第18話 母の日

 「おかあさん、ありがとう」

 

 ある日。


 買い物先のスーパーの中に入っている花屋の前を通った時に、そんな言葉が書かれたPOPを目にした。



 そう言えば、母の日だなと思ったのだけれど、正式な日付を思い出す事が出来ず、スマホで検索してみると五月の第二週の日曜日が母の日になると言う事が判明した。



 花屋は今が一年でも一番のかき入れ時なのか、様々なアレンジをした花束がこれでもかというくらい全面に押し出されているのを見ると、母の日に何かを送った記憶のない自分としては少々迷惑で、押しつけがましく感じてしまうのだ。



 正確に言うならば、小学生くらいの時の母の日は、何かを贈った事があるかも知れないけれど、自分で働くようになって、収入があるようになってからは一度もない。



 父親には、母の日になると何か安い物でも良いから買ってやれと言われる事が何度かあったのだけれども、私はカーネーション一本でさえ贈っていない。



 母の日に何も贈らないのは、恥ずかしいとか、忘れていたとかそう言う事ではなくて、意図的なものである。

 当然のように父の日や、勤労感謝の日、そして両親の誕生日も同様である。



 そうしない事には、理由があるのだ。



 今でこそ、家族を扶養し、最低限は教育を受けさせ、生活の基盤を支えて来た事は、いい歳になっても家族を持たずにいる自分には不可能な事であり、凄い事であると解るのだけど、それはそれである。



 世間一般に母の日や、父の日を祝ってくれる子供がいるのであるならば、それは子供に大してそう言う接し方をしてきた親であるからであろうし、私のように祝ってくれない子供は、そう言うふうに接してきただけの差であるだけだろう。



 もちろん、産んで育ててくれた親に対しての態度として、それはどうかと言う意見もあるのだろうけれど、それは他人が言う言葉であって、親が口にする事ではないだろう。



 産んで育てるだけならば、犬や猫でも出来るのであり、自分は畜生でないならば、そうでない事を証明するような親であるべきだと思う。



 それが出来ないならば、私のように人の親になるべきではないと思う。

 子供は畜生ではないのである。

 野良として勝手に生きていけるなら、それはそれでどんなに幸せな事であるかと思うけれど、人はそう言うわけにもいかないのである。



 人それぞれには、それなりに未来というものがあり、親というのは子供の未来に対しての責任が発生する。

 少なくとも、成人するまでは。



 その責任を果たしてこその親であり、私は少なくともその責任を果たせないという事を自分の容姿と収入から理解している。



 しかし最低限の義務と責任を果たせばよいと言う物でもないだろう。



 最低限はあくまでも最低限であるだろうし、最低限だけの責任を果たしたところで、それを盾にとり、親としての義務と責任を果たしたと言われても困るのである。



 もちろん、世の中にはそんな最低限の親の責任を果たそうともしない親がいる事も知っており、それに比べればかなりマシであると言えるのだけれども、マイナスからプラスマイナスゼロになっただけの気がしてならないのである。



 ゼロである。



 人は受けた恩に対し感謝して感動する。

 プラスがさらにプラスになり、その積み重ねに対し、感謝して感動するのは理解できるのだけど、マイナスがゼロになった事に大して何を感謝すればいいのだろうか。



 自分の収入は自分のものである。

 自分の人生は自分のものである。

 自分の収入は自分だけに使う。

 これはささやかな抗議である。

 最低限の教育しか受けさせなかった事に対する抗議である。



 最低限の教育では選択肢が限られてしまった事に対する復讐である。

 自分のお金を自分の意志が及ばない事に使うのが嫌だったのである。



 「おかあさん、ありがとう」

 

 そんな事は口が裂けても言えない。


 将来的に私が背負う負債がありえないくらい大きいのに。

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