼓の拍子をあわせて叩きだすと、舞台がぶるぶると振動した。
しゃりん、しゃりん、鈴の音がする。女の面をかぶったお姉さんが、上手より鈴を振って歩み寄り、舞をはじめたようだ。
太鼓に交じり、悲鳴のような音が聞こえた気がした。
いや、確かに獣の声がした。……犬じゃない。猿だろうか。
遠くから野太い歓声があがり、囃し立てる。わたしには手元しか見えない。
騒ぐ猿の声の中に、言葉の起伏があるように錯覚する。撥を握る指が汗ばむので、強く握りなおした。
……猿はどうやら、観衆よりも近くにいるようだ。その荒い息遣いすら感じられる。
舞台の揺れが大きくなる。太鼓の音が強くなった。地鳴りみたいだ。
波打つ空気。
ひゅるるるるうぅぅ………川岸の向こうの木々がざわめく。
川面を大風が一閃した。楽すら吹き飛ばす大風は、着物の下にまで吹き込んできて素肌を撫でては去っていく。
わたしはコロリと撥を取り落とし、慌てて這いずるように手を伸ばして拾い上げた。
大きな大きな、歓声が上がった。……獣の息が途切れている。
わたしは撥を握りしめたままの姿勢で、ただただ俯いていた。冷えた汗が、腕の筋肉を痙攣させている。狭い視界に、爪先が歩み寄ってきた。
冷たい尖った指先が、わたしの腕を強く鷲掴み、顔の面をはぎ取った。思わず見上げた先には、白い顔の女面が立っている。
「克巳……」女面が口をきく。「……ようやったね」
「ようやった」女は繰り返す。言葉に反して、あの光景を見なかったわたしを責めるような視線が降り注いだ。
重なった腕と手のひらを伝わって、「……逃がしゃせんぞ」と声がした。「これからはお前だ」と言われている。
……そんな気がした。
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