第3話 見える女
その女は理想的だった。
つまり、殺すにあたって、という意味で。
突然、彼女がいなくなっても、誰も気にしないであろう、という意味で。
女とは、まったくの生活圏外にある、歓楽街の飲み屋で知り合った。
「その首のでっかい絆創膏、どうしたの?」
カウンターの横から声を掛けてきたのは女だった。
「……ひげ剃りのときに、手が滑ったんだよ」
わたしは適当に受け流した。
「どんなひげの剃り方してんの?」
女が可笑しそうに笑う。
「じゃ、自殺しようとしたんだよ。辛いことばっかりだから」
これはもっといい加減なウソだった。
「……あーーーわたしもおお………死にたーーーーーーい…………」
初対面のわたしに女はそう言って、わざとらしくため息をついた。
「何で?……何で死にたいの?」
わたしは聞いてみた。大した答は期待していなかった。
「つーーーーまんないからーーーー……」
女が答えた。予想どおりの答だ。
「この街に住み始めて何年?」女はかなり酔っているようなので、わたしは探りを入れ始めた。「どうも、北のほうから来た、って感じだけど」
「……えー……わかるんですかあーーーー」
女の髪は真っ白だった。気合いを入れて脱色している。
目の周りは、ちょっとやりすぎなくらい真っ黒なマスカラに覆われている。
そして、灰色のカラーコンタクトを入れていた。
顔つきは線が細くて可愛らしかったが、全力で自分の可愛らしさを否定しているようにも見える。
「……仕事はなに?」
「インショクギョーーーーで、えーーーーーーす」
女はケラケラと笑う。
わたしは女がどこの店で働いているのかを聞いた。
どれくらいその店で勤めているのかを聞いた。
そして、この街にやってきて、それが何軒目の勤め先なのかも聞いた。
一人暮らしであることも確認した。
……すべてが申し分なかった。
「何がそんなにつまらないの?」
「仕事! すべて! 何もかも!」
「何がそんなにうっとおしいの?」
「人生! すべて! 何もかも!」
「本当にもう死にたいの?」
「うん!」
……完璧だ。わたしはこの女を殺すことに決めた。
決めたとはいえ……この女と会ってまだ数時間しか経っていない。
わずかな時間でも、生きている様をしっかり拝んでおかなければ。
この女がどういう人生を送ってきたのか、どんな経験をしてきたのかをちゃんと知っておかないと、殺す楽しみはない。
言っておくが、わたしはレイプ殺人犯ではない。
殺す前に相手とセックスするなんて、もってのほかだ。
そんなことをするくらいだったら、死体の手に自分の免許証を握らせておくほうがずっとましだと思う。避妊具をつければいいじゃないか、と思う人もいるかも 知れない……しかし、それはどこかに捨てなければならない。避妊具には、自分の精液と、相手の体液が付着する。そして、そこから個人を特定する警察の技術 は、日々刻刻と進歩している。甘く見てはいけない。わたしの知る限りでは、この宇宙空間では、物体が完全に消滅してしまうことはない。まして、どこかで 買ったものなら当然だ。わざわざ自分につながる証拠をひとつでも増やすなんて、どうしようもない間抜けのすることだ。
まあそれ以前に、わたしは殺す相手とのセックスには興味はない。
なぜかって?……セックスする相手を見つけたなら、生かしておいて、愛人として付き合い(言い忘れていたが、わたしは所帯持ちだ。一つ歳下の妻と、中学 生の息子がいる)、プレゼントを買ったり、食事をしたりしながら、何回も何回も何回も何回もセックスをする……まあ、これを読んでいる人の一部は、実際に やっていることだろう。
最近は景気も悪いので、なかなかそういうわけにはいかないかも知れないが。
「じゃあ、店を出ない?……まあラブホテルまで、ってことだけど」わたしは“スケベったらしい親 父”のニヤついた笑みを作って女に言った。「どうせ死にたいんだったら、その前におれとセックスする、ってのはどう? ……違う人生が見えてきて、生きる希 望が湧いてくるかもしれないよ」
「ふん」女は、死にかけのゲジゲジでも見るような目でわたしを見た。「興味ねーっての」
「そうかあ……じゃあ、おれの車で酔いを覚ますってのはどう? 手をつないで、朝日を待つってのもいいんじゃないか……ロマンチックだろ?」
「はん」反応は同じだった。気持ちはわかる。「あーほーかー」
「君はほんとうに、生きることすべてにうんざりしてるんだね。わかるよ……」
「だろうね」女が軽蔑を隠そうともせずに言った。「だってあんた、呪われてるもの。でも、気にしてない、って感じだよね」
「え?」
これは、奇妙な展開だった。
わたしは一瞬にして、女に興味を持った……殺しの対象として以外の興味を。
「すっっっっごい顔した女が、あんたの後ろでしゃがんで、あんたのことを見上げてるよ。顔が、ナスみたいな色してる。舌を出してる……三〇センチくらいの長い舌を。あんたを、ずっと睨んでるよ」
「…………」
わたしは気を取り直すため、煙草に火をつけて……女に一本勧めた。
女はぞんざいに煙草を受け取って咥え、わたしが差し出したライターの火に応じる。
そして煙をふう、とわたしの顔に吹き付けて、真っ黒にふちどられた目でわたしを見た。
目が笑っている。口も笑っている。
さっきまでの間抜けを絵に描いたようながらんどうの女は、もうそこにはいなかった。そこには哲学者か……占い師か……もしくは心理カウンセラーがいた。
「あんた、その女を殺したでしょ」
「…………」
「でしょ?」
女が首をかしげて、わたしの顔を覗き込む。
「……その女、どんな髪型してる?」
わたしは女にカマをかけた。
「長い。仲間由紀恵みたい」
当たっている。
「ほくろはどこにある?」
「………顔には見当たらないけど」
当たっている。ほくろはないはずだ。
「……どんな服を着てるかな?」
「上は白いブラウスだけど…………下は異様だよ。紙おむつ履いてるもん」
当たりだ。完全に当たっている。
この女が何者なのかは知らないが、この女には本当に亡霊が見えるらしい。
「……飲みすぎなんじゃない?……とんでもないチャンポンをしたとか」
「かなり酔ってるけど……酔っててもシラフでも、あたしには見えるの」
「……その女、どうしてる?」
「あんた、自分で確かめりゃいいじゃん。あんたの真後ろにいるんだから」
確かめたくもなかった。
あるいは、女の言うとおり振り向けば、そこにその女の姿を見ることができたかもしれない。ただ……もう殺してしまった相手を改めて見ることに、一体なんの意味があるというのだろう?
「……きみは……アレかな。霊能者かなんかかな?」
「どうだろうね?……他人のいいところやわるいところに関して、よく気がつく人とぜんぜん気がつかない人がいるじゃん?……それってまあ、素質だよね。それと一緒じゃない?……声を掛けてくる男が、まともな奴かそうじゃないか、それを見分けるのもまた素質だよね」
「じゃあ……おれは、どんな男に見える?」
「最悪……だってあんた、人殺しじゃん」
女はケラケラと笑った。
さて……わたしは、どうすべきだろうか。
あんまり主義に合わないが、この女を口封じのために殺すべきだろうか。
しかし……口封じとはいえ、『霊が見える』なんてイカレた女の証言を信じる人間は誰もいないだろうし、警察も動かないだろう。
のちのちどうなるかはわからないが……とりあえずわたしはその晩、女を生かしておくことにした。
ちなみに、わたしが一旦「殺そう」と思ってから考え直し、そのまま殺さなかった人間は数多い。
一旦考え直すと、それ以降はその人間に手を掛けたことはない。
ツキを落とさないために、自分で定めた一種のジンクスみたいなものだ。
そんなわけで、わたしが殺すことを思いとどまった人たちにとって、ある意味わたしは、救世主のような存在だといえる。
第二の産みの親であるともいえる。
彼らはわたしのおかげで、今日も健康な毎日を過ごしているのである。
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