第八十五話 復讐の刻

 ガナッシュの目の前には、彼が唯一恋して、焦がれて、そして愛する相手がいた。

 それは彼にとって、待ち望んだ瞬間だったはずだった。

 13歳の時、ただ一度まみえたときからずっと彼女の面影を追い続けてきた。


 彼女は彼に加護を与え、愛してくれた存在。


 その彼女が今まさに目の前に居るというのに、ガナッシュの胸は不安でいっぱいだった。

 なぜなら、その彼女の側に、己以外の男の姿があったから。

 彼女はその男にぴったりと寄り添い、ガナッシュが現れたというのに離れるそぶりすらない。

 ガナッシュは見交わした彼女の瞳に悲しみを見たような気がしたが、それも一瞬のこと。その眼差しはすぐに、まるで他人を見るように温度を失っていた。


 そんな女神の様子に、ガナッシュは彼女に向けていた眼差しを、傍らの男へと向ける。

 己の女を奪われた、嫉妬に染まった眼差しを。


 その男は、まだ少年と言っていいくらいの年齢に見えた。

 流れる銀色の髪が無造作に伸びて、肩のあたりで遊んでいる。だが、むさ苦しい感じは一切無く、その年齢ともあいまった中性的な魅力があった。

 瞳は青みがかった淡い紫。

 その瞳は強い意志を感じさせる輝きを放ちながらまっすぐにガナッシュを見つめていた。

 顔立ちは驚くほど整っていて、ガナッシュは思わず、美しいなと素直に感嘆の念を抱いた自分に驚愕する。

 今まで、そんな風に他人を美しいなどと、思ったことは無かった。愛と美の女神に対面した時ですら。


 ガナッシュはぎりりと唇をかみしめ、鬼の形相で少年に近付く。

 少年はそんなガナッシュを恐れるでもなく、ただ涼しい表情のまま、相手がガナッシュが近付くのを待っていた。

 その余裕げな表情すらも小憎らしく、ガナッシュは激情のまま、少年の襟首をつかんでそのほっそりとした体をつり上げた。



 「貴様、どういうつもりだ!?」


 「どういう、つもりって?」



 ガナッシュの怒鳴り声に、少年の涼やかな声が答える。

 その声を聞いて、ガナッシュは再び顔をしかめた。

 容姿だけでなくその声すらも何とも魅力的で、思わず心が引き寄せられた。

 その事が何とも不快だったのだ。


 少年は苦しそうな様子もなく、小首を傾げてガナッシュを見上げる。

 ガナッシュは憎々しげにその顔を睨みつけ、



 「僕の女に……僕の女神に手を出しやがって。さっさと離れて消え失せろ!!」



 そう叫んだ。

 だが、その叫びを少年が鼻で笑う。その瞳に、ほんの少しの憐憫と嘲りを浮かべながら。



 「それはこっちのセリフだよ、ガナッシュ・クリマム。手を出したのは僕じゃないし、僕はどちらかと言えば手を出された方だよ」



 そう言って軽く肩をすくめると、少年は女神に視線を投げかける。

 つられたようにガナッシュが女神を見たその時、女神は少年に向かって微笑んで、彼の柔らかな頬に優しげな指先でそっと触れた。そしてー。


 ガナッシュが見ているその前で。

 女神はその少年に口付けをした。

 愛おしそうに。幸せそうに。ガナッシュのことなど、まるで眼中にないように。



 「……いけない女神様だな。あなたの可愛い男が見てる前で」


 「バカを言わないで、シュリ。アタシの可愛い男はアナタだけ。アタシが愛するのもアナタだけ。ねえ、シュリ。そろそろ信じてくれてもいいんじゃないかしら?」


 「……信じてあげるよ。あなたが誠意を見せてくれたのなら、ね」


 「もうっ、分かってるわよ」



 女神はそう言ってシュリから離れると、呆然と二人を見ていたガナッシュに向き直った。

 そして可愛らしく小首を傾げて彼を見上げる。


 ガナッシュはそれまでの怒りも忘れて、ただ胸をときめかせて彼女を見つめた。

 今までのはただの戯れだった。やはり彼女が本当に愛しているのは自分なのだと、確信に満ちた思いを抱きながら。

 それが全くの思い違いだと、気付かないままに。

 そんなガナッシュの期待と自信に満ちた視線を受け止めて、愛と美の女神は可愛らしく、そして残酷に微笑んだ。



 「アナタへの加護、返してもらうわね?ガナッシュ」


 「……え?」



 思いも寄らない言葉に、ガナッシュの顔から表情が抜け落ちた。

 思わずすがるように女神を見つめるが、彼女から返されるのは温度のない冷たい眼差しだけ。

 彼女はひんやりとした微笑みを張り付けたまま、ガナッシュの胸に手を押し当てた。そして。



 「……ごめんなさいね。ガナッシュ」



 そんな謝罪の言葉と同時に、体の中からなにか大事なものが抜き取られたのを感じた。

 途方もない脱力感に、ガナッシュは思わず片膝を地面へと落とす。

 だが、女神はそんな彼へ無関心な一瞥を送ると、傍らでそんな二人を見守っていた銀色の髪の少年の元へ駆け寄ってその腕の中へと飛び込んだ。

 二人は瞳を見交わし、微笑みあって、熱い口付けを交わす。

 そして、名残惜しそうな吐息と共に少年の唇を解放した女神は、その頬を優しく手の平で撫でながら、



 「シュリ、アタシの加護を、受け取ってくれるわね?」



 そう問えば、



 「愛と美の女神様がこれから先、僕だけを愛して下さると誓ってくれるなら」



 少年は小首を傾げてそう答える。さあ、どうしますかと言うように。

 神に永遠の愛を誓わせようという不遜な言葉に、愛と美の女神は怒るどころかむしろ、嬉しそうな笑みを浮かべて大きく頷いた。

 かつての愛し子、ガナッシュが見つめるその前で、なんのためらいも見せずに。



 「誓うわ。アタシの愛は、これから先、ずっとアナタだけのものよ」



 それを聞いた少年は、女神の体を力強く抱き寄せると、今度は自分の方からキスをした。

 そして、鼻先が触れ合うほどの距離で女神の瞳をのぞき込みながら、



 「なら、今この時から、あなたの愛も、あなたの加護も、全て僕のものだ」



 そう宣言した。

 女神はうっとりと少年を見つめたまま頷くと、その手の平を彼の胸へ。

 二人がふれあった場所から、女神を包む輝きが少年の体をも包み込み、まばゆく輝いた。


 余りのまぶしさにガナッシュは思わず目を閉じ、再び開いた時、目の前には銀色の髪の少年が居た。

 不意をつかれ、驚きのままに彼を見上げると、少年はしなやかな腕を伸ばして、ガナッシュの襟首をぐいっとつかんで自分の方へと引き寄せた。

 間近で彼の瞳をのぞき込みながら獰猛に笑い、そして言った。



 「ガナッシュ・クリマム。大切なものを奪われるのはどんな気持ちだ?」



 と。

 ガナッシュは、菫色の瞳に宿る静かで激しい怒りに気圧されながら、



 「おまえは、何者なんだ?」



 苦しい息のもと、その事だけを短く問いかけた。

 問われた少年はちょっとだけ、不思議そうな顔をした。

 それから自分の手元や体を見てからあっと言うような表情を浮かべ、ちらりと女神の方を見た後、再びガナッシュに目線を戻してニヤリと笑った。

 壮絶なまでに美しい顔で。



 「さっき、会ったのにもう忘れたの?僕の名前はシュリナスカ・ルバーノ。お前に大切なものを、奪われた者だ」



 その答えを聞いて、ガナッシュは愕然とした。

 彼の知るシュリは、まだ赤ん坊だったはずだ。さっき、初めて見た彼は。

 だが、言われてみれば、目の前の少年と先ほど対面した赤ん坊の色彩は同じだし、顔立ちもどこか似通っていた。

 あの赤ん坊が、この少年が、ガナッシュから、彼が何よりも大切に思っていたものをまんまとかすめ取った。

 その事実に、ふつふつとわき上がる怒りが沸点に達する前に、その時は訪れた。

 うすれ、消えゆくガナッシュに、シュリはにっこりと最高の笑顔を向ける。



 「じゃあな、ガナッシュ。また、あっちで」



 そうしてガナッシュの姿は跡形もなく消え、その場には少年の姿にまで成長したシュリと、そんな彼をうっとり見つめる愛と美の女神だけが残された。







 「で?なんでこんな事になってるわけ?思い返せば、最初から違和感があったけど」



 シュリは自分の体を見下ろしながら、愛と美の女神に問いかける。

 その問いに、女神は全く悪びれることなく、



 「赤ちゃんのあなたも可愛いけど、それじゃあ、色々楽しめないと思って。ぎりぎり出来そうな年齢にしておいたんだけど、ダメだった??」



 さらりとそう答えた。

 いったいナニをするつもりだったんだよ、内心つっこみを入れつつ、シュリは小さくため息を漏らす。

 だが、すぐに仕方ないなぁと笑って、



 「別にダメじゃないけど、なんにもしないからね?」



 そう答えた。



 「ええ~~。ちょっとくらい、いいじゃない。ねえ、先っちょだけでいいから……」



 女神は不満そうに唇を尖らせ、どこかの中年スケベ親父が言いそうなことを平気で口にする。



 「だーめ。まだあっちでやらなきゃいけないことが残ってるんだから、さっさとここから出してよ」



 シュリは苦笑しながら、べたべたとくっついてこようとする女神を押しやった。

 そうしながら、一応念の為と、ステータスを呼び出して加護の項目のところを確認する。

 そこにはしっかりと、愛と美の女神の加護が記されていた。



[愛と美の女神の加護]愛と美の女神に愛された者への恩恵。与えられる恩恵は以下の通り。


・[魅了]他者へ魅了の暗示をかけ、己の指示に従いやすくする事が出来る。効果は時間と共に減少。相手の好感度などにより、効果は増減する。


・[フィーリング・カップル]相性のいい相手と出会いやすくなる。効果は運によって左右される。


・[友愛のオーラ]嫉妬や独占欲など、美しさ故に集う愛につきものの負の感情を和らげるオーラを宿すことが出来る。


・[カメレオン・チェンジ]髪・瞳・肌の色、髪の長さや身長、服装などを自由に変更することが出来る。アクセサリーやおしゃれ小物なども自由自在。服やアクセサリーなどは、一度見たものや、自分でデザインしたものを再現可能。服飾品であれば、他人への譲渡も可能。


・[信仰の祈り]愛と美の女神様と交信が出来る。



 愛と美の女神の恩恵の内容は以上の通り。

 [魅了]以外も、中々役に立ちそうな恩恵が並んでいた。


 特に、[友愛のオーラ]なんかはありがたい気がする。

 [年上キラー]のせいで無闇矢鱈と好感度をあげてしまう身としては、相手からの嫉妬や独占欲は困るものだ。

 それを何とかしようにも今の段階では[年上キラー]のスキルは中々制御出来るものではないし、スキルレベルをあげるにはガンガン好感度を稼がなければいけなそうだし。

 そんなシュリにとって、[友愛のオーラ]はもってこいの恩恵と言えた。ちょっと、自分にとって都合がよすぎる気もしないではないが。


 それから[カメレオン・チェンジ]も中々面白そうな恩恵だし、[フィーリング・カップル]もまあ、役に立つのではないだろうか。

 シュリの場合[フィーリング・カップル]の恩恵に頼らなくても、問答無用でどんな相手でも自分にメロメロの相性抜群にしてしまいそうだが、まあ、年下相手には役に立つかもしれない。


 そんなことをつらつら考えつつシュリは一人頷き、ぞんざいに扱われた愛と美の女神がしょぼんとしているのに気付いて、再び仕方ないなぁと微笑んだ。

 その頭をよしよしと撫でながら、



 「女神様、ちょっと質問」


 「なになに?何でも聞いて??」


 「ガナッシュはあなたの加護を失ったわけだけど、これまでにあいつがかけた魅了の効果ってどうなるの?」


 「そうねぇ」



 女神はうーんと少し考えてから、



 「長年掛け続けられていた効果が一瞬で消えることはないかもしれないわね。ただ、急速にその効力を失う事は確かだと思うわ」



 慎重に、そう答えた。

 シュリは頷き、



 「なるほど。長くかけられていた人ほどその効果は抜けにくいって訳か。けど、時間はかかるにしろ、その効果は必ず抜ける。そうだね?」


 「それは間違いないわ。アタシが保証する」


 「わかった。ありがとう、女神様」



 女神の答えに微笑んで、シュリはもう一度女神の頭を優しく撫でる。

 もうすっかり子供扱いなのだが、女神は嬉しそうにしているのだから、まあ、いいのだろう。

 そうしながら、シュリは思う。

 ガナッシュに関しては、恐らくシュリが直接の手を下すまでもなく、天罰は下ることになりそうだ、と。


 だが、とりあえずはこの空間を出て、再び元の姿でガナッシュと対面することは避けられない。

 ガナッシュは、女神の加護を奪われた怒りを、シュリにぶつけようとするだろう。

 その怒りから、無防備な赤ん坊のままでどこまで逃げられるか、それが鍵だった。

 恐らく、カレンやシャイナ、それにジュディスが率いる討伐部隊もこちらに向かってはいるはずだが、彼女達が到着するまで、逃げおおせられるだろうか。

 まあ、シュリのレベルは驚くほど高いので、まあ、死ぬことはないとは思うのだが。



 (でも、まあ、いつまでもこの空間に引きこもってる訳にもいかないしな)



 なんとか、なるようになるだろうと、シュリは軽く肩をすくめ、女神の瞳をのぞきこんでお願いをする。



 「じゃあ、女神様。そろそろ僕を、あっちに帰してもらっても?」


 「え~~。まだなんにもしてないのに??」


 『しただろうが!?シュリの無防備な唇を無理矢理奪っておいてどの口が言ってんのさ!?この、恥知らずっ!!ったく、ボクだってまだシュリとちゅーなんてしてないのに!』



 不満そうな愛と美の女神の言葉に、どこからともなく運命の女神の声がつっこみをいれた。



 「うっさい、うっさい!もう、わかったわよう~。じゃあ、シュリ。名残惜しいけど」


 『ったく、このエロ女神が!じゃあ、シュリ、気をつけて戻るんだぞ?色々一段落したら、お祈りを忘れないように。必ず、ボクに会いにおいで』


 「あっ、ずっるぅい!!シュリ、アタシにもお祈りしてね?良いこといーっぱいしてあげるから、ねっ?」


 『黙れ!ハレンチ女!!シュリ、いいか?この女に気を許すんじゃないぞ?この女は可愛い顔をしてるけど意外と肉食で……』


 「あー、もう!シュリに変なこと吹き込まないで!!じゃあ、シュリ、またね!!」


 『あっ、話はまだ……』



 女神様達の、そんなけたたましいやりとりを聞きながら、視界のピンクが徐々に薄くなっていく。

 ああ、現実世界へ戻るんだな、と思いながら、シュリは己の意識がすぅっと意識がとぎれるのを感じた。

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