第3話 最後の鷲王 05
みしり、と国を取り囲む「森」が蠢いた。
最初にそれに気付いたのは誰だっただろうか。城門に立つ衛兵であったか、それとも城下の町に住む市民の一人であったか。
ごく僅かの人間しか気付けないほどに、最初それはゆっくりと進行した。
風もないのに枝葉がざわめき、伸長していく。苔や羊歯が国と「森」を隔てる壁をよじ登り、根もまた壁の隙間を這っていく。王の騎竜は唸り声を上げた。
「どうした」
突然立ち止まった騎竜に、王は鞍から落ちそうになりながら尋ね、騎竜の睨む先を見る。そこで王は異変に気付いた。
「「森」が……」
壁を取り囲む「森」の木々はその枝先しか見えぬほどの高さであるはずだった。「森」を恐れた我等が王国は、できる限り「森」を遠ざけるためにそのように壁を築いたのだ。しかし今、全ての木々は千は齢を重ねていそうな巨樹へと成り果て、空の星々を覆い隠し、王を見下ろしていた。
王はそれに見覚えがあった。
「崩壊……国が「森」に呑まれる……」
かつての王たちの記憶は今になってアクィラ九世の中に蘇っていた。「森」が揺れ動き、突如時間を飛び越えたかのように伸長し、まるで意思を持つ生き物であるかのようにある物を追い求める。ある物とはかつて「森」を喰らった神。神より生まれ落ち、人の手によって持ち去られた「箱」。
「そっちへ行ったぞ!」
「捕まえろ!」
何者かを追う衛兵たちの足音と声に、王の意識は引き戻された。
空は既に白みはじめ、異変に気付いた民たちが次々と表の様子を窺いに出てきていた。
王は騒ぎの中心へと騎竜に乗ったまま駆け込んだ。
「なんだ、何が起きている!」
「王? 何故こちらに!」
「何事か報告せよ!」
「はっ! 神殿よりこの者が「箱」を盗み出したらしく……」
王の前に引き出されたのは見覚えのある少年だった。今生でも、過去の王たちの記憶でも見覚えのある顔だった。
「ケルウスの子孫よ、何故……」
「ごめんなさいごめんなさい……これがなければ、陛下はもう、苦しまなくてすむのかなって……」
少年は地に膝をつき、泣きながら弁明した。
「……その者の縄を解け」
「しかし、王!」
「いい。この国はもうおしまいだ」
兵たちは怪訝な顔をしたが構っている暇はない。アクィラ王は背筋をぴんと伸ばし、声を張り上げた。
「聞け! 民達よ!」
喧騒は一時静まった。その場に集まった民も兵も皆一様に騎竜に乗った幼き王を見上げていた。
「この国はこれより「森」に呑まれる! 逃げよ! 一人も見捨てることは許さん! これは王としての命令であり、「先見」としての託宣である!」
民たちの間にどよめきが走った。勘のいい者はすぐに国を覆い隠す勢いで伸長する「森」に気付き、悲鳴を上げてそれを周囲に示した。
王は再び声を張り上げた。
「兵たちよ! 民をまとめ、国を出よ! 老いた者も幼き者も富んだ者も貧しき者も、一人の犠牲も出すことは許さぬ! 急げ!」
常ならば考えられぬほどの王の気迫に圧されたのか、兵たちは慌てて走り去っていった。
残されたのは慌てふためく民達と、王と、少年だけ。
「逃げなさい」
王は努めて優しく聞こえるよう、その言葉を発した。少年は一度大きく肩を震わせた後、転がるようにして民達の中へと消えていった。
「……すまなかった、ケルウス」
その背が見えなくなるまで見送ると、アクィラ王は「箱」を抱え、ひとり神殿へ向かい騎竜を駆った。
アクィラ九世は考える。自分が何のために生まれてきたのかを。
究極的に言ってしまえば、アクィラ九世は今日この日に死ぬために生まれてきた。「箱」の中の彼らはその考え方を推奨した。
では何故少年を、ケルウスの子孫のあの少年を助けたのか。
考えてもきっと仕方のないことだろう。だけど、アクィラ九世は考えずにはいられなかった。
一人でも多くを逃がすように命じた自分は、王として立派に見えただろうか。盗人だろうと構わず救いの手を差し伸べた自分は、人として立派に見えただろうか。
混乱する民達に逃げ道を示しながら、王は考える。
私の中の彼の記憶はそれで満足だったのだろう。それで償えたつもりなのだろう。
ならば私はどうだ。私は誰にこの姿を見せたかったのか。
アクィラ王は神殿の奥の間に走りこむと、騎竜を離してやり、戸に閂を通した。
これでいい。これで「森」はこの「箱」を追うはずだ。この国で最も堅牢なこの場所ならば民達が逃げる時間は稼げるだろう。
アクィラ九世は大扉に背を預け、外の音に耳をすませた。
神官達や神殿の奴隷たちの悲鳴が遠く聞こえる。忙しない足音。騎竜の吠える音。兵達の脱出を促す声も。
それら全てが失せて暫く経った頃。王の小さな呼吸音だけが響いていた神殿が、みしみしと不穏な音を立て始めた。明かり取り用の小窓には既に見慣れぬ植物が這っている。町はもう「森」に覆い尽くされた頃だろうか。
これでよかったのだ。私は為すべきことを為した。それ以上に何があるというのだ。
静寂に浸された神域に、何者かが走りこんでくる音が聞こえたのはその時だった。足音は真っ直ぐに閉ざされた奥の間へと近づいてくる。
「王よ! そこにおられるのですか!」
声の主は戸を拳で何度も叩いた。王は立ち上がり叫んだ。
「な、何故来た、イグリ!」
「貴方を逃がすためです、王よ!」
「馬鹿者! 早く民と共に逃げろ! 私はそう命じたぞ!」
「いいえ私は聞いておりません!」
「ならば今命じる! さっさと逃げろ!」
「逃げるならば貴方も一緒にです! ここを開けてください!」
木々が神殿の外壁を押しつぶす音が響き始める。「森」がこの神殿を包み込んでいるのだ。アクィラ九世は視界が歪むのを感じていた。
「もういい、早く逃げろイグリ。もう決まっていることだ。「箱」に定められていることなのだ。私はここで死ななければならないのだ」
目から雫がこぼれる。声が引き攣り、王らしからぬ言葉が出てしまいそうになる。
「どうかここを開けてください。私は、貴方を、逃がしきってみせます」
イグリは戸を叩くのを止め、落ち着いた声色で王に語りかけた。
王は涙に濡れた顔を上げた。
「イグリ、私は……」
どう、と。言葉を遮るように扉の向こう側から轟音が響いた。落ち窪むような衝撃に王はつんのめって倒れた。
「イグリ……?」
王は戸を振り返る。巨石が割れ落ちている。半ばへし折れた戸を叩いてイグリの名を呼ぶ。――返事はない。
「ああ」
アクィラ九世は震える声を吐き出した。
「あああ……」
アクィラ九世は一人きり神域に取り残された。弱音を吐こうが泣き叫ぼうが、もう聞く者もいない。
「馬鹿者、馬鹿者め……」
だけど王は声を押し殺して泣いた。それが今のアクィラ九世に残された唯一の王らしい振る舞いであった。
*
アクィラ九世は壁の絵を睨みつけた。「箱」の竜、「森」の竜、「箱」を生んだ竜。神々を描いた絵。
「認識よ、つながれ」
箱は今、祭壇の上へと戻されていた。即ち、神々の絵の目の前へと。
「誤認せよ、神の正体を」
私はもうこの神域から出ることはないだろう。死してもなお、この神域に囚われ続けるのだろう。いつの日かこの神殿が「森」の内より掘り起こされ、次の「箱」の持ち主が生まれるまで。
「呪いあれ」
私は何のために生まれてきた。私は何のために生きたのだ。こんなちっぽけな「箱」のために、顔も知らない未来の誰かのために、私は。
王は、神の絵に爪を立てる。
「誰も彼も呪われてしまえ」
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