第3話「ベケトアテン」
ネフェルテム神のスイレンが、ツタンカーメンを回収しようと舞い戻る。
アポピスは、右目の回復には時間がかかるが左目はぼんやりとは見えていて、最期の足掻きでネフェルテム神に喰らいつく。
戦線復帰した太陽の船がアポピスに体当たりしてネフェルテム神を助け、船側外板が木片になって飛び散り、ツタンカーメンの脇をかすめる。
ツタンカーメンはまだアポピスの頭上に居た。
風に乗って叫び声が届いた。
「つーたん!」
……その人は、太陽の船の甲板に居た。
とても美しい
若い、が、この時代の医学では、女性が早くに亡くなることは珍しくなかった。
主に出産の際に。
(あ……! この人だ……!)
自分が生まれるのと引き換えに死んだ人が、顔でわかったわけではなかった。
ただ、王をつーたんと呼ぶような人物の心当たりが少ない上に、太陽の船に乗れるような身分の女性は他に居なかった。
ベケトアテン。
もしも男に生まれていれば、王位争いに参加してもおかしくないほどの血筋だった。
だから彼女の死後にその息子をアクエンアテン王の養子にするのに誰も疑問をはさまなかったし、ツタンカーメンは実父が誰かを伏せたままでもファラオになれた。
「下がれ! 危険だ!」
アメン・ラー神がベケトアテンに命ずる。
「すぐに行く! じっとしてろ!」
ネフェルテム神がツタンカーメンに向けて叫んだ。
アポピスが、自分の頭をはたくべく、長いしっぽを振り上げる。
ツタンカーメンは太陽の船に目がけてジャンプした。
風がファラオのずきんを巻き上げた。
誰も触れ合うことはなかった。
ネフェルテム神のスイレンは間に合わなかった。
アポピスの尾は、自分の頭を痛めつけただけで終わった。
太陽の船のバリアは、ツタンカーメンを弾き飛ばし、ツタンカーメンは、はるか地上へと、真っ逆さまに落ちていった。
オシリス神の審判を妨げられた少年王は、太陽の船に乗る資格を、まだ有してはいなかったのだ。
気絶から覚めるとツタンカーメンは砂に埋もれていた。
ここは砂漠の真ん中だった。
もともと死んでいるとはいえ、あの高さから落ちてもちょっと痛いだけで
辺りにはスイレンとヤグルマギクの花びらが混ざり合って散らばっていた。
(そういえば、迎えに来てもらった時も、アレの光に気を取られちゃって、ちゃんとお礼を言ってなかったな)
ツタンカーメンは砂から這い出し、両手をかかげて祈りを捧げた。
太陽の船が去っていく。
アポピスとの戦いはまだ続いている。
神々が負けるとは思えないけれど、ツタンカーメンをわざわざ拾いに来るほどの暇はなさそうだった。
(おれだって、本当なら今頃、あの船に乗っているはずだったのに)
オシリス神の審判の間で、ツタンカーメンの心臓の
わかっているのは、声が女性のものだったという一点だけ。
(女性……)
性別の他に共通するものがあるとは思えないけれど、ベケトアテンの面影が浮かぶ。
(…………)
もう一度、砂にもぐってしまいたくなった。
先ほどのアポピスの頭の上で、風がツタンカーメンのずきんと腰布を巻き上げていた。
成長した息子の顔を、母親に見てもらえたかはわからないけれど、パンツだけは確実に見られた。
「……死にたい……」
すでに死んでいるのも忘れてつぶやく。
王妃アンケセナーメンが、王家の谷の墓所に納めてくれた、真っ白な新品のパンツであった。
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