Act.2-02
「――俺、傷付けちまったかもしれねえ……」
酔った勢いだとばかりに、朋也は重くなっていた口を開いた。
宏樹はコップの中のビールを空にし、まさに冷や酒に手を伸ばそうとしていたところだった。
「傷付けた?」
宏樹は怪訝そうに首を傾げていたが、すぐに、「もしかして」と言葉を紡いだ。
「傷付けたかもしれない相手って、紫織の友達か?」
「――うん……」
察しが良い、というより、先日の電話で朋也は『紫織の友達絡み』だと言っていたのだ。いちいち驚きはしない。
むしろ、宏樹から切り出してくれたことに心のどこかで安堵している。
「どう傷付けたかもしれないんだ?」
そう訊ねてくる宏樹からは、好奇心は微塵も感じられない。
本当に、悩みを抱えた弟を気遣う兄そのものだ。
いや、たとえ好奇心丸出しだったとしても、朋也は宏樹を頼りたい気持ちが強かった。
十歳離れた人生経験豊富な兄貴が、人間としてまだまだ未熟な自分をどう諭してくれるだろうか、と。
「俺、女の気持ちってよく分かんねえし……」
「まあ、お前は男だからなあ。俺も男だし、女性の気持ちはそんなに分からんよ」
「けど、俺よりは分かってんじゃねえの、兄貴の方が?」
「どうだかねえ」
宏樹はフンと鼻を鳴らした。
朋也を馬鹿にしている、というより、自らを嘲っているように映った。
「俺こそ、『女心を全然分かってない!』って散々叱られたぞ? まあ、分かろうともしなかったってのがほんとのトコなんだけどな。色々すったもんだあって、気付いたら大切なものを失って……。けど、俺の中にぽっかり空いた穴を埋めてくれる存在がすぐ側にいたことにも気付けた」
「それって紫織のこと?」
「まあな」
素っ気なく答え、宏樹は今度こそ冷や酒に手を伸ばして口に含む。明らかに照れ隠しだ。
「ああ、俺の話はどうでもいい。さっきも言っただろ? 今日はお前の相談がメインだ」
宏樹が真っ直ぐな視線を朋也に注いでくる。
アルコールが入っていい感じになっているとはいえ、やはり、あんまりジッと見つめられるのも正直なところ困る。
「――急に、『帰る』って走り出してしまった……」
「ん? 話が全然見えねえけど……?」
朋也は意を決して、涼香と飲みに出かけた時のことを話した。
宏樹は時おり酒をちびちび飲んでは、小さく頷く仕草を見せる。
「つまりあれか、朋也に積極的にアピールしてきた同僚のことを話したら、紫織の友達の態度が急変した、と?」
「まあ、そうなるの、かな……?」
一気に話して、急激に喉の渇きを覚えた。
朋也はコップのビールを飲みきり、瓶に残っていたそれも全部コップに注いで一気に呷ってしまった。
宏樹がすかさず、従業員を掴まえてビールの追加を頼む。
「しっかしまあ、お前も罪な男だねえ」
それまで真剣に朋也の話に耳を傾けていた宏樹が、茶化すような言い回しをしてきた。
酔っ払っていても、朋也はそれを聞き流さなかった。眉をひそめながら宏樹を睨む。
「どういう意味だよ、それ?」
「お前、本気で気付いてないの?」
「は? 気付くとか気付かないとか意味分かんねえし?」
「やれやれ……」
溜め息を吐きながら首を何度も横に振っている。
「確かに、紫織が聴いたら朋也に掴みかからん勢いで怒ってたな」
「――それは、何となくそんな気がしてた……」
「そこまで分かってて紫織の友達の気持ちは分からんのか、我が弟は?」
「ふざけんなよ」
「ふざけてないぞ? 俺は率直に思ったことを言ったまでだ」
宏樹が胸の前で両腕を組み、踏ん反り返ったところへ追加のビールが運ばれてきた。
「とにかく飲め飲め」
半ば強引に押し進められる形でビールを注がれる。
それに朋也が口を付けたところで、宏樹はおもむろに続けた。
「さっきも言ったけど、俺は男だし女性の気持ちの全ては分からんから想像で言うけどな。――彼女、恐らくお前から他の女性の話なんて聴きたくなかったんじゃないか?」
「どうして?」
「どうして、って……。それぐらい察しろ」
「俺は鈍感なんだ。それぐらい知ってんだろ?」
「そうやって開き直るのがお前の悪いトコだ」
宏樹は片肘を着き、もう片方の人差し指でテーブルを叩いた。
「お前の気持ちは分かってる。だから、俺に口出しする権利がないってのも理解してる。けどな、今日だけはあえて言うぞ? お前、自分が好きな女性に他の男の話をされて気分がいいか?」
「そんなの、兄貴に言われるまでもねえよ……」
「だろ? だったら紫織に相談される立場を朋也に置き換えて、朋也に相談する立場を紫織に置き換えてみろ。それなら分かりやすくないか?」
宏樹が出した例に、朋也は黙り込むしかなかった。
鈍いから、などと宏樹に言い放ってしまったが、本当は気付かないふりをしていたのかもしれない。涼香の、自分に対する想いに。
だが、涼香の気持ちを理解しても、それに応えることは出来ない。
たとえ、誓子に積極的なアピールをされていなかったとしても、応じられないという気持ちに変化はなかっただろう。
「俺、どうしたらいい……?」
戸惑うことしか出来ない朋也は、兄に縋るしかなかった。
こういう時ばかり頼るのは都合が良過ぎると自覚はしていても、自ら答えを導き出すことも出来ない。
宏樹は相変わらず片肘を着いた姿勢のまま、冷や酒をゆっくりと喉に流し込む。
コップの中を空にし、静かにテーブルにそれを戻してから、再び朋也に視線を向けた。
「何もする必要はないだろ」
あっさりと返され、肩透かしを食らった。
「何もする必要はねえ、って……。無責任じゃねえか、それって……」
口を尖らせて睨むと、宏樹はわざとらしく肩を竦めて見せた。
「無責任も何もないだろ? じゃあ、逆に訊くけどな。朋也は自分に直接告白もしてない相手に、『君の気持ちには応えられないから』って言えるか?」
「それは……、言えねえよ……。勘違いだったら恥ずかしいし……」
「だろ? だったら朋也からアクションを起こす必要はなし。もし、彼女が何らかのアクションを起こしてきたんだったら、その時はちゃんと向き合ってやればいい」
「断ればいいのか?」
「お前の選択肢には〈断る〉しかないのか?」
「別に、それは……」
「じゃあ、存分に悩んどけ。ああ、真っ向アピールしてきた子もいたんだっけ? その子のことも含めて真剣に考えるんだな」
「めんどくせえ……」
「楽な恋愛なんてあるわけないだろうが。全てが丸く収まってしまえば誰も苦労しない。――てか、朋也だって辛い経験はしてるだろ……」
最後は消え入るような声だった。
はっきりとは聴こえなかったものの、口の動きから、「俺のせいで」と言ったのは察することが出来た。
「だよな」
朋也は短く答えるだけに留めた。
よけいな詮索をされることを宏樹は好まない。
だったら、鈍い弟のままでいた方が兄のためにもなる。
相談に乗ってもらえたことに対しての感謝でもあった。
「なあ兄貴、俺、まだ食い足りないんだけど?」
「お、そっか。だったら思いきって丼ものでも頼むか? ここは親子丼も美味いぞ」
「それいいわ! ちょうどガッツリメシ食いたいって思ってたんだよ!」
「若いな」
「兄貴は食わねえの?」
「俺はいいわ。年寄りはそんなに食えねえし」
「また言うか……」
呆れて溜め息を吐いたものの、すぐに気分を変え、大声で従業員を呼んだ。
意気揚々と親子丼とウーロンハイを注文する朋也の姿を、宏樹はニヤニヤしながら眺めていた。
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