第65話キハチロー

イツキが襖を見た瞬間、「失礼します」という声と共に襖が静かに開いた。

そこには板前の姿をした男が正座して頭を下げていた。


そして頭を上げた男はシドの顔を見て

「お久しぶりです。老師」

と言った。


「おお、キハチローか。元気でやっていたか?」


「はい、お陰様で」


「また腕を上げたか?今日の料理は最高だ」

シドは満面の笑みを浮かべて言った。


「ありがとうございます。久しぶりの和食を堪能していただけましたか?」


「うむ。最高だった。あ、そうじゃ、これがお前の兄弟子になるイツキだ。会うのは初めてだったのぉ」

シドはイツキをキハチローに紹介した。


キハチローはイツキに向き直ると

「初めましてキハチローです。イツキさんのお噂は以前から聞き及んでおります。よろしくお願いします」

と頭を下げた。


「いやいや、この料理は感動しました。特に醬油味は涙が出そうになりました。刺身醤油も最高でした。全部自家製ですか?」


「ありがとうございます。醤油・みりん・酢・日本酒は全部自家製です。御気に入って貰えたようであれば幸いです」

キハチローは物腰の柔らかい、言葉も丁寧な若者だった。

 見た目は長身で細身の体は板前には見えないが、この落ち着いた物言いに触れると侘びと寂(さび)を感じられる好青年だった。イツキはこの青年がとても気に入った。


「どこで修行を?」

イツキは聞いた。


「京都の料亭です。懐石料理を中心に作ってました。でもまだまだ修行の身でだったのですが、気が付いたらここに居ました。」

とキハチローは答えた。


「こ奴は交通事故で死んだらしいのだか、まだまだ修行がしたいって神様に言ったらここに来た……そうだったな?キハチロー」

シドはキハチローの話を補足するように言った。


「はい。その通りです。まさか本当に神様がいるとは思いませんでした」

と軽く笑いながら答えた。


「ここに来る人は色々なパターンがあるようですね。そう言えば、つい最近も死んでから神様に『あれ間違いだった。仕方ないからこの異世界に行かせてやる』とか言われて転生してきた高校生に会いましたよ。」

とイツキが言った。


「死に間違いかぁ、それは酷いのぉ」

シドも驚いたように同情していた。



「老師、今回は単なる旅行ですか?」

キハチローは話題を変えるようにシドに聞いた。

「まあ、そんなもんじゃ。久しくイツキとも会っておらなんだからのぉ。たまにはのんびりと旅行でもしようかと思うてのぉ。お主の顔も見とらなかったから寄ったのじゃ」

と適当に誤魔化して言った。

 まさかここで今からケンウッドの森のヴィクター族をたぶらかしてアルポリと一戦交えるとは言う訳にはいかなかった。


「そうなんですね。それではここには幾日かご逗留される予定で?」


「いや、それが明日の朝には発つ予定じゃ。王都も見たいでの」


「あ、それは残念です……朝早くにツバウですか?今あそこはバタバタとしてますよ」

キハチローは意外な事を聞いたというような顔をしてシドに言った。


「バタバタ?」


「ええ、アルポリがこの大陸の他の部族を攻め始めたもんですから、軍隊が常時駐留しています。ここも数か月前に軍隊が通過して行きましたよ」


「そうなのか……」

 イツキはそれを聞いて少し考えた。

今軍隊は周辺の部族を各々討伐に向かているはずだ。一体いくつの討伐隊が編成されているのだろうか? 今回のヴェイクター族へは役約5万の兵力を向けたはず……王都のツバウにはどれほどの残存兵力があるのか……それらによってケンウッドの森の戦い方が変わる。

イツキには気になることが沢山あった。


「今王都は……というよりこの国はキナ臭い雰囲気が漂ってますね。なので王都に言ってもお気をつけ下さい」

キハチローはそう言うと心配そうな表情でシドを見た。


「うむ。アルポリは軍事国家を目指しておるのかのぉ……困ったもんじゃ」

とシドはあまりそれには興味がないような素振りで返事をした。


「それよりも、もし何かあったらすぐにナロウ国の王都まで来るのじゃぞ。分かったな。お主の料理が食べられなくなるのは非常につらいからのぉ」

と更に能天気な事を言った。


「分かりました。その時が来たらさっさと行きますよ」

とキハチローは笑いながら言った。そして

「それではごゆっくり」

と言って襖を閉じて戻って行った。


「イツキ、お主が顔が怖い。今から何かを企んでいるというのが、みえみえじゃ。」

とシドはイツキの顔に指でご飯粒を飛ばした。


「え?」


「お主の悪い癖じゃ。直ぐに我を忘れて考え込む。分かり易過ぎるわ」

とシドはそう言いながらも笑った。


「あ、済みません。迂闊でした」

そう言いながらイツキは鼻にへばりついたご飯を指で取った。


「まあ、良い。キハチローも本気でワシとお主がのんびりと温泉旅行をしているとは信じんじゃろうて。それに、どのみちアルポリ軍の全体像を掴まぬ限り作戦は立てられんからのぉ」

シドはイツキが気にかかったのが何であるかが分かっていた様だ。

「そうですね。今日は考えるのを止めて飲みます。食べます。折角の料理ですから」

そういうと刺身を醤油に付けて口の中に放り込んだ。


その夜、シドとイツキはアルポリのことは忘れて昔話に花を咲かせた。



翌朝、シドとイツキは村を出ると翼竜を2匹呼び出し空へと飛びあがった。

「師匠、ケンウッドの森のどこへ行くか当てはあるんですか?」

イツキは翼竜の背中に乗って楽しそうに地上を見ていたシドに聞いた。


「ああ、ある。取り敢えず今から向かうのはラディアンという村だ。」

シドがなにか宛があるようだった。

 それにしても空からの眺めはやはり気持ちがいい。

温泉で疲れも取れたイツキは清々しい気持ちで翼竜の背に乗っていた。


「今日は休みなしで一気に飛ぶぞ」

シドはイツキにそう叫んだ。


イツキは

「分かりました」

と叫び返した。


 空は青い。この空の青さを見ていると、わざわざ戦を起こそうとしている奴らが本当にバカに見えてくる。

さっきまで、どうやってアルポリ軍を撃退しようかとかどうやってゲリラ戦に持ち込もうかとか、そんなことばかり考えていた自分もバカらしく思えてきた。


 いかんいかん……もっと真剣に考えなくては……とイツキが思っていたら、少し斜め前を飛んでいたシドが眼下に見える森を指差し「そろそろ降りるぞ」と合図を送ってきた。

イツキはその合図に答えて同じように高度を下げていった。


 シドとイツキは翼竜を操り森の中へと降りていった。


「さて、ここからは歩いて行くとしよう」

 森に降りるとそこは小さな広場だった。そこから細い道が続いていた。獣道よりはマシな程度でなんとかそこが道だと認識できるような幅でうっすらと道が続いていた。

シドはその道を躊躇なく歩き始めた。

 どうやらシドはここに来た事があるようだ。イツキはそう思いながらシドの後ろをついて歩いた。

しばらく歩くと今度は舗装はされていないが、それが道であることが分かる程度に整備された道に出た。


「後少しじゃ」

シドは軽い足取りでイツキの前を歩いている。


急にシドが足を止めイツキを手で制した。

その途端に足元に矢が刺さった。


イツキは弓が飛んできた頭上の木々を見たが鬱蒼と茂る木々しか見えない。


「ヴェクター族か?」

シドが森に向かって叫んだ。


森の中から声がした。


「何処へ行く」


「ラディアン村へ行く」


「ラディアンに知り合いでもいるのか?」

また森に声がこだました。


「アイスマンに会いに来た」


しばらくの沈黙の後、目の前に弓を持ったダークエルフの男が現れた。


「アイスマンに何用だ?」

黒い服に包まれた細身のダークエルフの男はシドの前に立つと聞いてきた。


「大事な用があってきた。アイスマンに会わせてもらう」

シドがそう言うとダークエルフの男はシドの格好を確かめるように上から下まで見た。

「賢者か?」


「そうだ」

男はしばらく考えてから

「分かった。俺が案内する」

そう言うと歩き出した。シドとイツキはその後をついて行った。


森の中は鳥の声がよく聞こえる。風が吹き木々や葉が擦れる音がする。それがザワザワと人が話しているようにも聞こえる。


いつもなら聞こえるモンスターの叫び声は聞こえない。


 ダークエルフは無言で歩いていた。シドもイツキも無言でついて行った。

木漏れ日が優しい影を作っていた。

 この森は良い森だ。こんな森に住んでいる民をわざわざ征服しに来る必要がどこにあるというのだろうか?彼らは放って置いても何ら問題にもならない民ではないか?……イツキはそんな事を考えながら歩いていた。


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