メルヘンスケッチ!

東雲八雲

第1話 逃亡の赤ずきん

「はぁ、はぁ……」



少女は逃げていた。


スカートをなびかせ、左手にかけたバスケットを揺らし、頭を被る赤い頭巾ずきんが脱げないように、片手で押さえている。



何故逃げているのかと言うと、彼女は追われていたのだ。



「逃がすな!必ず捕らえろ!」



遥か後方から、男の叫ぶ声が聞こえる。しかし少女は聞く暇もなかった。ほとんど無我夢中で、満月が照らす夜の森を走り抜けていた。



時折、木の根元に足がつまづいたりしかけたが、すぐに立て直して、走る速さを緩めない。



「(なにが……今、なにが起きてるって言うの……!?)」



少女の頭の中は、吹き荒れるの如く混乱していた。ひたすら足をせわしなく動かして走る。何も考えず、とにかく逃げていた。



しかし、少女の背後から迫る追手は、徐々に距離を詰めてきた。



「あっ……!」



わずかに、後方を確認しようと目線を後ろに向けた瞬間、足が根元につまづいて、少女はそのまま転ぶ。正面から倒れたため、胸元を強く打ち、一瞬息が詰まってしまった。



「うぅ……」



転んだ拍子で、左手に提げていたバスケットが前方に転がる。少女は転がるバスケットに目を見遣っていると、


行く先を阻むが如く、目の前に槍が突き刺さった。



「やっと追いついたぞ。手間をかかせてくれたな」



転倒して横たわる少女の背後には、槍を持った兵隊。全身を鎧が纏われ、容姿そのものが解らない。


兵隊が発する声は低く、辛うじて男性と解る。



「拘束させてもらう。大人しくしていろ」



そう言われても、少女は動けなかった。追いつかれたという絶望感と、何をされるか解らない見えない恐怖に、身が固まってしまっていた。



隙を見て逃げようなんて考えられなかった。大人しくしないと、殺される。それだけが頭に残り、抵抗する事も出来なかった。



このまま、意識が失ってしまえばいいと願ったが、常に高鳴っている心臓がそれを許さなかった。どんなに願っても、少女の意識は冴えてしまう。



そんな少女の気持ちさえ気にも留めないように、兵隊は少女の腕を荒っぽく掴んだ。



その時、



少女の視界に、誰かが映ったかと思えば、



突然巨大な拳が飛来し、兵隊を容易く殴り飛ばした。



「ごはっ……!?」



兵隊は防御の姿勢もなく、真正面から直撃し、後方に吹き飛ばされた。



倒れていた少女は、一体何が起きたのかがわからない。


唖然としながら正面を改めて見た。



頭上には、巨人のような大きい拳がある。拳を繋ぐ腕は、森の奥へと続いており、段々と細くなっていた。


しかし、姿は森の暗闇で見えず、腕が伸びているだけ。



「よ、っこいしょ」



その小さな掛け声とともに、頭上の拳が奥へと引っ込んだ。引っ込みながら、拳は小さくなり、暗闇に消えていった。



それから、足音とともに、その人影が少女に近づいた。



その足音の主は、自分と同じ少女だった。



エプロンドレスに縞模様のハイソックス、頭にはうさ耳のような黒のリボンを付けていた。



「……大丈夫?あんた」



開口一番、黒リボンの少女は、姿勢をわずかに前傾にしてそう尋ねた。



「え、あ、あの……」


「……しょうがないわね」



返答に困っていると、黒リボンの少女は呆れるように言いながら、赤い頭巾の少女の腰に手を滑り込ませ、そのまま持ち上げ、小脇に抱えた。まるで荷物を扱うようだ。



「う、わぁっ!?」


「揺れるけど、我慢して」



それだけ言うと、黒リボンの少女は走り出した。そこらへんに転がっていたバスケットも拾い上げ、そのまま森の奥へと向かっていった。



そんな中でも、赤い頭巾の少女は、まだ状況が掴めていなかった。



◆ ◆ ◆ ◆ ◆



ひとしきり走ると、森を抜け、一つの小屋を見つけた。


レンガ造りの壁に、鉄製の扉が特徴的だ。元々は倉庫だったようで、干し草が至る所に転がっている。



「……ここで一休みね」



黒リボンの少女は、やっと赤い頭巾の少女を下ろした。


だけどその仕方はあまり優しくなく、そのまま投げ捨てるように下ろす。



「うぅっ」



落ちる床が硬いため、変なうめき声が上がる赤い頭巾の少女。


干草の匂いが鼻について、地味にきつい。



「それにしても……厄介な事になったわね。離ればなれになるし……」



やれやれと、うんざり気味に黒リボンの少女は呟いた。大変なのはこっちなのだが、自分を助けてもなお、厄介な事と言い切れるのか。



「あ、あの……あなた、何者なんですか?」



あの兵隊を吹っ飛ばした腕は何なのか、何故自分を助けてくれたのか、何故こうも冷静にいられるのか、諸々と疑問がかき乱されていた。目の前に居る少女でさえ、どんな人物か全く見当がつかない。



「あっ、名前なんて言ってなかったかしら」



しかし、赤い頭巾の少女が聞きたかった事とは違う事を、黒リボンの少女は思い出すように言った。いや、それを聞きたかったわけではないのだが、そんな気持ちさえ気づくことなく、自身の名前を言った。



「あたしの名前は『アリス』、あんたは?」


「…………」



スムーズな形で、今度はこちらに投げかけてきた。何だか言いにくいが、先に尋ねておいて答えないのは、ちょっと申し訳ないので、赤い頭巾の少女も答えた。



「……わたしは、『スカーレット』って言います」



赤い頭巾の少女、スカーレットの遠慮がちに、しかし自己主張を絡めた台詞に、黒リボンの少女、アリスは静かに聞いてから、問い返した。



「スカーレット……赤い頭巾被ってるから、スカーレットなのかしら」



そういえば、彼女の被る頭巾の色も、赤色である。


「あはは……みんなからは、『赤ずきんちゃん』って呼ばれてます」



被っている赤い頭巾と名前が共通している事を言われて、スカーレットは恥ずかしそうに、あだ名を告白した。



「確かに、赤ずきんちゃんって言ってもおかしくないわね」


「あまり言ってはほしくないんですけどね……」



この頭巾は、スカーレットが初めて一人で出かける際に、母が編んでくれたものだ。


名前が赤を意味する為か、知り合いからは赤ずきんちゃんとあだ名を付けられた。正直恥ずかしいものである。



「それで何故、あんたはあの森の中を居たのかしら。この森は、狩人や木こりでもない限り通らないはずだけど」



スカーレットが通っていた森は、確かに少女一人が通るには、少々危険が伴う場所。そもそも通る事自体不自然だ。



「…………」



アリスの指摘を受けて、スカーレットは口をつぐんで、顔をわずかに俯かせた。


その反応は、何か意図した事があるのか、それとも、言いたくない事でもあるのだろうか。



「……別に言わなくても良いわよ。そんなに言いたくないのならね、無理に聞くのもこっちが酷だし」



無理をさせまいと、アリスは付け加えて言った。


しかしアリスとは裏腹に、スカーレットは閉ざしていた口を、ゆっくりと開いた。



「逃げてきたんです……」


「?」



か細い声だった為か、アリスは聞き逃した。聞き直すように、目線をスカーレットに向けた。



「わたしの家に、見慣れない兵隊が来て、『妖精王の餞別はどこだ』と詰め寄られました……それでわたし、逃げてきたんです」


「……妖精王の餞別?」



あまり聞き慣れない単語だ。何かのまじないだろうか。



「その、妖精王の餞別って、何なのかわかる?」


「わかりません……わたしも何のことか、さっぱりで……」



その時の事を思い出したのか、スカーレットの手がわずかに震えている。



「……まぁいいわ、今日は休みましょ。明日は白うさぎを探して、あんたの身に起きた事を説明しないとね」



アリスは彼女の気持ちを考えて、話を切り上げ、休息を取ることに決めた。昨日まで平凡に、平穏に暮らしていた少女が、あんな恐ろしい経験を受けて平気なわけがないし、落ち着かせて詳しく事情を聞いたが充分意味がある。



「あっ、シーツならありますよ。わたしのバスケットの中に入れてます」



適当に干し草を取ろうとした時、スカーレットが傍らに置いているバスケットから、花柄のシーツを取り出した。



「……便利なバスケットね」



ついでに拾ってきたアリスとしては、拾っておいて良かったと、改めてほっとしていた。



「お母さんのバスケットですけど、色々入れることが出来るんです」



そう言ってスカーレットは、バサッ、とシーツを広げる。丁度二人が使える大きさだ。



「あたしも入って良いかしら?」


「良いですよ、どうぞ」



広げたシーツの中に、アリスも入る。丁度両者は密着する形になり、すきま風が起きる倉庫の中でも、寒さがしのげるくらいにはなったが、


ちょっとした問題があった。



「……流石に、こうして寝るのは恥ずかしいかしらね」


「そ、そうですね……自分から了承したとはいえ……」



お互いの距離は、寝息が聞こえるくらいの近さで、二人は何となく恥ずかしくなった。



だけどこの後、二人は何事も無かったように、静かに眠りについた。



シーツを被って横になるスカーレットは、これからどうすべきか、何をすべきかを頭に思いながら、ゆっくりと意識を沈めていった。


全ての世界が震撼する、一大事件が起こるとも知らずに。

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