第02話 「更正の余地はあったはずです」
『鍵音、生きててこの先、不幸だと思う事が幾度となくあるだろう。それは赤の他人よりも、母さんよりも。多いと思う――』
彼女の母親は、父親について頑なに何も語ろうとはしなかった。質問をすると、鍵音の母親は必ずこう答えた。
『あの人は特別だから』
何が特別だったのか? そもそも特別の定義とは何なのか?
――だったら、私も特別なのか? その時はまだ、そんな事を考えていられる余裕は無かった。髪は普通に伸びた。視力は普通に落ちた。学力は普通に、やればやった分だけ伸びた。隣の子と全く同じようには出来なかったが、時には追い抜き、時には追い抜かれた。当時から、そういう割り切れない事象にも足し算引き算が適用できることを、鍵音は感覚で知っていた。
だが――だからこそ、その時は嫌でもやって来てしまう。
『――お前の親父って、××××なんだろ?』
その一言がキッカケだった。鍵音の中で、何かの箍を留めているネジが、少し緩んだような気がした。
中学二年の三月の事だった。
『武田、あんた何を――』
鍵音とは違う小学校出身の武田という少年が放った、何気ない一言。
あまりの出来事に、最初鍵音は言葉が出なかった。
それから十秒ほど絶句して――彼女の目にうっすらと涙が浮かび、左頬に、二秒遅れて右頬に線を引いた。
『なん……何だよ。ちょっと気になっただけじゃんか!』
だけど、悟っていた。彼女が普段から【仲良く】していた彼女たちとの、ズレのような何か。
――だけど。それを口に出したら、言葉にしたら、終わってしまう。鍵音の中ではその一心で、敢えて避けて通っていただけだったのだ。そんな、平均台のような生活を、中学に入学してからこの数百日、奇跡のように繰り返していただけだったのだ。
『あんたはそうやって……楽しいの!?』
誰かがそうやってかばってくれたのを、鍵音は何となく覚えていた。
だが、程なくして。
『――えっ?』
その小さな騒ぎから一ヶ月も経たない、桜が咲いている頃。
退座鍵音の父は事故死した。
仕事の帰り道で、麻薬中毒者の運転する車に巻き込まれ、大破したトラックおよびその運転手と共に即死状態だったという。
そんな事もあり、高校は母の実家の県立高校を選択し、信頼してくれた皆の前から姿を消した。
「早くしなさい。もう出発しないと、今日中に向こうに着かなくなるわよ」
家を発つ日の朝。勉強道具と車内で退屈しないための本を詰めたリュックを背負った鍵音は、何も無くなった家を回っていた。
見慣れた木目調の廊下。真ん中に、柱と二階に続く階段。柱には傷があった。
『ハタチになったら、お父さんをおいこしてみせるの』
『そうかそうか、そうなったら、俺も鍵音を怒れなくなっちまうな』
左にはリビング。四人分の椅子も机も、部屋の角に置かれていたテレビも、花柄のカーペットも、全て持ち出されていた。
『おとうさん、今日もしごと?』
『セロリ、きらい』
『明日、部活で遅くなっちゃうから』
どれだけ背が伸びても、話す事が変わっても。彼女が十四年、ここで家族として過ごした記憶は、事実は揺らがない。
「――鍵音!」
もう、時間は無い。彼女は最後の思い出を噛みしめるように、最後の一歩を踏みしめた。銀色のシンクが新品のように磨かれたキッチン。今日の様に陽光が差したことが一度も無い書斎。臭気の消え失せた洋式トイレ。
二階に上がって、鍵音の個人部屋。勉強机も、すり切れるほどに読んだ少女漫画も、桃色のカーテンも、この場所には存在しない。
せめて二階に居る時間だけはもうちょっと増やしておけば良かった、と鍵音は自分の思いつきを恥じた。
しょうがない、これ以上憔悴した母を怒らせるわけにはいかない。
「いま行く!」
そう叫びながら、鍵音はふと――玄関先の郵便受けを目にした。
彼女の覚えている限りでは、父が亡くなってから、郵便受けにものが届いたことは無い。新聞は取るのをやめていたし、何か必要なものがあれば母親が直接玄関先で荷物を受け取っていた。――だがその中に、一枚の封筒が置いてあるのが見えたのだった。母は既に駐車場の車にモノを詰めていて、それには気付いていない。
彼女は、引き寄せられるようにそれを手に取った。切手が無い。住所も書かれていない。ただそこには一言だけ拙い字で『鍵音へ』とだけ記されていた。
瞬時に封筒の頭を破り取り、中から便せんを一枚取り出す。
同時に鍵音は、ほんの少しだけ期待していた。そこにはきっと山のような、家族の幸せを願った、最後の言葉が記されていると思っていたのだ。
だけどそこにあったのは、書き順を教わることなく体裁を取り繕っただけの、歪な記号のような五文字だった。
『寝 室 ノ 窓 下』
――これはきっと宝の地図なんだ。
夢中で鍵音は両親の眠っていた部屋に戻り、窓の辺りを探した。鍵音の洞察力か、それとも別の何かが引き寄せさせたのか、違和感はすぐに分かった。窓際の壁だけ、数十センチぶんだけ余剰空間が出来上がっていた。そしてその正体は、かつてベッドが置かれて塞がれていたはずの壁が、奥に押すことで外れるという仕掛けであった。
あったのは、二〇センチ四方程度の段ボール箱。気がつけば、ガムテープで全面がしっかりと閉じられていたそれを、鍵音は無我夢中で開いていた。
「これって――」
カメラだった。所謂インスタントカメラという手の平サイズではなく、レンズや落下防止用の提げヒモのついた、正式な意味合いでのカメラだった。
「ねぇ、お母さん。お父さんって、カメラは好きだったの?」
――車に揺られながら、鍵音は思い切って母へ聞く事にした。
何を拾ったかは、口に出さなかった。
「カメラ? さぁ……機械いじりは好きだったみたいだけど、カメラなんて見た事もないわね」
そんな父親が、こっそりと彼女にだけそれを託した理由は何だろう?
車は揺れ続け、窓の外はまだ見ぬ景色で塗りつぶされていく。
そして――。
「――退座さんって、部活動とか決めてるの?」
鍵音の目の前に広がっていたのは、新しい生活だった。
見慣れぬ土地。見慣れぬ同級生。それが希望に満ちるか絶望の底に至るものなのかは分からないが――。
「ねぇ、退座さん。わたし久坂のの香って言うの。せっかく隣の席になったのも何かの縁だし、ののか、って呼んで?」
鍵音は、高校生活が地縁に依らない事を知っていたから、殆どが他人同士の擦り合いになる事も分かっていた。だから知人はすぐに出来た。
新たな学校、新たな世界。新たな希望。鍵音は最初、そう思っていた。そう信じていた。
『お前の親父って、×××××××××なんだろ?』
――だけど、だけどだけど、何度もあの光景がちらついて。
「うん。のの香、よろしくね」
これまでの生活が綱渡りのような生活だったとするなら、今回は自らピアノ線に乗り換えようとしている。鍵音は自嘲しながらも、止めることは出来なかった。
それが何故か、という事を考える事は無かった。
「――そういえば」
ある日から、父が遺してくれたものを無碍にするのが嫌で、鍵音は時折外出し、風景を写真に収めようとした。
そしてそんな写真家生活が三週間目に突入したとある日曜日、午前五時半。
鍵音がいつものように近くの池を撮ろうとしたとき、偶然その周りを走っていた七十代ぐらいの老人が、写真に入り込んだ。
「えっ?」
その瞬間。カメラのフラッシュのような光が、彼女の眼前を強く遮った。
「(フラッシュのスイッチは切ってたはずなのに――!)」
すると不思議なこと、カメラの向こうの老人は糸の切れたマリオネットのように、その場に頽れてしまったのだった。
「しっかり――、しっかりしてください!」
老人は、呼吸こそしていたが、目は閉じられ、まるで眠っているかのようだった。だが体温は見る見るうちに下がり続け、彼女が呼んだ救急車が到着する頃には、その身体は死体と変わらぬほどに冷たくなってしまっていた。
『鍵音、生きててこの先、不幸だと思う事が幾度となくあるだろう。それは赤の他人よりも、母さんよりも。多いと思う――』
疑念はすぐに確信へと変わった。鍵音が震える手でシャッターを切った先に居たのは――かつて彼女に食ってかかった、武田という生徒だった。
『――だから、来るべきの日にこれを伝えておく。ここから先は意図を理解して貰わなくて構わない。もとより、五歳のお前には分からないだろうが、な』
一人、また一人。
彼女がシャッターを切る度、被写体は倒れていく。
『――――――――――――』
彼女は震える手で、父の言葉を理解し咀嚼していた。これは、パパが与えてくれた、チャンスだ、と。
『さて。お前の耳に入らない話は終わりだ。最後ぐらいは真面目に締めるとしよう。――どれだけ自分がどん底の人生に居ることが分かっいても、それを見返すのもまた、お前の人生なんだ。だから強い人間になれ。逆境に晒されても、お前に非がないなら、胸を張って追い返せ――』
――うん。パパ。私は、ワタシハアナタノ、タッタヒトリノ――
†
「退座鍵音の父――
両の手で割り箸を弄びながら、樋場莉玖は淡々と告げた。
「本当の名前はキルリ。やってきたのは十六年前。能力は、道具作成。所謂、全自動傍迷惑型ドラえもんと言ったところか」
「つまり、その娘も同じように能力者だったというワケですか」
やりきれないといった感じで、訳扇は問いかける。
「違う。彼女に異能やその他の適性が無いのは、産まれた瞬間に調べ尽くされているから私が保証しよう」
割り箸の先には、黄色のスライムのようなものが纏わり付いている。
訳扇が目を凝らすと、それは練り飴だった。
「じゃあ、メーヤが殺す必要は無かったじゃないですか……!」
先ほどの醜悪な光景を思い出し、言いながら彼は嘔吐きそうになる。
すると莉玖は一瞬の間をおいてから、静かに告げた。
「良いワケ有るか。その論法だと、『私は偶然にも麻薬を持っていましたけど別にあなたたちの前で吸ったわけじゃないので罪になりませんよね』と言って回るのと一緒だぞ」
「麻薬なんかと一緒にしないでください、彼女が純粋異能者でないなら、更正の余地はあったはずです!」
「じゃあお前は、彼女が目の前で快楽に溺れて人を殺すのを、身を挺して止められたってのか」
「快楽に溺れていただなんて、そんな決めつけは――」
そう言う訳扇の眼前に、彼女が持っていた練り飴が突きつけられる。
「論点をずらすな、訳扇。彼女は親の能力によって作られた
だから、メーヤの直感は正しかった、と莉玖は言った。
「それに、丁度良かった。退座暁を殺したのは私達だからな」
訳扇は、とうとう絶句した。
「いいか、この私がそんな危険な能力者を放って置くわけが無いだろう。分類するならもはやテロリストだ。だから我々の庇護下に入れと再三再四申し入れたが、アイツは断り、そして逃げた。だから、これ以上多くの関係無い人間が死ぬ前に、私が殺した」
訳扇は分かっていた。
――それはきっと、妻や子供という、大切なものを失う事を、恐れていたからなんだ。
だが、樋場莉玖はその推理にすら大きく嘆息してみせる。
「知り得ない部分にありもしない憐憫を向けると、時には損をするということを覚えておいた方が良いぞ、訳扇」
「どういう事ですか。父親は本当に不道徳者だったと仰りたいんですか?」
訳扇はそう言うと、机に置いてあった封筒から、何枚かの写真を撮りだした。
「何ですか、これ」
写真は四枚。写っていたのはそれぞれ段ボール箱、何事かが書き連ねられた便せんのような紙束の俯瞰、カメラ、そして赤ん坊がベッドで寝ている姿。
「背景は追々説明するとして――率直に、この写真をどう思う?」
便せんの文字は読めないが、赤ペンで記されており、少しだけ気味が悪いと訳扇は思う。段ボール箱は何の変哲も無く、写真左上から光が差しているだけの、ガムテープすら貼られていない筺。赤ん坊は可愛らしく、その表情に嘘はない。
「奇妙ですね」
遠く向こうの洗面台に映った訳扇の顔は、苦虫をかみ潰したような顔だった。
「その
「普通の人は、カメラをカメラで撮ったりしません。――それに、この四枚がなぜここにこうして揃っているのかを考えるに…」
樋場の提示するものだから、今回の事件に関する意図があることを訳扇は理解していた。だからこそ、この赤ん坊の写真で決定的に気がついてしまったのだった。
――ダメだ。それを安易に口にしたら、樋場さんの掌の上だ。
訳扇は別の言葉を探し求める。
「……いえ、その前に二つ聞かせてください。この写真って、誰が撮ったものなんですか? そして――赤ん坊の写真は他に何枚あったんですか?」
樋場はその声に――彼が嫌と言うほど見慣れた――口の端をつり上げて得心そうに頷く。
「まず、一つ目の質問に答えよう。それを撮ったのは写真の劣化具合から見て貰っても分かるが、私らではない。おそらくは、退座暁本人だろうな」
「そうです、か」
訳扇敬は、目の前に樋場が居なければ、おそらくは目の前の写真を破り捨てていただろう。
「そして退座鍵音の旧家にも現在の家にも、赤ん坊の写真は、驚くべき事に一枚も存在しなかった」
事態は、訳扇が思っていた以上に普通の人間の理解を超えていた。
「もう、いいです。あなたたちが、今回の件を正当化したいという心意気だけは理解させて頂きました」
その時、その場に居たにもかかわらず気配を消していた桐生芽衣――メーヤが、事務所のドアから出て行くのだけが、訳扇の視界の端に少しだけ写っていた。
†
『我が最愛の所有物にして、最大の成果。それは私の意志を継いでくれる存在だ。生まれ変わりと言っても差し支えないが、いかんせん性別が異なる。私の意思の介在も失敗に終わった。だから、これは別人という名の全自動復讐代行装置だ。――あの忌まわしき絶祖トーパーリークに肉迫するための、な』
退座暁はそう言って、最愛の娘に最期の微笑みを見せるのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます