Act.2-01

 この日は何事もなく無事に一日が終わった。

 いつものように更衣室に入り、職場用のスーツから通勤着に着替える。


 更衣室の中は、女達の黄色い声が飛び交っていた。

 涼香も話しかけられれば適当に合わせるものの、彼女達と一緒になって上司の悪口は言いたくなかったから、雲行きが怪しくなると、曖昧に笑って取り繕った。


 そこへ、彼女達が忌み嫌う〈お局様〉が入って来た。

 とたんに、煩かった室内が一気に静まり返るものだから、どうしてこうも態度があからさまなのだろうと心底呆れた。


 お局様――夕純は、彼女達のことなど眼中にない。

 陰口を言われていたことは察しただろうに、そんなことは全く気にする様子もなく、自分のロッカーの前までスタスタと進み、黙々と着替える。


 その間、煩かった彼女達はそそくさと着替え、蜘蛛の子を散らすようにゾロゾロと出て行った。


 更衣室の中には、涼香と夕純だけが残された。

 初めて夕純と飲みに行った日と全く同じ状況だ。


 ただ、あの頃と違い、今は夕純とふたりきりになったことに安心感を覚えている。

 煩い連中がいては、夕純とゆっくり話が出来ない。

 それに、うっかり彼女達の前で男の話をしようものなら、興味本位で喰らい付いてくる。

 考えただけで鬱陶しいし、イライラも増す。


「私のウチに来る?」


 着替え終わった夕純が、涼香の前に立っていた。


 涼香はロッカーの鍵を閉め、バッグを肩にかけた。


「夕純さんのウチに、ですか?」


「そ」


「別に外でも構いませんけど……」


「どうして? 私のトコに来るのは嫌なの?」


「いえ、そうじゃなくて、迷惑じゃないですか? ご家族とか……」


「同居人なんていないわよ」


 夕純はケラケラと笑った。


「私は就職してからずっと、アパートで一人暮らししてるもの。今もこの通りのひとり身だし、全然気にすることなんてないわよ」


「はあ……」


 この様子だと、何としても涼香を夕純のアパートに連れて行きたいらしい。


 結局、涼香は夕純の提案通り、アパートにお邪魔することにした。

 そう告げると、夕純は満面の笑みを浮かべた。


「それじゃ、行きましょ。ついでにちょっと、途中でお酒でも買っちゃう?」


 〈お酒〉というキーワードに、涼香はつい反応してしまう。

 夕純も分かっているだろうし、夕純自身、飲みたいと思っているのだろう。


「適当に」


 涼香は短く答えた。


 夕純はやはり、相変わらずニコニコしていた。


 ◆◇◆◇


 夕純の住まいは会社から徒歩十五分ほどの場所にあった。

 涼香のアパートもほぼ同じ距離だが、方向が全く違う。

 だから、夕純と一緒に帰ることは一度もなかった。


「ちょっと散らかってるけど、勘弁してね」


 そう前置きしてから、涼香を招き入れてくれる。

 夕純が先に立ち、キッチンを経由してリビングに入ると、電気が灯される。

 暗闇に包まれていた室内が、いっぺんに明るくなった。


 改めて、部屋の中をグルリと見回す。

 一人暮らしにしては広い。

 というより、2LDKと言っていたから、むしろひとりよりもふたりで暮らすのにちょうどいい。


「無駄に広いでしょ?」


 涼香の心中を察したのか、夕純は肩を竦めて苦笑いする。


 涼香は、「そんなことはないです」と内心慌てて取り繕ったものの、心の中を覗かれて気まずい気分だった。


 だが、そんな涼香に対し、夕純は気分を害した様子はない。

 むしろ、楽しそうにケラケラと笑っている。


「別に気を遣わなくていいのよ。だって、当の本人が無駄だって思ってるんだから」


「誰かと住む予定とかあるんですか?」


 つい、よけいなことを訊いてしまった。

 しまった、と思ったが、夕純はやはり、「ないない!」と、笑いながら両手と首を同時に振った。


「ちょうどいい物件がここしかなかったってだけよ。ま、誰かが一緒に住んでくれたらいいんだけどねえ。例えば涼香とか?」


「――いや、私は他人と住むのは苦手ですから……」


 また、馬鹿正直に答えてしまう涼香。

 何故、夕純が相手だとこうもボロが出てしまうのか。


 そして、墓穴を掘り続ける涼香が「夕純には楽しくて仕方ないらしい。

 「涼香ってば面白い子ねえ!」なんて言いながら、今度は腹を抱えて笑い出した。


「だから好きなのよ。私にも全然遠慮なしなんだもの」


「――すいません……」


「謝らなくっていいってば」


「はあ……」


「って、立ち話も何だったわね。ほら座って! 私は料理がらかっきしだから、なーんもおもてなしは出来ないけど、お酒とつまめるものはたくさん買ったんだから、これで存分に飲みましょ?」


 そう言って、夕純は自分より背の高い涼香の後ろに回り、肩を掴んでその場に座らせる。

 それから、夕純も涼香の左斜めに移動して腰を下ろした。


「まずは飲んでリラックスよ、リラックス」


 夕純はビニール袋からビール缶を一本取り出し、それを涼香に渡してきた。


 涼香は無言で会釈して受け取り、プルタブを上げた。


 夕純も涼香に続いて自分用にビールを取り、同じように開ける。


「それじゃ、かんぱーい!」


 ふたりきりの空間に、夕純の高い声が無駄に響き渡る。

 涼香は曖昧に微笑を浮かべながら、夕純の缶に自分の持っているそれをぶつけた。


「ああ、染みるわあ……」


 ビール缶から唇を離した夕純が、至福の表情を見せる。

 よほど喉が渇いていたんだな、などと思いながら、涼香はちびちびとビールを飲み続けた。

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