第321話 サシャ先生の不在と不穏な空気

 毎日毎日シュリにべったりだったサシャ先生だが、なにやらアズベルグの学校からヘルプ要請が来たらしく、非常に不満そうな顔で旅立っていった。

 行き帰りの旅程もあわせると、ほぼ1ヶ月程度は王都をあけることになるようだ。


 1ヶ月もサシャ先生の顔を学校で見ないのは寂しいような気もするが、仕事なのだから仕方がない。

 それに、寂しい反面、ちょっとほっとしている部分もあった。

 慣れてきたとはいえ、連日の人間イス状態は、やはりちょっと恥ずかしかったから。


 ともあれ、サシャ先生のいない日々が始まる。

 サシャ先生が不在である、その事実が引き起こす事態を、その時のシュリは全く予測することが出来なかった。


◆◇◆


 最初はちょっとした嫌がらせ。足を引っかけられたり、物を隠されたり。

 だがシュリが余りに危なげなく、意地の悪い足をひらりとかわし、隠された品物を探し出し回収していたせいなのか、それはどんどんエスカレートした。

 そして今。



 「お前さあ、生意気なんだよ」



 シュリは放課後の教室で、絶賛取り囲まれ中、である。

 同じクラスの生徒の顔もあるし、知らない顔もある。

 もしかしたら上級生も混じっているかもしれないが、王立学院の生徒の年齢はバラエティに富んでいるのでちょっとわかりにくい。

 ただ、ざっと見た感じ、年若い生徒が多いように思えた。

 まあ、それなりの経験を積んでから王立学院に進学してきた生徒は、こんなバカなことをしないだけの良識がある、と言うことなのだろう。



 (たぶん、甘やかされて育った貴族のボンボン達、なんだろうなぁ)



 シュリとて、端から見たら十二分に甘やかされて育った貴族のボンボンなのだが、本人にその自覚はない。

 シュリは、呆れ混じりの視線を隠すことなく、1番年若い生徒でも自分より遙かに年上な面々の顔を見上げた。



 「いつもサシャ先生を侍らせていい気になりやがって」



 同じクラスの、何となく見覚えのある生徒の声。

 シュリとしては、別にサシャ先生を侍らせてるつもりはないのだが、端から見たらそう見えてしまう可能性は理解していた。



 「どうやってファランちゃんの気をひいたんだよ!? あんなに可愛がられやがって」



 別の声が言う。こっちの人は見覚えがないから別のクラスの人なんだろう。

 ファランの名前を出すと言うことは、ファランと同じクラスの人なのかもしれない。



 「シルバさんやアズラン君とお前なんかが何で仲がいいんだよ。あんな高レベルの人達とお前じゃ、全然つりあわないんだよ!」



 この声の人も知らない顔。

 そんな彼らの言葉を聞いてシュリは、なるほどなぁ、と1人頷く。

 彼らはこう言っているのだ。

 自分が好意を持つ相手が、シュリみたいなのを気に入って構うのが気に入らない。うらやましい、と。

 要は、焼き餅を焼いていると、そういう訳だ。



 「お前、目障りなんだよ! どっか行っちゃえよ」



 そんな言葉と共に、ばしゃん、と勢いよく水がかけられた。

 きれいな水ではなく、ご丁寧にも泥水である。

 床に広がる水たまりを見てシュリは思う。



 (うわぁ。床が水浸しだ。後で掃除が大変だよ? これ。っていっても、どうせこれを片づけるの、僕なんだろうなぁ)



 髪の毛の先から汚れた水をぽたぽた垂らしながら、そんな風に。

 最初の彼のその行為を合図としたかのように、シュリの小さな体に次々と水が叩きつけられた。ご丁寧にも1人1つずつバケツを用意していたらしい。

 びしょ濡れになったシュリをその場に残し、少年達は口々に捨てぜりふを残して去っていく。

 一応、教師の目を気にしているのだろう。本当に、あっという間の出来事だった。



 (これが世に言ういじめってやつなのかな。どこの世界にもあるもんなんだな……)



 前世では受けたことの無かった経験に、シュリは半ば呆然としてそんなことを思う。

 そして周囲を見回し、あまりの惨状にため息をこぼした。

 これ、僕が掃除しなきゃいけないんだろうなぁ、と。

 もう1度大きなため息をこぼし、とぼとぼと掃除用具を取りに行く。


 王立学院では基本、生徒は校内の掃除をしないでいいのだが、掃除を専門に行っている職員はきちんといて、そんな彼らの為の掃除用具入れが要所要所に用意されている。

 とはいえ、大した掃除用具が収納されている訳では無いのだが。あるのはバケツやぞうきん、ほうきくらいのものである。

 無事にぞうきんとバケツをゲットし振り向いたシュリは、己の歩いてきた痕跡が見事に残ってることにようやく気づいて肩を落とす。



 (あ、足跡と水滴が……)



 まあ、びしょ濡れのまま歩き回っていたのだから、当然と言えば当然の結果であるのだが。



 (とりあえず、水気だけでもとらないとかな)



 そう思い、[|無限収納(アイテムボックス)]から大きな布を取り出したところで、再びがっくり肩を落とす。

 わざわざここまで掃除用具を取りに来なくても、[|無限収納(アイテムボックス)]からそれに代わる何かを引っ張り出せば良かった、という事実に今更ながら気がついて。


 一応、そんな簡単な事にも気が回らないくらいには動揺していたのだろう。

 シュリはあまり人から悪意を向けられることに慣れていなかったから。

 気持ちを切り替えて、取り出した布で水気を拭おうとした瞬間、



 「くちゅんっ。ん? なんか冷たい。なんで?」



 シュリの首もとから若干眠そうな、そんな声が聞こえた。

 可愛らしいくしゃみと共に。


 そこでようやく、首に巻いていたタマの存在を思いだし、シュリは慌ててタマを首から外して布で丁寧に水を拭ってやった。

 それからざっと自分の水気も拭い、再びタマを首に装着してから、教室までの道のりをせっせと己の痕跡を消しながら進んだ。

 教室にたどりついた後は、ただひたすらに飛び散った水気を拭いては絞り拭いては絞り……。

 そうこうしている内に時間はあっという間に過ぎてしまった。


 途中、水の精霊のアリアが、水の処理くらい自分に任せて欲しい、と言ってくれたのだが、泥水処理のためにわざわざアリアの力を使ってもらうのも申し訳なく、その気持ちだけ頂いておいた。

 シュリへの心ない仕打ちに憤慨する精霊達を宥めつつ、耳元で聞こえるタマの気持ちよさそうな寝息にちょっと胸をほっこりさせながら作業を進め。

 ようやく終わりが見えて来た頃に、その人は現れた。



 「そろそろ下校時間ですが、残ってる生徒は……って、どうしたんですか!? 大丈夫?」



 教室の扉が開き、中をのぞき込んだその人は、床に座り込んで作業をしているシュリを見た瞬間目を見開き、慌てたように駆け寄ってきた。

 恐らく、校舎の見回りをしていたのであろうその人は、上級生らしき女生徒で、シュリの傍らにしゃがみ込んで、心配そうにシュリの顔をのぞき込んだ。


 正直、面倒なことになっちゃったなぁと思いつつ、シュリは無難な言い訳を探す。

 探すが、今の状況を説明できそうな言い訳は、どれも非常に無理があるものばかりで、仕方がないからその中から出来るだけ無難なものを選んで彼女にぶつけてみた。



 「え~っと……きょ、教室の床が汚れてたので、ちょーっとふいとこうかなぁって思ったら、思いっきりつまづいちゃて、バケツの水をばしゃ~っと。それで、その片づけをしていたらこんな時間に」


 「つまづいてバケツの水をこぼしただけにしては、君も濡れてますよね? まるで全身に水をかけられたみたいに。もしかして、いじめられてるんですか?」


 「ちっ、違いますよ? えっと、つまずいた拍子に、こう、バケツが宙を舞って、ですね。それが頭からばしゃーっと、です、ね?」



 一生懸命説明したが、説得力は皆無だったらしい。疑いの眼差しでじぃ~っと見つめられ、シュリの頬を冷や汗がたらりと流れる。

 いじめだと、認めてしまえばその方が楽なんだろうけど、なんだか認めがたくて。

 シュリはその視線から逃れるように視線をそらし、バケツの取っ手を握って立ち上がった。



 「と、とにかく。掃除は終わりましたからもう帰ります。その、先輩もお仕事の続きに戻って下さい!」



 そう言い置いて、逃げるように教室を出た。

 バケツの水を捨て、ぞうきんと共に掃除用具入れに戻し。

 とぼとぼと教室に戻ると、さっきの先輩はいなくなっていて。

 シュリはほっと安堵の吐息を漏らし、荷物を持って教室を出ようとした。



 「くちゅんっ。な、なんか芯から冷えてる。それに泥臭い……」



 だが、首もとから聞こえた声に、足を止めた。

 タマもシュリも、布で水気は取ったがまだ濡れていて、確かにタマの言うように泥臭い。

 火の魔法と風の魔法を組み合わせた温風を使えば乾かすことは出来るが、泥の汚れや臭いはどうにもならないだろう。

 かといって、脱いで水洗いをし、絞って、それから乾かすとなると、時間もかかるし現実的ではない。

 どうしようかなぁ、と考えたが解決策は思い浮かばず、諦めて乾かすだけ乾かして帰ろうと思ったとき、


・[着たまま全自動洗濯機(乾燥機つき)]を取得しました!


 久々のそんなアナウンスが流れた。



 ([着たまま全自動洗濯機(乾燥機つき)]? そこはかとなく便利スキルな匂いがするけど、一応取扱説明書を見てみようか)



 思いながら、シュリはステータス画面を呼び出す。

 そこにはこんな風に記されていた。


[着たまま全自動洗濯機(乾燥機つき)]

 その名の通り、服を着たまま洗濯&乾燥ができる優れもの。

 しかも所用時間はほんの一瞬。

 あっというまに綺麗でほっこりふわさらに仕上がります。

 

 正に、今この時に欲しかったスキルである。



 (運命の女神様、ありがとうございます!!)



 心の中でそっと女神様に感謝しつつ、シュリは早速[着たまま全自動洗濯機(乾燥機つき)]を使ってみた。

 すると、あら不思議。

 次の瞬間には、ほっこりふんわりさらさらに仕上がっていた。

 もちろん、タマももふさらの大満足の仕上がりである。

 タマ自身も、



 「ぬくい。幸せ。ぐぅ……」



 と、非常に嬉しそう。

 ぬくぬくに乾燥されたおかげで、あっという間に眠りの世界に落ちていたが。

 シュリも、ほんのりフローラルな香りの漂う見事な仕上がりに満足しつつ、かけていたぐるぐるメガネを外して、



 「メガネも綺麗に洗われてる。すごいな、全自動洗濯機」



 汚れ1つ無い現状を確かめ、感心したように1人呟く。



 「ん~。髪のセットもお化粧も落ちちゃったし、急いで帰らないと。とりあえず帰るまでの間に合わせに[カメレオン・チェンジ]でも発動しておこ……」



 おこうか、と言い掛けたその時、教室の扉が再びがらりと開いた。

 ぎょっとしてそちらを見れば、



 「間に合わせだけど、着替えを持ってきました。君にはちょっとサイズが、おおき、い、かも……ええ!?」



 そこには、なにやら着替えらしい衣類を持ったさっきの上級生が立っていた。

 その生真面目で優しげな顔に、驚愕の表情を張り付けて。

 しまったぁぁっ、と思いつつ、シュリはとりあえず平静を装いつつぐるぐるメガネをかける。

 これで何とかごまかせないかと、一縷の望みをかけて。



 (み、みふぃーなら、たぶん誤魔化されてくれると思うんだけどなあ)



 この先輩はどうだろう、と内心ドキドキしつつ、さりげない様子を装って、



 「お、お気遣いありがとうございます。でも、どうにかなりましたから、僕はお先に失礼しま……」



 荷物をつかみ、固まっている先輩の脇を抜けてそそくさと帰ろうとした。

 しかし、物事は得てして自分の思うようには転ばないものである。



 「そのメガネ。やっぱり君、さっきの子ですよね? 君、噂のシュリナスカ・ルバーノ君、でしょう?」



 そんな言葉と共に、腕を優しく捕まれ引き留められた。



 (くっ!? メ、メガネは失敗だったかあっ!? なんか身バレもしてるし……)



 捕まれた腕をふりほどいて逃げることも出来たが、どのみち個人特定されてしまっている。

 となれば、下手に逃げて人前で追いかけ回されるより、周囲に人がほとんどいない今の内に色々話しておいた方がいいだろう。

 そう考え、シュリは体から力を抜いて、先輩の方へ体ごと向き直った。



 「そうですよ。シュリナスカ・ルバーノは僕です。先輩はどうして僕のことを? 僕ってそんなに有名ですか?」


 「有名、といえば有名かもしれません。私は、会長があなたの事を話してたのでちょっと気になって君を見に来たことがあるんです」


 「会長、って生徒会長さん、ですか?」


 「ええ。彼が妙にあなたのことを話すので。見た目はアレだけど、なんだか気になる可愛い子だって。そんな風に言われたら、ほら、なんだか気になりませんか? まあ、実際見てみたらちょっと安心しましたけど」


 「僕が可愛い女の子じゃなくて、残念な感じの男の子だったから?」


 「そうですね……あ、でも別に、君をけなすつもりじゃなくて、ですね」


 「大丈夫。分かってます。その会長さんに好きな女の子が出来た訳じゃないって事にほっとしたんですよね?」


 「あ、ええ、そう……ではなくぅ!! えっと、その、私、別に会長の事、好きとかそういう訳じゃありませんし。あ、だからといって嫌いって訳でも……」



 わたわたと、分かりやすく慌てだしたその先輩を見上げ、可愛いなぁ、と小さく微笑む。

 そのかすかな笑顔に一瞬で目を奪われた先輩は、シュリの姿をまじまじと見つめた。


 そっと伸びてきた手が、ぐるぐるメガネを外そうとするのをあえて止めずに、クリアになった視界に映る先輩の顔を無防備に見上げる。

 先輩はひどく感心したようにシュリの顔を見ていた。


 そこにある、過剰すぎない適度な好意にほっとしつつ、シュリは思う。

 先輩にちゃんと好きな人がいてくれて良かったなぁ、と。


 好きな人がいる相手へのシュリのスキルの効果はかなり薄められる。

 よって、目の前の先輩がシュリのスキルの餌食になってしまう確率はきわめて低いという事だ。

 色々バレてしまったが、まあ、結果オーライである。

 後はきちんとお話しして、シュリの秘密を守って貰えるようにお願いするだけだ。



 「ねえ、君。シュリナスカ君」



 そんなことをつらつらと考えていたら、先輩に呼びかけられた。



 「えっと、僕のことはシュリでいいですよ? えーっと……」


 「ミューラ。友達はミュウって呼んだりしますけど。じゃあ、シュリ君って呼ばせて貰いますね。私のことも、好きに呼んで下さい」


 「じゃあ、ミューラ先輩って呼びますね。で、えっと……何か言いかけましたよね? さっき」



 なんですか? 、と小首を傾げて促すと、



 「え? ああ。その、大した事じゃないんだけど気になってしまいまして」



 一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに思い出したらしく、そんな前置きをしてから、



 「シュリ君はどうしていつもあんな格好を? 大きなお世話かもしれませんが、アレがもしおしゃれのつもりであれば、忠告を。私の目には今の君の姿の方が魅力的に映っています、とだけ伝えておこうかと」



 そんな問いかけ。

 当然と言えば当然の質問に、



 「おしゃれというより、色々事情がありまして。出来れば秘密にして貰えると助かります」



 苦笑しつつ答え、お願いをした。



 「でも、今の姿の方がいじめられにくいですよ、きっと。原因は恐らく、君に対する嫉妬でしょう? 君を気にかけてる人は何人かいますが、どの人物も人気のある人ですから。君が隠している姿を知れば、君自身が人気者に早変わりだと思うんですけど。大概の人は、美しいものに心を惹かれるものですから」


 「その人気者になりたくないんです。目立ちたくないし。それに……」


 「それに?」


 「僕、いじめられてませんし?」



 意地を張ってぷいっと顔を背ければ、その横顔にミューラ先輩の視線が突き刺さる。



 「……さっきの様子はいじめられてる子にしか見えませんでしたけど?」


 「あれは、バケツにけつまずいて頭から水をかぶっちゃっただけですから」



 いじめじゃないです、と意地を張る下級生を前に先輩は、



 「……仕方ないですね」



 呆れ混じりのため息をついた。そして、



 「君がいじめじゃないというならそれでいいですが、困ったらすぐに生徒会室に避難してくるんですよ? 流石にあそこで暴挙を起こせる生徒はそう多くないでしょうから」



 そう言い置いて、先輩はシュリに背を向けた。そのまま教室を出ていくかに思えたが、ふと振り向き、ぼそりと一言。



 「あと、私、会長のことを、と、特別に好きな訳じゃないですから」


 「じゃあ、嫌い?」


 「き、嫌いは言い過ぎです! 嫌ってなんかいません。たまにイラっとする事はありますけど」



 大体会長は色々な人に親切すぎるんです、とぶつぶつこぼす年上の恋する乙女を、シュリは微笑ましく見上げ、



 「ミューラ先輩がそう言うなら、そう言うことにしておいてあげます。2人だけの秘密、です。だから僕のことも、しーっ、ですよ?」



 唇の前に指を立てて押し当てる。

 シュリに多大な想いを寄せる面々が見たら卒倒するレベルの可愛い仕草に、流石の恋する乙女もほんのりかすかに頬を染め。

 それから気を取り直すように小さく咳払いをし、



 「わかりました。しー、ですね?」



 そう言って、彼女もまた、シュリを真似て己の唇の前に立てた人差し指を押し当てるのだった。

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