第2話「一人でお風呂に入れるように」

 プタハ神が立ち去ってからも、ツタンカーメンはしばらくの間、水面みなもを睨み続けた。

「アンケセナーメンは、おれなしで幸せになっていくんだ」

 祈りを込めて、声に出して唱える。

「おれだって、アンケセナーメンなしでも暮らせるようにならなければいけないんだ」

 でないとサルワに洗われてしまう!


 ツタンカーメンは泉につま先を浸けた。

「ひゃうっ!?」

 冷たい。

 いかに霊体とはいえ、これでは心臓に悪い。


「お、おれは負けないぞ! アンケセナーメンの幸せのためにも、おれは一人でお風呂に入れるようにならなくっちゃいけないんだ!」

 しっかりと準備体操をしてから再トライ。

 けれど今度は……

「あれ?」

 水のほうが温かくなっていた。



 浅いところでチャプチャプと遊びながら体を洗う。

(すっきりした。けど本当にこれだけでいいのかな?)

 ちょっと不安で、もう一度、頭を水に突っ込む。

 背中に汚れが残っているのには気づいていない。


(誰かに訊いて確認したいな……さっきプタハ神が、担当者がどうとかって言ってたっけな)

 まだ近くに居るのだろうか?

 泉の周りの茂みや空中に目を凝らしても、それらしい影は見えない。


「お湯を沸かしてくれたのは、浴槽の神様なのですか?」

 水面に向かって尋ねてみる。

 すると突然、波が起きて、ツタンカーメンを足のつかない深いところへ運んでいった。

「わぷっ!?」

 どうやら違ったらしい。

 怒らせてしまったのかもしれない。


 若きファラオは生前は泳ぎは得意ではなかったが、今はプタハ神の守護の力が効いているので、水が体を支えてくれるし、水の中でも呼吸できた。

(いくらでも浮いていられるし、ずっと潜っていられるんだな)

 泉にはツタンカーメンの身長の十倍くらいの深さがあった。


 下のほうに御影石の浴槽が見えたので、そこまで行ってみる。

 水底に足をつくと、泥が舞い上がった。

 生えているのは水草ではなく、陸の野草。

 本当についさっき水没したばかりなのだ。

 ツタンカーメンは浴槽の中で横たわってみたけれど、特に何も起こらず、お風呂を終わらせたという実感は湧かなかった。



「あなたはどんな神様なのですか?」

 ツタンカーメンは誰も居ない水中に話しかけた。

 返事はないが、気配は感じた。


「浴槽の神様じゃないのなら、水の神様なのでしょうか?」

 水が、上下に揺れた。

 うなずいている……ような気がした。


「水の神……てことは……クヌム神ですか?」

 真っ先に唱えたのは、ファラオとして毎年決まった時期に祭りの儀式を捧げてきた、ナイル川の上流で水かさの増減を司ってエジプトの民と農業を守っている大切な神様の名前だった。

 けれどその途端、浴槽が左右に揺れ出した。


「違ったってことですか? じゃあ……う~んと……ハピ神?」

 ナイル川の上流と下流を結ぶ、二人組の神様である。

 浴槽はさらに激しく揺れた。


「またハズレ? それじゃあ……ヌン神!」

 世界の始まりに在ったとされる、混沌の水の神の名前だ。

 浴槽が、くるん、バタンとひっくり返って、ツタンカーメンを放り出した。


「ぷへっ! そんなに怒んないでよ!」

 浴槽は地団太を踏むように暴れている。

 水底の泥が煙のようにもうもうと舞い上がる。


「むー……わかった! ネネト女神だ!」

 ヌン神の対の存在である。

 けれども神はさらに怒り、水底の泥がめくれ上がって、ツタンカーメンの洗い立ての頭に正面からドバッと襲いかかった。


「じゃあ……水門の女神アンケト?」

 今度は背後から泥が来て、ツタンカーメンを押し倒した。


「カバの女神タウレト!」

 三発目の泥は右側から来た。

「ワニの神セベク!」

 左から泥。


「それなら……」

 右斜め前から。

「だったら……」

 左斜め後ろから。


「それじゃあいったい誰なのさ!?」

 足もとの泥が突き上がる。

 ツタンカーメンは仰向けにぶっ倒れて水面を見上げた。

 キラキラ輝く水面では、青い花がたゆたっていた。


「わかった! プタハ神の息子! スイレンの花の神のネフェルテムだ!」

「せいかーい!!」

 変声期前の愛らしい声が水中に響き渡る。

 ツタンカーメンの足もとから温水がゴポゴポと湧き上がり、噴水となってファラオを水面まで打ち上げた。

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