第3話「ホルス神の」

 逃げるように書庫を出て、約束の場所へ急ぐ。

 冥界のナイル川は地下の空を映して黒く流れる。

 セト神は、人気のないほとりとはいえあまりに人目を気にせぬ態度で、ドシリと岩に腰かけていた。

 息を切らしてツタンカーメンが差し出した巻物を、セト神はしっかりと受け取った。


「トートに話してはおらんだろうな?」

「言えませんよ。セト神がこんな趣味だなんて」

「中を見たか?」

「いいえっ!」

 ツタンカーメンは真っ赤になって首を横に振った。

 もう少し穏やかなタイトルならばまだしも『縛り』はいただけない。

「ならば見せてやろう」

 セト神は十八歳のファラオに向けて危ない巻物をバッと広げた。

「ひゃあ!?」

 思わず顔を手で覆う。

 その腕に……無数の糸のようなモノが絡みついてきた。


「!?」

 真っ黒な糸状のソレは、巻物『縛り』から生え出ていた。

 赤い表紙の奥の、白いパピルス

 そこに書かれた黒いインクの文字が、紙を抜け出し、糸のように細く長く伸び、ヘビのようにのたくりながらツタンカーメンに襲いかかる。

「な!? 何だこれ!?」

「何だも何も、巻物の題名通りの『縛り』であるぞ」

「!???」

「これは神を縛る書物! ファラオがその血筋をもって霊力カーを支える、ホルス神を縛る書物なり!」


 糸は力ずくで引きちぎろうとしても際限なく伸び、飛んで逃れようとするツタンカーメンの足を捕らえる。

 さらに糸同士でより合って、強度を増した紐になり、愚かで哀れな幽霊をがんじがらめに縛り上げていく。


「セト神!! 何故こんなことを!?」

「ホルスの奴めに問うてみよ」

「いったいどこにホルス神が!?」

「わからぬか?」

 セト神の指がツタンカーメンの胸を小突く。

 次の瞬間、ホルス神の意識がツタンカーメンの中に入ってきた。


 それは神話の時代の記憶。

 セト神がオシリス神を殺して王位を奪って。

 ホルス神がセト神を退けて王位を取り返して。

(それからどうなったんだ……?)


 古代の……ツタンカーメンから見ても二千年近くも昔の景色が脳裏に広がる。

 独特の王冠と紐飾りを身につけた男の姿が見える。

(あれは初代ファラオのナルメル?)

 かつてナイル川の上流と下流の地域に別れて争っていたエジプトを、一つにまとめ上げた英雄……

 しかしその最後は、カバによって水中に引きずり込まれて行方不明という悲惨なものだった。


 カバはその外見や草を食べる性質から穏やかな生き物のように思われがちだが、二十一世紀のアフリカにおいては年間三〇〇〇人近くの人間がカバによって殺されている。

 ワニが人を殺すのは食べるためだが、カバはテリトリーを守るために殺す。

 たとえ相手が迷い込んだだけで、逃げ出そうとしていても。

 お腹がすいたからではなく領地を侵されたから、つまりはムカついたから殺すという、どこかで聞いたレベルで獰猛な存在なのだ。


 ナルメル王の体がカバとともにナイル川に沈み、残された人々は王が溺れ死んだと嘆いた。

 しかし人々の視線の届かぬ水中では、カバに化けていたセト神と、人間の王の姿を借りていたホルス神が、互いの正体を現して激しい戦いをくり広げていた。


(そして……それから……)

 ホルス=ナルメルは二代目のファラオであるホルアハに霊体カーを託した。

 ホルス神が夜通し戦い続けても、ホルアハ王が眠ればホルス神の生命力カーは回復する。

 ホルアハ王が飲み食いすれば、ホルス神の魔力カーも満たされる。

 それはセト神との戦いで、ホルス神を大いに支えた。


 人間であったホルアハ王は、やがて年を取りこの世を去ったが、ホルス神の霊体カーは次のファラオに、また次のファラオにと受け継がれた。


 神と神の戦いは今も続いている。

 時に砂漠に、時に地下世界に、時に天空に舞台を移して。


 ホルス神の霊体カーは、今もファラオとともにある。

 エジプトを邪神セトの手に渡さぬために。


 ツタンカーメンがチャリオットから落ちた時も、ホルス神はセト神と戦っている最中だった。

 危険に気づいたホルス神は、とっさにツタンカーメンに手を伸ばしたが間に合わなかった。


「……おれはホルス神に見捨てられたわけじゃなかったんだ……」

「見捨てるも何も、お前の魂とホルスの魂は未だに繋がっておる。おっと、お前を喜ばすために言っておるのではないぞ。見よ!」

 セト神がツタンカーメンの、今度は額を小突いた。

 別の景色が脳裏に広がる。

 ここは冥界の奥。

 ホルス神の父であるオシリス神の宮殿。

 深手を負ったホルス神が、母親の女神イシスの看病を受けている。

 ツタンカーメンを助けようとした時に、隙を突かれてセト神にやられたのだ。


「ホルスめ、そうとうに弱っておるな。やはり次のファラオがなかなか決まらぬのが効いておる。ファラオの生きた肉体さえあれば、あの程度の怪我などすぐに治るのだがな」

 セト神が笑う。

 ツタンカーメンがうめく。

「アンケセナーメンが早く再婚相手を見つければ……」

 そうすれば次のファラオが決まる。

「次のファラオにホルスの霊体カーは受け継がせぬ!」


 ホルス神の周りに真っ黒な糸の群れが現れた。

 それらはツタンカーメンにしたのと同じようにホルス神を捕らえ、縛り上げていく。


「これが禁断の書物『縛り』の力だ! これでホルスの霊体カーはお前の屍から離れられぬ! エジプトの王位は我が信徒に受け継がせる! 次のファラオが、そしてその子孫が、抱え、伝えるのは我輩の霊体カーだ!」

「アンケセナーメンはそんなやつ選ばない!」

「王妃の選択など待つまでもない! 我輩を崇めぬ者を王宮から追い出してしまえば良いだけの話! 豊穣神アメンは農民の神だが、我輩は王を支配する神!! エジプトの真の支配者は我輩だ!!」


 セト神がバカ笑いをする。

 それがしばし響き渡った後、邪神はピタリと止まり、舌なめずりをした。


「すぐに王妃も連れてきてやる。二人まとめて可愛がってくれようぞ」

 怖気立つような言葉を静かに残し、邪神の姿はフッと掻き消えた。

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