創作版深夜の真剣文字書き60分一本勝負
星落
お題【空を見上げて】
静かな昼下がりの屋上で、私はぼんやりと空を眺めていた。
ちぎられた綿飴のような雲が、蒼い空を音も無く緩やかに泳いでゆく。髪を揺らす風の音に耳を澄ませば、世界に自分が一人取り残されたような錯覚に陥る。
お気に入りの白いワンピースの裾が湿気を含んだ空気を孕んでふわりと揺れる。中が見えては恥ずかしいので両手でそっと押さえた。
思えば、この服を着るのも随分久しぶりだ。私の友達が私に似合うと選んでくれた服ではあるが、如何せん着る機会に恵まれなかったのだ。
「似合う?」
空を見上げて、誰にともなく呟いてみた。この言葉を使うのも久しぶりだ。
そしてこうして、視界いっぱいの空を見るのも久しぶりだった。
物心ついた頃から、私の世界は冷たい白と薬品の臭いに満ちていた。外に出る事は滅多に許されず、医師と、たったひとりの友達以外の人間と会うことも余り無かった。
『元気になったら、一緒に雑木林を歩こう』
同じ病室にいたその女の子は、私に写真を見せながらそんな事を言った。今まで生きてきた殆どの時間を病室で生きてきた私には、余りにも新鮮な提案だった。
写真を見る度に、或いは雑木林を題材にした本を読む度に、木の根元に並んで腰掛けて木漏れ日を頬に浴び、顔を上げれば木の葉の隙間から蒼空が覗いているような、そんな風景を思い描いていた。
いつかそんな雑木林の中で、彼女と一緒に寝転がって話したり、本を読んだりしたいと本気で願っていた。だけど現実は何処までも残酷で、私は一人、木の葉の隙間からではなく、屋上から見る、何にも遮られていない空の下でぼんやりと雲を眺めている。でも、不思議と悲しくはなかった。
例え願った景色とは程遠いにせよ、視界に収まり切らないこの蒼空の下にいること自体が、私にとっては人生で初めての経験なのだから。
日差しが眩しい。時刻は午後二時を回った頃だろうか。
風は絶えず流れて私の髪とワンピースを揺らしてゆく。病院の敷地に植えられている名も知らない木々がざわめき、何処か遠くで鳥が羽ばたいた。
今日は湿気が多い。半袖のワンピースを着ていると言えど、流石に暑い。首元に汗が滲んだ。
こんな風に気温を感じたのもいつぶりだろうか。医者は私を外に出したがらないので、外の気温などは殆ど感じた事がない。
蒼い空、白い雲、鳥の鳴き声、汗ばむ陽気。
外の世界はこんなにも、色と音と温度に満ちていたのだ、と陳腐な感想が浮かんだ。
だけどそれに今更私は誰よりも陳腐だけど、きっと誰よりも幸せだと思う。
風が一際強く吹き付ける。私は目を閉じて風の囁きを聞いた。
『風の音は人の思いを遠くに誘う』
昔読んだ本にそんな言葉があった。
もしそれが本当なら、この幸せな思いを、遠くにいるあの子に届けることが出来るのかな。
「そろそろ私も行くよ、あなたの所へ」
少し力を入れて手摺りを乗り越える。
ゆっくりの自分の身体が浮く感覚を捉え、閉じた瞼を開けてみる。
大きな大きな蒼空を見上げて、私は人生で一番の幸せを感じていた。
参考:国木田独歩『武蔵野』
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