第35話船上
「く、く、空気が……流れが……いつもと少し変わったので、み、見に来ました。」
リチャードは半分失神しそうな気分になりながらそう答えた。
ヒキニートだった男でも、皇太子に何かあると思った瞬間、貴族の誇りが恐怖感に打ち勝った。
スチュワートは僅かな廊下の空気の流れを察知して、様子を見ていたら見知らぬ男がリチャードの部屋に入るのを見たので、慌ててこの部屋に忍び込んだようだ。
「スチュー、安心しろ。こいつは俺の友達で、俺の事をいつも見守ってくれるありがたい奴だ。」
リチャードは笑いながらスチュワートにケントを紹介した。
「そ、そうでしたか。失礼しました。」
スチュワートは慌ててケントに謝った。
「吟遊詩人に後ろを取られるとは……」
ケントは相当ショックだったようだ。顔に悔しさがにじみ出ていた。
それをリチャードは見て子供の頃のケントを思い出していた。
――こいつは本気で悔しがっているな。昔から分かり易い奴だ――
「だから用心しろと言ったんだ。こういう特技を持った奴もいるという事だ。」
リチャードは笑いながら言った。
「は、肝に銘じておきます。」
そういうとケントはスチュワートをひと睨みしてから部屋を出て行った。
「それにしてもスチュー、お前はよく気が付いたな。」
リチャードはケントが部屋を出て行くのを目で見送った後、視線をスチュワートに移して言った。
「は、はい。部屋でハープの練習をしていて、そろそろ寝ようかと思っていたら……。廊下に出たらなんだか空気が動いていたので気になって見に行ったら、ちょうどさっきの人が殿下の部屋に入るところでした。」
スチュワートは慣れてきたとは言え、まだまだたどたどしい口調で一生懸命に話した。
「ふむぅ……お主がそんな事に気が付くとはなぁ……。職種を間違えたか……」
「い、いえ。なんだか、空気の振動が分かるようになったんです。後は人の息遣いとかが……舞台に立ったらナリスの息遣いが分かるようになって、それから観客の息遣いが見えるようになりました。」
「なるほどねえ……吟遊詩人も無駄ではないという事だな。」
リチャードはスチュワートを見直していた。
アルカイルに言われた「男子3日会わざれば括目(かつもく)して待て」という言葉をリチャードは心の中で反芻(はんすう)していた。
翌朝、リチャードは朝食を皆で取っている時に
「そろそろ、ゴドビ砂漠を目指したいと思うのだがどうだろう?」
と提案した。
アルカイルが最初に口を開いた。
「私は賛成ですね。スチューも結構、頼もしくなってきましたし、ナリスもその辺のモンスターには負けますまい。」
「そうだな。もう一撃で即死は相当強いモンスターでもない限り大丈夫だろう。」
モーガンも同調した。
「ナリスはどうだ?」
「私も賛成です。ただできればスチューのワンマンショーも見たかったけど」
と悪戯っぽく笑って言った。
皆の視線がスチュワートに集まったが、スチュワートは顔を真っ赤にして首を横に振っていた。
「本人は強く否定しています。」
グレースも笑いながら応えた。
今やスチュワートはこのパーティのマスコットのようになっている。
ナリスやグレースはスチュワートより年下だが、姉のような目で彼の事を見ていた。
モーガンはスチュワートと同い年なので、案外話が合ったりしていた。
「それでは早速今日から向かいたいと思う。異存は?」
全員首を横に振った。
パーティは朝食を終えるとゴドビ砂漠を目指してロトコの村を出発した。
村からタリファン岬へ続く街道を歩いて居る時も、フォーメーションは「スチュワートと愉快な釣り仲間作戦」だった。
相変わらずスチュワートはヤケを起こして声を張り上げて唄っていた。
本来ならそこから草原分け入ってモンスターとの遭遇の確率を少しでも上げるのだが、リチャードの気持ちがアルポリ国にいってしまっているのでそのまま街道を普通に南下していった。
結局、数日野宿し、昔とは比べ物にならない少ない数のモンスターを退治してタリファン岬に到着した。
タリファン岬からはグレースの魔法でテレポーテーションする予定だったが、ここから「船に乗って行きたい」というナリスの意見が通り、船旅で行く事になった。
ナリスは船旅が好きだった。
前の冒険の旅の時も乗ったが、夜に海上で見上げる星の美しさが忘れらなかった。
「この海峡は狭いから夜までには対岸に着くよ。」
とモーガンに言われてナリスは
「分かってますよ~だ」
と何気に軽い八つ当たりをしていた。
タリファン岬に着いた時、目の前にある大きな帆を持つであろう帆船が目に留まった。
2本のマストが高くそびえている。「これが帆を張ったら優雅なんだろうなあ」とナリスは思った。
そして港の案内人の「この船に乗って半日で対岸のマラタ岬に着きます。まだ乗れますよ。」という言葉を聞いて、俄然乗りたくなった。
「仕方ないな。」
とリチャードも諦め顔でそれに同意した。
何といってもこのパーティのリーダーはナリスだから。
乗船するとスチュワートが興奮していた。
海は家族旅行で行った事はあったが、船に乗るのは初めてだった。
全員船室には入らずにデッキでランチョンマットを広げて食事にした。
それは船に乗る前に港の市場で買って来たものだった。
「船の上で食事をするのも風情があって良いもんだな。」
アルカイルが珍しく上機嫌で言った。
この男、寡黙な男だが、余計な事は言わないだけで無口ではない。
しかし自分の感情をストレートに口に出すことはあまりない。そんな彼が珍しく無邪気に感情を表したものだからナリスは「船に乗って良かった」と思った。
「アルは船には乗った事あるの?」
ナリスはアルカイルに聞いた。
「ありますな。何度か……。ただこうやって皆と食事をしながらというのは初めてだが……開放感があって良いもんですな。」
アルカイルはいたく気に入ったようだった。
船は風を帆一杯に張らんで順調に進んで行った。
このまま、この船は予定通り着きそうだった。
その時に俄(にわ)かに雲行きが怪しくなった。
風は更に強くなった。
「もしかしてクラーケンか?」
リチャードは海の怪物の名を上げた。
「いや、クラーケンなら風が止みます。凪の状態がまず起きます。この風ならクラーケンではありますまい。」
アルカイルがリチャードに状況を説明した。さすが経験豊富な百戦練磨の戦士だ。
「だったらこれは?」
「ただ単に天気が変わっただけでしょう。それにこの海域はクラーケンどころか怪物が現れた事がありませんから心配はいらないでしょう。」
アルカイルは空を見上げながらそう言った。
それを聞いていたナリスはアルカイルの言葉を聞いて安心したが、その傍らで熱心に話を聞いているスチュワートに気がついた。
彼は口下手で何を言っているか分からない時もあるが、こうやって地道に努力していた。
ナリスは今剣士になって派手な立ち回りを演じているが、吟遊詩人のスチュワートはそういう場面はあまりない。
彼は日頃の地味な努力の積み重ねしか成長するすべがなかった。そんな職種を何も考えずに選んだとは言え、一生懸命努力している姿にナリスは密かにスチュワートの事を尊敬していた。
元踊り子だったナリスだからこそ分かる努力だった。
そんな事を考えていたらアルカイルの言う通り空が晴れてきて風も穏やかになってきた。
「いい風だ」
ナリスは空に向かて呟いた。
風はどこまでも穏やかにそして軽やかに吹いていた。
ふと気が付くと視線の先に陸地が見えていた。
思ったより早く着きそうだ。
ナリスはデッキで気持ち良さそうに海風を受けていた。
その視線の先にアウトロ大陸が見える。
「良い風ですねえ……」
ナリスにそう言って声を掛ける男が居た。
ナリスはその男に視線を移した。
男は短い髪に白髪が浮かぶそこそこ歳を取った賢者の風貌をしていた。
男はナリスを見ずに真っ直ぐに対岸のアウトロ大陸を見ていた。
「そうですね。この風ならもうすぐ着きますね。」
ナリスは応えた。
「ほぉほほほ。旅の途中ですかな?剣士のお嬢さん」
その男はナリスの方に顔を向け、何が可笑しいのか楽しげに笑って聞いた。
「はい。ナロウ国からアルポリ国のゴドビ砂漠へ向かいます。」
ナリスは何故だかこの男にそう言って行き先を教えた。
自分でもその理由は分からなかったが、この男からはなんだか懐かしい雰囲気を感じたので緊張の糸がほどけたのかもしれない。
「ゴドビの地下宮殿でも行かれるのかな? あそこの魔王はアバントという者で、怒らすと後々面倒な魔王なのはご存知かな?」
「ええ、そうなんですか?知りませんでした。」
ナリスはここの魔王に関しては何も知らなかった。
ここに行く事を決めたのはリチャードでアルカイルも賛成したので、ナリスは何も考えずに安心しきっていた。
「おじさんはその魔王と戦ったことがあるんですか?」
ナリスはその男に聞いた。
「ええ。ありますよ。その時は大変な思いをしましたが、今になってはいい思い出です。」
「そうなんですね。よくぞご無事で」
ナリスはこんなじいさんが凄いなと思った。それを見透かしたように
「言っておきますが、それはまだワシが若い頃の話ですよ」
「あ、済みません。分かっちゃいましたか」
ナリスは慌てて謝った。
「ほぉほほほ。気にしなくていいですよ。アバントは破壊の王、奈落の帝王と呼ばれています。蠍の尾を持ってますからその尾っぽには気を付けなさいよ。」
その男はナリスに魔王アバントの特徴を教えた。
「はい。気をつけます。」
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