第9話「幼神ネフェルテム」

 幼神ネフェルテムは大きなスイレンの花に乗り、エジプシャン・ブルーに晴れ渡る空を駆け抜けていた。

 見下ろせば果てしない砂漠。

 見上げれば、光り輝く太陽の船に、大蛇アポピスが大口を開けて襲いかかっている。


 甲板に立つアメン神が撃ち出した無数の光の矢を、体をくねらせてアポピスがかわす。

 回って、ねじれて、激しい動き。

 今頃、アポピスの腹の中のツタンカーメンは、大変なことになっているだろう。


 アポピスの噛みつき攻撃を、アメン神が光のシールドで防ぐ。

 その隙にネフェルテム神がアポピスの腹の下に回り込んだ。


(ここだ!)


 投げナイフのように花びらを飛ばし、アポピスのうろこを切り裂いて腹に穴を開けると、血ではなく真っ黒な霧のようなものが……さらにそれに乗って悪霊の群がブワッと噴き出してきた。


(ツタンカーメンはどこだっ?)


 防護服なるモノを着ているから目立つと聞かされているのに、それらしき姿は見えてこない。


 一度は外に出た悪霊は、太陽に照らされて悲鳴を上げて、アポピスの傷口の中に逃げ戻る。

 その群の中から一つだけ、きらめく何かが突き落とされた。


(あいつめ、アクエンアテンに会ったな! プタハ神パパにじっとしてろって言われたはずなのに!)


 スイレンで素早く追いかけて、その光を受け止める。

 霊体カーも、霊の世界では体重を持ち、衝撃でスイレンが大きく揺れる。

 ツタンカーメンが振り落とされないように、ネフェルテム神が抱きついて抑える。


「あれ? 何で防護服を……」

 着ていないんだ、と、訊くより早く、より重要な疑問に気づいた。

「何でが光ってるんだ!?」

 古代語での名称を、幼神は隠すことなく叫んだ。


「ああ、もう!! 何でこんなヤツを助けなくっちゃいけないんだよ!? いっそ突き落としてやろうか!? もともと死んでるんだし別にいいよな!?」

「………………」

 答えられない。

 ツタンカーメンは、上空ゆえの寒さに震え、酸素の薄さにあえいでいた。


「ンもうっ」

 ネフェルテム神がパチンと指を鳴らすと、ファラオの股間の光が消えて、寒さも苦しさもピタリと収まった。

 アクエンアテンのような思い込みのものではない、本物の神の力だ。


「光ってたのは服の布だから! メトじゃないから!」

 口を利ける状態になってのツタンカーメンの第一声はこれだった。

「本当に?」

「そう信じたい。信じてる。信じる者は救われる」

「別にどっちでもいいけどね」


 肩をすくめ、それから急に真剣な顔になり、ネフェルテム神はアポピスを見上げた。

 大蛇の腹の傷口は、目に見える速度で塞がっていっている。

 悪霊達がとっくに奥へ逃げ戻った後で、ただ一人だけ、防護服に身を包んだ人影がこちらを見送っていた。


「あれってアクエンアテン?」

「うん」

「あの格好って……」

「おれのこと、忘れないでほしくて」

「……残酷なことだってわかってる?」

「……うん……」


 アポピスの腹の中の霊魂達は、昨日もそこに居たことを、明日になれば忘れている。

 それがいつまでもくり返される。


 アクエンアテンは、すでに十年、そこに居る。

 悪霊達に光の教えを説き続け、誰も救えていないという記憶。

 そんな記憶が防護服で守られて蓄積されれば、十年後には今のようではいられない。


「……嫌なら自分で脱ぐよ……」

「どうだろうな」

 アポピスの傷口が完全に塞がり、父の姿が向こうに消えた。

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