N
きぬいと
1
Nに初めて会うたのは、私が十九か二十の時頃だっただろうかと記憶している。共通に持つ友人と食事をしたのが最初だった。
私は片田舎から東北帝国大学に去年から出来た、法文学部で社会哲学を専攻していた。同じ学部の友人が、その共通に持つ友人であったのだが、Nの話はその友人伝てにいくらか聞いていた。Nは経済学を専攻する学生であり、普段は寡黙で大人しいらしかったが、彼のその聡明ぶりは、時折開く口から紡がれる言葉から滲み出るようであったと云う。
そのような聡明さの一方で、然しながら、時折食堂や講堂のような、何者が見てるやも知れぬ場所で突然叫びだしたり、部屋で友人と酒を呑み交わしていると突然に在りもしない人間の有様について夜もすがら事細かに語り出したりと、少々気の触れたことを成すことも少なからずあるのだと云う。
「ハァ、君が話すN君と云う人間は、至極変わった人間で……一目あってそれらが本当か確かめてみたいくらいサ」
初夏を迎えた太陽が若葉を照らし、薄緑色の影を地面に落とすのを心地よく眺めながら、私はそう友人に云った。
「ソレならば今日、それも今から会うてみるかい。これから件のN氏と食事をする約束をとりつけてあるのさ。君を紹介さえすれば、彼もキット笑って迎えてくれるだろうよ」
「エッ……」
と私は少なからず驚きながらも、その誘いを断るべく由もなく、結局その食事に付き合うことにした。
食堂にはほとんど日が差し込まないままであった。入った途端に地下の暗さの割に北欧の蒸し風呂のような湿気と温度が、ジメ、ジメ、と肌にまとうようであった。
食堂の奥にある小さな窓からは、初夏の新緑がユラ、ユラ、と涼しげに揺らいでいるが、それだけでは私の感ずるこの不快感を拭い去るのはいささかムズカシイようであった。
入り口を入って左には、いくつもテーブルがズラと並んでいる。百とも二百ともいるであろう大学の構成員を全員収められるだけの数が並んでいるらしかった。
昼食にはもう遅い時間らしく、人はまばらであったが、入り口に一番近いテーブルに、彼は居た。どうやら講義で使う本や資料を睨みながら、カリカリと原稿用紙にメモを書いているようであった。
周りのことすら気に留めない勢いであったが、友人がヤアと声をかけるとふと顔を上げ、笑みをこぼした。私に気づくと立ち上がりながら
「アア、ドウモ久方振りだね。こちらはどなたで?」
と友人に問うていた。
Nは私が思って居たよりも小柄な男だったが、服の外からでもその筋骨がしっかりとした男であることがすぐに分かった。丸いメガネを外すと、切れ長の目が、どうもこちらを見透かすように私の顔を伺っているのだった。
「同学部の学友サ。君に興味があるらしい風変りな男サ」
冗談交じりの紹介を承けて、私は軽く会釈をした。
「N氏のことは、コイツからよく話を伺っておりますれば……」
「N氏、だなんて、仰々しい呼び方は止してくれよ。僕はそこまで偉くも出来た頭も持っていは居ないのだから」
話に聞いていた雰囲気とは違うと、私は感じた。彼は大人しくもその口から出る聡明さもなかった。Nはそんな私の驚きを意に介することなく、笑顔のまま私達を同席に誘うのだった。
「もっと寡黙な方だと……」
「僕が寡黙で聡明であるように振る舞うのは、大学の先生の前でだけサ。左様にしておけば先生は僕をよく見てくれるし、先生によく見られる聡明な僕を、周りは悪いようには云わないからネ」
「……然し君は、この食堂でよく叫んでいると」
「ハハハハハ、さては君、この友人の言を鵜呑みにしたのではあるまいな。コイツめ、僕をソンナ風に君に言いふらして居たとはな。僕はそんなにいつも叫び散らすわけぢゃあないさ。唯だ時折、タマラナク不満が昂るときに、周りを見計らって卑しい言葉を叫ぶことが在るだけさ」
私は友人伝てのNと、目の前でケラケラ笑いながら飯を食らうNとは、全くの人違いなのではないかとすら思った。然し、その思いが私の間違いであることは直後に理解することになるのだった。
「君はア、何を学んでいるのかな」
ふとNは私にそう問うた。
「社会哲学を少々」
「ホウ、社会哲学を、それならばいろいろ語らいたいところだナア、昨今の社会はどの様に見える」
「どの様に、と云いますと」
「僕にはネ、昨今の社会トハなんとも複雑に思われる」
「ハア」
「然しながら、その複雑な社会を、ドウモそれらを人間味のある数字で以って測りたいのサ、然しだどうだい、周りの連中は口をそろえてこう云うぢゃあないか。人には心が有り、感情が有る。そんな人が集まるのが社会なのだから、モノが落ちるとか、水が流れるとか、そういうことを測るために使う、数字のようなものぢゃあ、絶対に測れないし、そういうもので唯一的に測るべきものぢゃあないと。君は社会哲学を学んでいると云っていたが、これをどう思う」
Nは私をぢっと見ていた。その目は私に何かを期待しているらしかったが、私は何を期待されているのか、皆目検討も付かなかった。失望されることは恐ろしくもあったが、背筋に感ずるこの湿り気が汗か湿気かを判ずる間もなく、意を決してこう返すのだった。
「仏蘭西にはデユルケイムと云う社会哲学者が在りましたが、彼曰く、社会をモノのように扱うべしと」
「ホウ……」
「このモノのように扱うべしというのは、私にも至極ムズカシイことではありますが、デユルケイムの貢献を借りて述べるならば、自殺の傾向とは国の統計の数字から見て取れるものであり、そこから人々の心を推し測ることも可能ならしめるものでありますれば、人に心があり、感情が有るということが、社会を数字で測れぬ理由になるとは考えられぬと……」
私が自信無く尻すぼみに言葉を終えると、その終わりを待っていたかのように、Nはウンウンと頷き
「コイツは素晴らしい。コンナ大学にも君のような人間が居るなんて思いもよらなかった。コイツは素晴らしい。君のような人間に会うことが叶ったのも、やはり持つべくは友、というのだろうな、アッハッハッハ」
Nは笑いながら私に握手を求め、私はおずおずとそれに応えるのだった。食堂のジメジメは、その時すっかり忘れてしまっていた。
それ以来、Nと私は時頃が合えばよく議論を交わすようになった。
私は他の人とも議論を交わす機会はあったが、そのたびに
「君は何も解っていない。何を学んできているのか、君のような人間が無学の怠け者と云うんだ」
と理不尽な罵倒を浴びせられるのだった。彼との議論でもそれを浴びせられるのかと当初は冷や汗ものであったが、彼は私の言葉を最後まで聞き、ウンウンと頷きながら目を閉じ、少し考えた後に口を開くのだった。その言葉には私を否定する言葉は一切なく、「君はこう云うが、事実そうではないのじゃないか」とか「君の論理だとこの仮定は自明のようだが、この仮定を外すとどうなるのか」とか、反論したり、質問したりした。唯の一度も、私を非難したり、間違いを非道く問いただしたりしなかった。
私も彼に倣い彼の話を最後まで聞き、そこから応えようと臨んだものだが、彼が突拍子もないことを言い出すと、ついつい言葉を遮ろうとしてしまった。彼はそのたびに私に言葉を譲るのだったが、私は罪悪感と恥ずかしさで「ちょっと落ち着かせて欲しい」などと言い淀む他なかったのだった。同時に、人の話を聞く態度それだけでも、Nがいかに聡明で優秀な人物であるかを推し測ることが出来た。
「フウン……君は将来、どうするのだ」
ひとしきり議論を終え、食堂で温い水を飲みながら休んでいると、Nはふとこう訊くのだった
「エッ、将来……」
「そうだ。何か仕事に就いたり、物を書いたり、より今の知識を深めるなんてこともいいかもしれない、そういう将来だ」
「アア、今のところは大学院、もう少し学びたいことがあるんだ」
「ホウ、この大学の大学院か、それとも他の大学か」
「この大学の大学院だ。先生は時折理不尽ではあるが、それを耐えてでも価値のあるものがある。環境も悪くない。東京に行きたい気もするが、私の身体ではすぐに大学に行けなくなりそうだ」
「ハッハッハ、肺が弱いのに煙草なんぞくぐらすからだろ。そうか、ここに残るのか……」
「君はどうするのだ」
「僕は東京へ行く、これで二度めになるんだがネ……」
聞けばNは、一度東京帝国大学を受験していたのだった。その折は不合格となり、失意半ば東北帝国大学へ入学したのだと云う。
「……落ちたものは仕方がないと、この大学で勉学に励もうと決心したサ、過去はドウモ変えられないからね。でも直ぐに失望してしまったよ、なんせ周りに学がない。ソリャア君の話を聞くに、君の居る所は相当に恵まれているらしいがね、僕の周りはドウモそうぢゃあないらしい、全く学が無く、全く駄目なのだ。皆カネか仕事か、或いは自分で仕事を興そうだとか、女の尻のことしか考えちゃあいないのサ。真に重要な勉学などとうの昔に忘れて、そうして、社会に出たら歯車サ……
僕アそんなザマにやあなりたくない、だからどうしたってこの阿呆ばかりの大学から出て行くのサ。東京が駄目ならば大阪に行く。あそこにやあ若くして外国の大学を卒業して教鞭を振るう先生が居るらしいからナ」
私はかようなまでに学の志の高い友人が目の前に居るという、ただそれだけのことが喜ばしく、そして誇らしかったのを覚えていた。
間もなく夏の暑い日差しが降り注ぐようになった。けたたましく蝉が鳴き、木々の緑はより其の濃さを増したようだった。食堂は愈々蒸し風呂の体を成し、調理師の溜息が時折漏れ聞こえるようだった。
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