【短編集】プロローグは誰にだって

雨旅玄夜(AmatabiKuroya)

『微睡みと夢が覚めるまで』



 

 いつものホームで、いつもの音楽を聴きながら。

午前八時三十分の駅は、割と人で混んでいた。

 向かいにある下りのホームをボーっと眺めながら、僕は爪先でトントンとリズムを取る。特に何も考えることがないから、そのリズムが妙に体に響く。




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 「○○行、普通電車が発車します。」

 気が付くと、目の前には薄汚れた緑の車体が現れていた。

僕は慌ててそれに乗り込む。

電車の中は灰色で、静かだ。

その空間全体は、レールのひずみや車体の揺れのみを反映していて、どことなく異空間めいていた。

冷房の冷たい空気の流れる中に、初夏の日差しがアクセントとして映り込む。

 僕は空いていた席に座った。八人掛けの横長いソファには、何人かの疲れた大人が座っていた。




 手でポケットを探る。

少し冷たい機械の側面をなでながら、恐らくそれかと思われるところを触る。

イヤホンから流れる音楽が、プツッと切り替わった。



 

『○○年デビューのシンガーソングライター。パワフルなボイスの持ち主の彼女は、昨年○○というシングルにてメジャーデビュー。今年も○○や○○などの…』

まるでどこかの音楽番組のようなノリの良い解説を、心の中で読み上げる。

 これが僕の日課だ。

この時間だけ、僕は僕ではなかった。

いつも使わないような言葉で、テンポで、僕はその場の空気を司る名司会者になったような気でいた。

本当はできないようなことを、自分でやってのけているような気がして、心地よくて仕方がなかった。

 僕のすぐそばで歌い上げる彼女の音楽は、歌詞の透き通ったような磨かれ具合の割には、独特で尚且つテンポの良い曲ばかりだ。

時に心の底を必死に掬い上げたように歌い、声を張り上げて食いつかんとするばかりに装う彼女。

そして、壊れてしまわないように丁寧に包み込むように歌う彼女も、僕はよく知っていた。

 ずっと取り続けていた爪先のリズムは、その歌声に呼応するように強くなったり弱くなったりする。

それに合わせて、なんだか胸を締め付けられるような気分になったり、後ろの窓を開け放って顔を出してしまいたい気分になったりした。




 『…そして、彼女は僕の今イチオシのアーティストです。』

紹介を終えた僕は、なんとなく得意げな気持ちになった。

僕が一番好きで、一番大切にしている音楽。

言葉。

それを、彼女のことを、今この車両に乗っている全ての人に知ってもらえたような気持になった。




 僕は、ソワソワと左右を見渡す。

無意識なのか必然的なのか、あくまで平静を保っているつもりだった僕のリズムは、気が付けばハッキリと足に現れ始めていた。

 僕はこの感覚を誰かに共有してもらいたくて、さらに妄想を広げていった。

『例えば、次の駅で僕の隣に坐った人が、このリズムに気が付いて一緒に合わせてくれるとか』

『例えば、この車両の中の人に音楽を共有できて、一緒に分かち合えたら。』

この曲は素晴らしいですねとか、そんな言葉が耳を埋め尽くしていく。

僕は徐々にその妄想の中に没頭していった。




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 『その曲知っています。いい曲ですよね。』

あれからしばらくした時、不意に妄想がこのセリフをつぶやいた。

その瞬間、ぼんやりとした微睡みの世界から、僕は目が覚めていった。

火照った体からすっと熱が抜ける。

 彼女はマイナーなのだ。

今に有名になるに違いないけど、彼女のことを知っている人はまだまだ少ない。

僕は何故だかその時、友達に不可解な顔をされたことを思い出した。

 「いい曲なんだけどな」

たとえそうでも誰かに聞いてもらえなければ意味がない。

だから僕は誰かに聞いてもらいたいのだが、そういうのはなかなか難しかったのだ。

 つい先ほどまでの名司会者はただの凡人に戻って頭を抱える。

 



 電車は気が付けば下車駅に差し掛かっていて、僕は慌てて鞄を持ち直した。

僕があれに没頭している間に、電車の中は人でごった返すほどになっていた。

 「○○駅。○○駅です。」

ドアが音もなく開く。

僕は何とも言えない空っぽな気持ちになったまま、席を立った。

その瞬間、僕の目にはトントンとリズムを刻んでいる足が映った。

 「あっ」

 その感情が言葉にならないまま、僕は人の肩にはじかれ車両の外に出されていった。

その人を一目見ようと立ち止まる僕には、あのドアがいつもより早く閉じてしまったかのように感じた。




 もう遠くなってしまったその空間の中で、女性は「ありがとう」と口パクで言って、にっこりと笑う。それは間違いなく、今僕のイヤホンから流れ出る声の持ち主だった。

 「自分は、彼女のことを本当は全然知らないのかもしれない」

また熱が戻ってきたのか、体が火照ってくる。

 ホームには赤面した僕が、ただ一人残されていた。

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