第七話 素直になりたい
Act.1
朋也との出逢いは、自分にとって幸せなものだったのか。
不意に涼香は考える。
恋をすれば女は変わるとよく耳にする。
実際、紫織も朋也の兄と結ばれてからは一段と輝いて見えるようになった。
それに引き換え、涼香はどうだろう。
片想いだから、と言ってしまえばそれまでだが、綺麗になるどころか、日に日に疲れが増している。
食べる量も以前よりも減っているし――それでも、一般女性よりよく食べるが――、心なしかやつれているように思える。
溜め息の回数も多くなった。
最初は全く自覚していなかったのだが、ついこの間、同僚に、「大丈夫? やたらと溜め息吐いてるけど?」と指摘されたことでようやく気付いた。
もちろん、何でもないと適当に言い繕ったが。
「山辺」
朋也のことを考えつつもパソコンの画面と真剣に睨めっこしていたら、後ろから自分の名前を呼ばれた。
首だけ動かして振り返ると、不機嫌な表情をした男性主任が涼香を見下ろしていた。
「何かご用ですか?」
仕事をさぼっていたわけではないが、何となく気まずくて、少々警戒しつつ訊ねる。
男性主任は相変わらずムスッとしたまま、無言で紙の束を涼香に差し出してきた。
「悪いが、こいつをコピーしてもらえないか?」
「今すぐですか?」
「ああ、そうだ」
「分かりました」
この男性は、部署内でも〈鬼主任〉と恐れられているほどの人物だ。
いくら涼香であっても断れるわけがない。
たとえ、今やっている仕事を後回しにしても、だ。
(ヤなことはとっとと済ませるに限る!)
そう自分に言い聞かせ、紙の束を受け取る。
ズッシリとした重みが、憂鬱な気分に拍車をかける。
「悪いな。よろしく頼む」
そう言い残し、男性主任は自分のデスクへと戻ってゆく。
きっと、主任は主任で抱えているものが多過ぎるのだろう。
そう考えたら、ほんの少しだけ男性主任に同情を覚えた。
(けど、ああゆうタイプって女から煙たがられるんだろうな……)
紙の束を抱えてコピー室まで向かう途中、男性主任を一瞥する。
男性主任は、涼香の視線に全く気付いていない。
よほど集中しているのか、さらに眉間に皺が寄り、怖さが増している。
改めて、朋也とは正反対のタイプだな、とつくづく思った。
(悪い人じゃないんだけどね)
涼香は男性主任から視線を外し、コピー室へと入った。
狭い室内でコピー機をフル稼働させていると、機械音が煩くて外の音が全く聴こえてこない。
閉鎖的な空間だ。
ぼんやりとコピーをしていると、また、朋也のことが頭を過ぎる。
感情的になってしまった自分。
それに対し、朋也はきっと戸惑ったに違いない。
本音を言えば逢いたいし、せめて、電話越しにでも声を聴きたいとは思うものの、急に逃げ出してしまった手前、なかなか勇気が出せない。
本当に、どうしてここまで臆病になってしまったのだろうか。
「しっかりしないと!」
誰もいないと思い、自分に喝を入れるつもりで声を上げた時だった。
ガチャリ、とコピー室のドアが開く音が聴こえてきた。
涼香は冷静さを失い、慌ててドアの方を振り返る。
「涼香」
呼び捨てで下の名前を呼んできたのは、夕純だった。
プライベートでは下の名前で呼ぶことを了承したものの、まさか、職場内で呼ばれるとは思わなかったから面食らってしまった。
「あなた、大丈夫……?」
珍しく、恐る恐る訊ねてくる。
涼香は目をパチクリさせ、それから、「大丈夫ですよ」と笑顔を取り繕った。
「あ、唐沢さん、コピー機使います? もうちょっとで終わると思うんですけど」
「いいのいいいの、私は使わないし。それより、ほんとに大丈夫なの?」
「――どうしてです?」
「さっきからずっとぼんやりしてたでしょ? それに、高遠君もちょっと気にしてたわよ」
「タカトオ君……?」
一瞬、誰のことだろうと思ったが、主任の苗字が〈高遠〉だというのを今さらながら想い出した。
いや、それよりも、どうして主任が涼香を気にするのかが気になる。
「――主任、なんか言ってました……?」
おずおずと訊ねてみると、夕純は、「そうじゃないけど」と言葉を紡いだ。
「あの人、表立って優しさを見せないのよ。昔っからそう。だからいつも損しちゃう。根はすっごくいい人なんだけどねえ」
「――いい人がこんなに人をこき使うんですか……?」
つい、憎まれ口を叩いてしまった。
言ってしまってから、しまった、と思ったが、夕純はむしろ愉快そうにケラケラ笑った。
「そこなのよ。気になってしょうがないけど、どうやって声をかけたらいいか分かんないから、わざとそうやって仕事を頼むの。ほんとは彼、そんなことは自分で全部やるつもりだったのよ。ほんとに、もうちょっと素直になれば可愛げがあるのに……。ま、私も人のことは言えないけどね」
そこまで言うと、夕純は微苦笑を浮かべながら肩を竦めた。
「ちょっとめんどくさいかもだけど、嫌わないでやってちょうだいな。何度も言うけど、あれでもいい人なのよ?」
夕純と主任は同期だと聞いたことがあるが、それにしても、ずいぶんと主任を擁護する。
もしかしたら、主任に対して特別な感情でも抱いているのだろうか、などと思ったが、改めて訊くことも出来ない。
「で、ほんとに大丈夫?」
夕純がまた、涼香に訊ねてくる。
『大丈夫』と言ったのに、全く信用されていない。
いや、本当は大丈夫と言いきれないのだが。
もしかしたら、夕純は全てお見通しなのかもしれない。
(この際、ちょっとでも話を聞いてもらおう、かな……?)
涼香は少しばかり考え、「あの」と意を決して切り出した。
「私、とてもヤな女だと思われたかもしれません……」
夕純は首を傾げながら、真っ直ぐに涼香に視線を注ぐ。
「誰に?」
「えっと……」
いざとなったら、やはり口籠ってしまう。
とはいえ、口火を切ってしまった以上、今さら言ったことを取り消せるはずがない。
「なんてゆうか、その……、男友達に、です……」
涼香の言葉に、夕純が目を見開いた。
「涼香、男の子の友達なんていたの?」
「ええ、まあ……」
「ふうん……」
夕純は顎の辺りに手を添え、さらに穴が開くほど涼香を見つめる。
涼香の深層心理を探ろうとしているのが、ありありと伝わってくる。
気まずい沈黙が流れる。
やはり、言うべきではなかっただろうか。
しかも今、夕純とふたりきりとはいえ、ここは職場だ。
そもそも、プライベートな問題を持ち込む場所ではない。
「――すいません……」
耐えられなくなり、とうとう涼香から謝罪してしまった。
「別に謝ることなんてないけど」
夕純は微苦笑を浮かべ、続けた。
「なんにしても、ここでゆっくり話せることじゃないわね。良かったら、仕事が終わってからでも相談に乗るわよ?」
「え、でも……」
「いいから」
涼香が言いかけた言葉を、やんわりと、けれども強い口調で夕純はシャットアウトした。
「やっぱ心配だもの。高遠君じゃ話しづらいけど、私ならいいんじゃない? 同じ女なんだから、ね?」
「はあ……」
半ば、強引に決められてしまった。
だが、夕純がきっかけを作ってくれたことにホッとしたのも本音だった。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
「甘えてちょうだい」
夕純は嬉しそうに、ニッコリと頷いた。
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