真実の空へ

 けた暗雲の中、翼は天を目指す。

 その背に感じるエンジンの鼓動に、八州甚助ヤシマジンスケ少尉は絶句した。

 呼吸が詰まるほどの急加速、急上昇。

 本来コクピットの前面にあるはずの心臓部は、後ろからグイグイと甚助を持ち上げた。まるで、小さい頃に読んだジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』だ。絶え間なく増速を繰り返す翼は、重力を振り切って月まで飛んでいきそうである。

 ふと、甚助は思う。

 月には戦争などないのではないか、と。

 だが、仮にそうならば……やはり、この人智を超えた画期的な飛行機は月へはゆけない。

 戦争のない場所へは、兵器である戦闘機を持ち込んではいけないだろうから。


試作局地戦闘機しさくきょくちせんとうき、J7W1……震電シンデン。これなら、B-29の高度一万メートルまでだって!」


 その名のごとく、空を震わし駆け登る稲妻いなずま

 震電のスペックは、今まで甚助が乗ってきたあらゆる戦闘機を凌駕りょうがしていた。

 前後を逆にしたようなエンジンレイアウトも、慣れればそれが当然のようにも感じる。将来的にはジェットエンジンを載せ、噴式ふんしき戦闘機になるらしい。

 鋭いやじりのようなシルエットは、あっという間に高々度へと舞い上がった。

 甚助の脳裏に、自分を送り出してくれた者達の言葉がよぎる。






 その日、小倉こくらの空は黒く燃えていた。

 鼻をつくコールタールのにおいに咳き込みながら、甚助は格納庫ハンガーへと走る。すでに迎撃の五式戦ごしきせん零戦れいせんが緊急離陸で飛び立っていた。だが、従来の機体では高度一万メートルまでには時間がかかる。その間にアメリカのB-29は爆撃を終えて、悠々ゆうゆうと空を去ってしまうのだ。

 それでも、はいそうですかと指をくわえていられないのがパイロットだ。

 甚助にも空の防人さきもりたるプライドはあったし、それを教えてくれた者達の想いも背負っていた。英霊となった先人達の気持ちが宿る限り、飛べる空へと駆け上がらねばならない。


「クソッ、機体は残ってないのか! 整備長、機体は! ……ッ!?」


 本州から転属してきたばかりの甚助には、まだ機体はてがわれていない。

 そしてそのまま、駆るべき翼を持たずに一週間が過ぎようとしていたのだった。

 彼は格納庫を順々に駆け巡って、がらんどうの中を叫びながら走る。

 その時、一番奥の暗がりから一人の男が歩み出た。

 即座に甚助は身を正し、年老いた将校へと敬礼する。


「八洲甚助少尉であります! 閣下、自分に機体を……翼を与えてください!」


 初老の男は、海軍の中将だった。この暑い中でも、軍服にはいささかの乱れもない。それに気付いた甚助は、自分のことが気になって飛行服を慌てて直す。

 老将は背後を振り返って、整備兵達の頷きを拾った。

 彼の後ろで作業しているのは、皆が皆若い少年……子供ばかりだ。

 甚助とは五つも六つも違う、そういう十代の若者である。

 再度甚助に向き直った男は、その目に鋭い光を宿して問いかけてくる。


「海軍中将、磯谷龍二イソヤリュウジだ。少尉……飛べるのか?」

「死ぬ気で飛びます! 命をして飛んでみせます」

「既にもう、この基地に残された戦闘機はない。……それでも、飛べるのかね」

「ここで飛ばねばなりません! 多くの者達が自分に、散りゆく中で故国を、日本をたくしてくれました! 今更いまさら飛べぬでは、靖国やすくにで顔向けできませんっ!」


 龍二の厳しい眼差しに、光がともる。

 彼は「ふむ」と頷くと、ポンと甚助の肩を叩いた。


「ならばあれを使え……海軍工廠こうしょうで試作中だったものの一機だ」

「あれは……? 失礼ながら閣下、誰が搬入はんにゅうしたのでありましょうか。前後が逆に突っ込んで、これでは発進の手間が――」

「よく見給みたまえ、少尉。この機体は……震電はこれでいいのだ」

「震電……!」


 空想科学くうそうかがくひたって過ごした少年時代に、思わぬところで甚助は再会した。

 それは月へと人を運ぶ砲弾ロケットのようでもあり、深海の孤独を支配するノーチラス号のように雰囲気がある。そう、雰囲気だ。見るものを圧倒する強烈な存在感が、既存きぞんの戦闘機にはない奇妙な気迫を感じさせたのだ。

 パイロットは皆、命を預ける機体へと想いを重ね、戦友のように親しみを感じる。

 搭乗者の魂が呼応する時、翼は機械の肉体を持った生命いのちへと昇華しょうかするのだ。


「厳命、八洲甚助少尉。試作局地戦闘機J7W1震電を用いて高々度迎撃作戦に参加せよ!」

「八洲甚助少尉、拝命いたします! ……死んでもこの空を守り抜きます!」

「馬鹿者……死を軽々しく口にするな! 貴様の命も試作機も、必ず持ち帰れ!」

「ハッ!」


 すぐに甚助は離陸準備に取り掛かった。

 通常より高い位置にあるコクピットへと、脚立きゃたつを使って駆け上がる。

 整備兵達の中には一人だけ初老の熟練工がいて、手短に機体の説明をしてくれた。

 時速700キロという速度にも、搭載された武装にも甚助は舌を巻いた。

 まだ日本には、これだけの戦闘機を作る技術があるのだ。

 同時に、察した。

 この戦局が逼迫ひっぱくした情勢においても、震電は開発ナンバーをかれていない。技術者や物資の不足、そして恐らく量産体制の目処めどもなかなか立たないのだろう。

 今、誰の目にも故国の敗北が近付いて見えた。

 だが、それを今口にする者などいない。

 たとえ負けるにせよ、負け方には誰もが矜持きょうじを持っていた。

 軍人は国と民を守り、兵士はそのために命を賭ける。

 命懸けで、時には捨て身で戦わねばならない。

 離陸準備を完了させた甚助は、見上げる龍二を一度だけ振り返った。

 そして意外で奇妙な言葉を聞く。


「少尉、。そのまま小倉を離れ、別の基地へと着陸したまえ!」

「閣下、それはどういう意味で……異変? 異変、とは」

「例えば、そう……、とかだ」

「黒雲、でありますか?」

「……その時は、誰もこの場所で生きてはいまい。だから、少尉。君にたくす……誠に申し訳ないが、死ぬ気で飛んでもらう! その上で、死ぬことは決して許さん!」

「了解しました! 八洲甚助少尉、出撃します!」


 そして甚助は今、空にいる。

 空を切り裂き、突き破ってその上へ。






 にごった雲海うんかいは全て、小倉市内を総動員したコールタールによる煙幕えんまくだ。その中を今、震電は真っ直ぐ上昇してゆく。油圧正常、エンジン快調……その勢いは全く衰えず、高度計の針が数字を押し上げ続ける。

 そして甚助は、開かれた空の青へと飛び込んだ。

 高度一万メートル……空気さえも凍る蒼穹そうきゅうは今、眼下の闇が嘘のように晴れ渡っていた。

 必死で目を凝らして、周囲に敵影を探す。

 血走る目は、B-29を探して全天をくまなくにらんだ。


「どこだ……どこにいるっ! 姿を見せろっ! 俺と……俺と戦えっ!」


 だが、戦士の叫びは無情にも青い静寂へと吸い込まれる。

 静まり返った空には、震電のエンジン音しか響いてこない。時折遠くで、激しい対空砲火の音がかすかに響く。目と耳には自信があった甚助だが、なにも拾えない。そこには敵意はなく、ただ美しい世界が広がっているだけだった。

 そして、不意に出撃前の龍二の言葉を思い出す。

 それは、つい先日の恐ろしい報告を呼び起こさせた。


「空に異変……雲が天をく。広島の新型爆弾? それが、小倉にも?」


 三日前、広島にアメリカの新型爆弾が落とされたらしい。

 そして、酷暑こくしょの朝で暮らしを繋ぎ止めていた者達は……消し飛ばされた。いかなる技術かは知らないが、この世の地獄が瞬時に出現したのだ。空気は煮えたぎり、爆風は街を消滅させた。業火が人を焼いて皮膚を溶かし、阿鼻叫喚あびきょうかんの大惨事を引き起こしたのだ。

 たった一発の爆弾で、街を消してしまえる……それがアメリカの技術だ。

 そんなものを腹に抱えて、無数のB-29が飛来すれば日本は――


「クッ、どこだ! そんなもの、俺が落とさせねえ! 落ちるのは……ちるのはお前等だ! 出てこい……出てこいってんだよぉ、鬼畜米英きちくべいえいっ! B-29!」


 やがて、燃料系が甚助に帰路をうながす。

 もとより満タンで飛べる機体など、この国にはもう残ってはいない。上質な航空燃料など既に尽きていたし、粗悪な燃料でも飛べばいい方だ。それも残りわずかで、互いに分け合うようにして皆が護国ごこくの翼を駆っているのだ。

 最新鋭の高性能戦闘機も、燃料が尽きかければ無力だ。

 虚無感きょむかんに襲われる甚助を乗せて、暗雲の中へと震電が沈み始める。


 清浄とさえ思える天空の青が、急激に視界から遠ざかった。

 そして甚助は、己が飛び立った飛行場へと翼をひるがえすのだった。


 磯谷龍二中将の独断で運用された震電の記録は、機密保持のために抹消となった。甚助は口を封じられるように知覧ちらんへと転属命令が出て、そして……終戦を待たず風になった。乗り慣れた零戦が、彼にとって最後の翼となった。

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