第12話 終りの始り
「それはクトゥルー、その人でしょう。」
その場には居なかった筈の声がして皆は一
斉に振り向いた。綾野や岡本浩太には旧知の
女性(?)だった。
「我が主であるところのクトゥルーその人の
遺伝子を継承しているのというのですね、橘
教授は。」
拝藤女史であった。綾野や浩太はその正体
を知っているが新山教授や杉江統一などは未
だアーカム財団の一員とでも思っている筈だ
った。
「仰る通りです、拝藤さん。拝藤さんでよろ
しかったですね。」
クリストファーはあっさりと認めた。何か
の意図が背後に隠されているかのように。
「橘教授の身柄は渡していただけますでしょ
うね。」
「それは神父に伺ってみないことには。それ
より彼方は何故ここにいらっしゃったのです
か。」
「それは彼らを守るためです。もう直ぐここ
にあなた方の言う神父が現れると感じたから
です。」
「ナイ神父が?いいえ、私はそのようには聞
いていません。この場は私が取り仕切るよう
に言われていますから。」
「では事情が変わったのか、もともとそうい
うつもりであったものを彼方には伝えていな
かっただけでしょうね。」
クリストファーはナイ神父の普段の行動か
ら今の拝藤女史の言葉が的を射ているように
思えた。自分自身に自信が無かった。
「あなたは何を知っているのですか。」
「今言ったことがすべてですわ。あなた方の
言う師父がここにもうすぐ現れるだけです。
それが何を意味するのか、何の目的でここに
現れるのかは私の知るところではありませ
ん。」
綾野達の間に緊張感が走った。星の智慧派
で言うところのナイ神父とはナイアルラトホ
テップその人のことだと言われているからだ。
旧支配者の一員であり旧神たちとの戦いに
敗れた後も封印もされず自由に振舞っている
のはナイアルラトホテップただ一人である。
その力は旧支配者の中で最大のものと同等と
いわれるほどの存在がなぜ封印されなかった
のかは誰にも解けない謎として今日に至って
いる。旧神たちの意図は現在の人類には計り
知れないものだった。
「僕達もそんな話は聞いていませんからクリ
ストファーさん、彼方だけが知らされていな
かった訳では無く、何らかの事情が変わった
のか、それとももともと誰にも知らせずにこ
こに現れるつもりだったのでしょう。」
火野将兵にそう言われてもクリストファー
の気は晴れなかった。ナイ神父は側近である
自分にさえ隠し事が多すぎる。
そんな話をしている最中だった。そう広く
ない部屋の室温が急に下がったような感覚が
した。スクリーンを見るために暗幕を閉めて
ある薄暗い部屋が、それでも幾ばくかの明か
りが漏れていたのだが、全く漆黒の闇に閉ざ
されたようだった。その闇が一塊となって恩
田助教授の側に集束していった。それも人型
に。
ナイ神父、いやナイアルラトホテップが現
れたのだった。
「神父、なぜここに。」
思わずクリストファーが尋ねた。
「それは彼らに感謝の意を伝えるためなのだ
よ、クリストファー君。」
ナイ神父は全く意に介していない風であっ
た。もともとクリストファーなどの教団員を
手足のように使うときは全くもって捨て駒と
しか思っていないような態度が見えるのだが
クリストファー対しては多少ましではあった。
火野や風間に対しては遠慮しているかのよう
にも見えた。ところが今日は今ここに参集し
ている者の中で拝藤女史は別格として相手に
しているのは綾野だけのように見受けられた。
「感謝の意、ですか。」
半ばあきらめたような口調でクリストファ
ーが呟く。ナイ神父の側近である、という自
負はとうに失われていた。
「そうだ、感謝の意、という以外に適当な言
葉が思い当たらない。私はここに今いるお前
たちに本当に感謝しているのだ。」
ナイ神父の言っている意味が理解できてい
るものはその場にはいなかった。綾野祐介や
岡本浩太はクトゥルーやツァトゥグアの封印
が解かれない様に努力しただけで、それがナ
イ神父や星の智恵派に利しているとは到底思
えない。それともナイ神父は旧支配者たちの
封印が説かれないことを願っているとでも言
うのであろうか。
「ナイ神父、初めてお目にかかります。綾野
祐介といいます。ひとつだけ確認させていた
だけますか。あなたは、その。」
丁寧に聞くことが必要なのかそうでないの
か。よく判らないので多少丁寧に聞いてみよ
うとした。本当ならば人間に敵するすべはな
い。
「そういい難そうにしなくてもよい。聞こう
としていることは判っておる。我がナイアル
ラトホテップであるのかどうか、と言うので
あろう。」
周知の事実と認識しているかの様だが、本
人に直接確認した人間は綾野が初めてであろ
う。
「そっ、そうです。そのとおりなのです。あ
なたが本当にナイアルラトホテップ、その人
なのですか。」
思い切って綾野は聞いてみた。ここにいた
っては観念するしかない。拝藤女史がいる、
とはいえ女史がいざとなったら人間の味方に
なってくれる保証はなかった。クトゥルーの
封印を解くことが第一であり、ナイアルラト
ホテップに正面切って敵対する意思があると
も思えなかった。
「それについては、お前たちのいう意味では
そうであると言えるだろう。ただ、ナイアル
ラトホテップそのものだ、という訳でもない。
多少複雑ではあるが大部分のところは正解だ
といってもいいだろう。」
綾野たちは旧支配者の中でもほぼ最大の力
をもっている、這い寄る混沌、無貌の神とも
いわれるナイアルラトホテップ、その人と対
峙することになった。
「そんな話は今あまり意味があるとは思えん
がね。」
「確かにそうです。さっき私たちに感謝の意
を表しに来たと仰いましたね。あれはどうい
う意味なのですか。」
ナイ神父来訪の目的は先ほど本人の口から
そう伝えられた。
「他意はないのだよ、そのまま受け取ってく
れたまえ。君たちが今まで行った行為につい
て全面的に感謝の意を表したい、と言ってい
るのだ。」
部屋にいるナイ神父を除く全員が神父の意
図を理解していない状況だった。拝藤女史で
さえ同じだろう。
「私たちが行ってきたこと全て、といわれる
のは例えばクトゥルーの封印を解くダゴン秘
密教団の儀式を邪魔したり、ツァトゥグアの
封印が現代では解けないことを発見したりし
たこと全て、という意味でしょうか。」
「何度も同じことを言わすものではない、先
ほどからそう言っておろうが。」
「それらが全てあなたの意に沿うこうだ、と
いうのですね。理由を聞かせてはもらえませ
んかそれだけでは私たち凡人には何のことだ
かさっぱり。」
「感謝の意を表わしに来たからといって、何
から何までお前たちの言うことを聞く必要は
ないのだがな、よかろう、お前たちの今まで
の業績と今後の更なる成果に期待してもう少
し、語ってやろう。」
そこに居る全ての者がナイ神父の言葉に聞
き入っていた。話の展開が読めないからだっ
た。
「まず最初にお前たちが我に対していだいて
いるイメージは例えば這いよる混沌だとか、
無貌の神だとかいうものらしいが、我の本来
の姿はこの様な人間の姿ではないことは言う
までもないが、お前たちに認識しやすい言葉
にすれば不定形の精神生命体とでもいうよう
なものである。そしてその使命はただひとつ、
我が主、万物の王であるところのアザトース
の封印を解きその本来のあるべき宇宙、時空
といってもよいが、の形に戻すことだけなの
だ。」
それはよく知れ渡っていることだった。ナ
イアルラトホテップは万物の王である盲目に
して痴愚の神アザトースの使者として理解さ
れている。そのことと綾野達に感謝したい、
ということが繋がないから聞いているのだ。
「だから必然的に我が感謝したい、というこ
とは我が主であるアザトースの封印を解くこ
とにお前たちが深く寄与してくれている、と
いうことであろう、単純明解なことだ。」
「申し訳ありませんが、そこまで仰っていた
だいてもよく判らないのですが。」
「つまりだな、我が主アザトースの封印を解
くには旧支配者たちの封印が解かれる寸前で
失敗し、その旧支配者の無念が積み重なって
一定量を越えなければならない、ということ
だ。」
衝撃的だった。一同、誰からも声がなかっ
た。クトゥルーの封印を解かれないように阻
止する、それがそのままアザトースの封印を
解く手伝いになっている、というのか。それ
では封印が解かれないように奮闘していても
いずれ旧支配者たちの誰か、あるいはどれか
の封印が解かれてしまうのだ。最悪全ての旧
支配者の封印が解かれなかったとしても最後
には王であるアザトースの封印が解かれるこ
とになってしまう。人間は、今後綾野達は一
体どうすればいいのか。
「アザトースの封印はあとどれ位旧支配者の
復活を阻止すれば解かれるのですか。」
「そこまでお前たちに教える義務はないな。
まあ、これからも一心不乱に阻止し続けてく
れたまえ。」
それだけ言うとナイ神父はふっと消えてし
まった。
その場にはいつの間にか星の知恵派のクリ
ストファーや火野、風間の姿も消えていた。
拝藤女史の姿もない。残されたのは琵琶湖大
学の関係者とアーカム財団の二人だけだった。
「私たちが今までやってきたことは何だった
んだ。」
「でも綾野先生がなさったことは決して無駄
なことではなかったと思いますわ。」
「ありがとう、マリア。でもこれからどうす
ればいいのだろう。」
「先生、今までどおり出来る事をやらなくち
ゃ仕方ないんじゃありませんか。」
「そうだな、それしかないのだろうな。今の
ナイ神父の発言は決して他に漏らさないよう
に。マリア、財団にも報告するな。今後の活
動に支障を来たす可能性が大きい。私たちは
これほど大きな矛盾を抱えながらこれから生
きていかなければならないのか。」
その問いに答えられる者は一人も居ないの
だった。
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