どこにでもはない場所
ふと目を覚まして、目覚まし時計へ伸ばした手が寒い。
時刻は朝の十時を少し回ったところだ。
当然のように、隣に妻のぬくもりはない。
しばらくは記憶を整理しながら、徐々に覚醒してゆく意識の中で起き上がる。
明け方まで原稿と格闘して、少し仮眠にとベッドに入ったのを思い出す。
そしてやはり、肌寒い。
それで寝室を出て、リビングへと逃げ込む。
そこでようやく、私は温かな全てへと再会した。
「ん……おはよ」
エアコンのきいたリビングのこたつに、妻がいた。
妻は自分より18歳も年下なので、今年で29歳になる。仕事は音楽関係だ。外したヘッドホンはノートパソコンから、ボーカロイドの声がかすかに漏れ聴こえた。
「おはよう。ああ、いいよ。自分でやる。仕事に戻って」
「そ、わかった」
立とうとした妻を手で制して、自分でキッチンへと向かう。
妻との暮らしでは、ルールが一つだけ存在する。
お互いに自分の趣味と仕事を尊重し、その邪魔になることを
ただ、流石に積み過ぎたプラモデルの塔、いや……壁には彼女も
キッチンにはサーバに熱いコーヒーが少し焦げっぽい香りを
だが、冷蔵庫を開けたら牛乳がなかった。
「ふむ……なあ! ちょっと牛乳を買いに出るが、何かあるかい?」
返事は、ない。
恐らく、作業に集中してるのだろう。
洗面所で軽く顔を洗って歯を磨き、
部屋着のスウェットを脱ぎ捨て、セーターの上からコートを
玄関に向かうと、パタパタと妻が追いかけてきた。
「玉子、お願い。それと、これ」
彼女は頭一つ以上も背の高い私に、背伸びしてマフラーを掛けてくれた。首元で結んで、「……よし」と満足したように
私はこうして、ややブルジョア趣味だが質素なマンションの一室を出た。
エレベーターで降りてエントランスを出ると、思わず
「雪か……道理で寒い訳だ」
ポケットに手を入れ、首元のマフラーを口まで引き上げて歩き出す。
今日もこの街は、静かな熱気に包まれていた。
また新しい入居者が来るのか、そこかしこに運送会社のトラックが止まっている。荷物を降ろす若者達も、
そう、最初は誰もがまるで……見知らぬ楽園に迷い込んだような印象を受ける
計画的に整備され、自然と被造物が調和して混じり合う景観。
レトロモダンから逆算したような、そんな近未来都市にも見える。
目につく緑は今、冬を迎えて白く染まり始めていた。
積雪2cmの歩道を、多くの足跡を上書きしながら歩く。
大きな街じゃないから、すぐにコンビニに辿り着いた。
「あっ、ながやんさん! ……どう? 原稿、
入店するとすぐ、窓際のカウンター席に座る紳士が声をかけてきた。
コーヒーを手に外を眺めていたのは、同業者で友人のキサガキ先生だ。
私はただ、黙って肩を
彼も苦笑しながら、そうだろうそうだろうと頷いてくれた。
「俺もね、ちょっと手こずってるんだよ。ニュース、見たでしょう?」
「ん? 何かあったのかい?」
「
「うん」
「独立を宣言した」
「……はぁ?」
寝耳に水だ。
だが、キサガキ先生は牛乳を探す私のあとをペタペタと歩く。
ズズズと紙コップのコーヒーを
「
「おいおい、おいおいおいおい」
「だろ? 今、俺は大急ぎで原稿を書き直してる。作品が未来に追いつかれそうだぜ、正に『事実は小説より
「……自分は、うーん……ギリギリでセーフ、かな?」
ここ最近はテレビなんかも見なくて、
最後に見た大きなニュースといえば、夏のユーロ圏再統合くらいだ。
それからニ、三のやり取りをして、私は牛乳を選ぶ。
コンビニでも数種類の選択肢があったが、もうちょっと足を伸ばせばスーパーマーケットの品数はさらに豊富だ。特にこだわりもないが、玉子も買うついでに菓子も物色する。
自分に復刻版のぬ~ぼ~を買い、妻にはたけのこの里を選ぶ。
きのこ派の私としては、これをレジに運ぶには愛という名の言い訳が必要だった。
キサガキ先生と分かれて、自宅へと戻る。
帰路の道中、この寒い中でタブレットを突きつけ合う二人組と擦れ違った。街全体に完璧なネット環境があるから、どこでだって仕事には困らない。イラストをやるらしい若者達は、腰を落ち着ける時間を惜しむ用に意見をぶつけ合っていた。
この街ではどこでも見られる光景だ。
何故なら……ここはあらゆる分野の創作家にとって
「あっ! ながやんさん、ちょっと! いいとこに!」
ふと呼び止められて、振り返る。
背後から追いかけてきたのは、街の自治運営に関わってるスタッフだ。
私は第一期世代の入居者なので、意外とこれでも顔は広い。
まだ若い彼は、私の前まで来て両膝に手を当て呼吸を整える。
「あの、
「ん? ああ……戻ってきてるのかい? ふむ、見てないね」
「困ったなあ。今度、この街のあらゆる著作物を公平に管理するべく、財団を立ち上げるんですけどね? その、弁護士の方々が先程からお待ちで」
「はは、辰さんは忙しいからね」
その名を聴いて、自然と私は街の中央広場へ視線を放った。
そこに巨大な銅像となっていてもおかしくない人物、それが辰さんだ。
この街の創始者、そして今も拡張と改善を続けて
彼もまたこの街では、一介のクリエイターでしかない。
「本屋はまわったかい? 彼は必要な本は全てあそこに取り置きしてるから」
「ああ……なるほど! ちょっと当たってみます」
「もし会えたら、よろしくと伝えてくれ」
「わかりました。どうも、ながやんさん」
彼は急いで来た道を引き返していった。
その背が消えてゆく
漫画家に画家、音楽家、そして建築家や陶芸家。ファッションデザイナーや音楽プロデューサー、歌い手に踊り手と、この街では誰もが創作家、芸術家だ。
「もう越してきて5年、か……早いものだ」
ことの始まりは、他愛のない空想だった。
SNSで親しくなった創作仲間同士での、ちょっとしたお遊び。理想の街で毎日楽に暮らしたいという、その街を作ってしまおうというお
だが、その後の大きな変化が全てを変えた。
5年前、サブカルチャー大国日本の脆弱な文化財保護体制が明るみに出る。折しも、昭和から平成とあらゆる分野で蓄積された創作物が、十分な管理もされないまま
それに
そして、税務署にも財務省にも、勿論文化庁にも手に負えなくなっていたのだ。
「全く……辰さんは大したものだ」
辰さんと有志の者達が、立ち上がった。
あっという間に作品の全てをリスト化し、一元管理で全ての権利を掌握したのだ。何故そんなことができたかと言うと、一説にはアラブの石油王が動いたとか、裏で5000兆円という国家予算規模の資金を得ていたとか諸説ある。
だが、公正に管理された著作物の数々は、創作者が死んだあとも豊かな文化として残り続けた。そこから発生する利益が、製作者の遺族は勿論、管理するNPO団体そのものも十分に
そして、この街が誕生した。
ポピュリズムを
「……そういえば、
寒さを思い出して、私は身震いと共に歩き出す。
この街の創作家の中には、
想像力は即ち、創造力だ。
建設的な論法を普段から重視するクリエイター集団からは、不思議と優れた政治家や指導者が排出された。あの日本が今では、世界で一番クリエイターや文化人に優しい国である。そして、そのことが国益と呼べるスケールまで今も広がり続けていた。
最後に、この街の名前を私は思い出す。
クリエイティブ・ユートピアというのは、役人が提示してきて辰さんが突っぱねた名前である。どうにもお役所仕事特有のとってつけた感があって、そもそも
故に、この街の名は楽園でありながらユートピアではない。
――
ここでは誰もが『
目下、アイトピアでは問題らしい問題もなく、意欲に満ち満ちたクリエイターで溢れかえっている。辰さんがいつか、第二弾や第三弾を順次と言っていたが、ひょっとしたら次は月か火星か、それとも木星圏かというところだろう。
そして、この街は今も進歩し、進化を続けている。
より楽しく、より公正に、そして何より創造的にだ。
ここでは街そのものが『
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