第3話「こんなやつらが」
「ひゃ……あ……」
「騒ぐな。悪霊に憑かれただけでは死にはせん」
ツタンカーメンはホッと息をついた。
しかしその表情を見てセト神は口の端を吊り上げた。
「だがな、悪霊が活性化すると、さまざまな悪いことが起きるぞ。まず病気や事故が増え、次いで毒のあるクモやヘビが数を増やし、人は危険に鈍感になって、時に自らを傷つけたいという衝動に駆られる。人の心に魔が差すことが多くなり、他者の悪い部分に過度に関心が行き、その目は己が愛する者にすらも向けられる。そしてな……毒は効きやすくなり、毒針は陰に隠れやすくなり、護衛は注意力を削がれるのだ」
「こんなやつらが……おれの王宮に……」
「王宮だけではない。量の多い少ないこそあれど、国中のどこにでもおる」
「おれの国に……」
震えが収まった。
恐怖は怒りに変わっていた。
「怒りは悪霊のまき餌になるぞ」
セト神がクククッと笑った。
「特に王の怒りはな。心を静めることだ」
悪霊の姿が見えない状態でなら、できた。
見えてしまったら、もう、できない。
通路を行きかう人々が、一斉にひれ伏した。
侍女を従え、護衛に囲まれ、アンケセナーメンが歩いてきたからだ。
周りにどれだけ人が居ても王妃は寂しそうで……
その悲しみをすするように、王妃に悪霊が群がっていた。
「この! おれの妻から離れろ!」
ツタンカーメンが悪霊に殴りかかろうとする。
「よせよせ。お前にそんな力はないわい」
セト神がツタンカーメンの首飾りを掴んで引き止め、ゲラゲラと笑った。
アンケセナーメンが通り過ぎてゆく。
後ろ姿は悪霊に覆い尽くされ、華奢な背中を見送ることすら許されない。
「もともとは善い女だったのだがな。それこそ悪霊など全く寄せつけず、遠巻きに眺めさせすらせぬほどにな」
セト神の声にはあざけりの色がにじんでいた。
「お前を失ったせいで神を信じられなくなり始めておる。こりゃ、信仰心が完全に消えて、護符が無力化するのも時間の問題だな」
ツタンカーメンはビクリと肩を震わせた。
「いかにも弱そうな女だ。悪霊が体の隅をちょっとカジっただけでイチコロであろう。信心が欠けた状態では死後の楽園にも入れぬぞ」
「ア、アアア、アンケセナーメンを助けて! 助けてください!」
「ツタンカーメンよ、我輩は神であるぞ? お前は今、神頼みをしておるのだぞ? 神が人ごときにホイホイと振り回されるわけにはゆかん。まずは供物が必要であろう」
供物。
それこそがセト神の目的であった。
「いったい何を!? おれに用意できるものなら……何でも……」
言いながらツタンカーメンの声が小さくなっていく。
生前ならファラオとして命じれば世の中の大抵の物品は手に入ったが、今は……
「クハハ、何を脅えておる? よもや我輩が人身御供を求めるとでも思うたか?」
「い、いえっ、そんなわけでは……」
実際のところツタンカーメンは自分に生け贄になれと言われれば喜んでなるつもりだった。
すでに死んでいるのに生け贄として成立するのかどうかは怪しいけれど、それであの悪霊どもからアンケセナーメンを守れるのならば安いものだ。
アンケセナーメンを助けてくれるのなら、誰であってもすがりたい。
たとえ目の前に居るのが、神話に名高い邪神であっても。
セト神はいやらしく笑う。
「無理難題を押しつけて困らせて楽しもうというのではないぞ? お前にかかれば、たやすいことだ。まあ、お前にしか頼めぬことではあるがな」
友好的と呼ぶにはあまりに気味の悪い笑顔だった。
ツタンカーメンは唾を飲んだ。
「アヌビスはお前に目隠しをしただけだ。アメンもアテンも互いの威信のためにお前を取り合っておるだけで、お前を救おうとはしておらん」
「…………」
「神話にたたえられし善なる神々はお前などほったらかしだ」
「……そんな……ことは……」
「ないと言うのか? なあ、ツタンカーメンよ。知恵の神トートがお前に何をしてくれた?」
「どうしてそんなことを訊くんですか……?」
「知恵の神とまで呼ばれし者が、お前に何を教えてくれた? パンケーキの味? クレープの作り方? お前が知りたいのはそんなモノについてなのか!? 違うであろう!!」
雷のようにとどろく声がファラオの心臓を揺さぶる。
「邪神の崇め方を教えてやる!! ツタンカーメンよ、知恵の神トートの書庫へもぐり込め!! 死せるファラオよ、知恵の神トートの秘蔵の書物を持ちい出して、我輩に捧げよ!!」
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