第8話 忠実なる侍女と、背の高い騎士

 目が醒めたレティーツィアは、そっと空いている部分のシーツに触れた。絹のシーツが伝えてくる手触りはやわらかく艶やかだったが、同時に残酷なまでの冷たさも伝えてきた。

 そうして、レティーツィアの身体の下にある部分とは違い、体温で温まっていないそこが教えてくれたのは、彼女が一人寝をしていたというわびしい事実だった。


(ディートハルトさま、結局お戻りにはならなかったのね……)


 切ない溜息を呑み込み、レティーツィアはひとり寝台から降りた。暖炉の火が落ちた部屋は、酷く寒い。ぶるりと身震いしたレティーツィアは、慌ててサイドテーブルに置いてあったショールを手繰り寄せて肩にかけるが、しんと冷えきったショールは、むしろ肌を冷やすだけだった。

 温かいものがほしいと、一瞬ショールの横に置いてあった呼び鈴ベルに手を出しかけるが──なぜだか躊躇してしまう。

 アマリアたちを呼ぶことなく、レティーツィアはそっとベランダへ足を運んだ。扉を開けると途端に吹き込んでくる冷気に、慌てて掻き集めたショールに顔を埋める。

 エネストローサの朝よりも格段に寒い空気に、そこが故国ではないことを思い知ったレティーツィアは、そっと瞼を伏せた。濃い金に覆われた緑柱石の瞳には、なんの感情も浮かんでいない。あまりの寒さに、心まで凍ってしまったようだった。


 白く凍る息を吐きながら、レティーツィアはひとりアウデンリートの風景を眺めた。彼女がいた部屋から見える風景は、緑の濃い森だった。まるで自国にいるような錯覚を起こし、レティーツィアは思わず自分の指を確かめる。白く細い薬指に嵌る金の指輪に、ほっと息をついて指を這わせた。ディートハルトと結婚したのは夢ではなかったらしい。

 それにしても、とレティーツィアは思う。それにしても、目の前の風景は、まるでエネストローサの自室から見える風景そのものではないか。白いアルメンドラの花はないけれど、深い森が広がり、遠くには湖らしき影が、朝日を反射して煌いている。

 なのに、なぜこんなにもさみしいのか。外気よりもさらに身を切るような冷たさを感じ、彼女は自分で自分の身体を抱きしめた。名前が変わる前とさして変わりはないはずなのに、身を切るような寂寥感は間違いなく彼女を苛んでいた。


          ◆


 レティーツィアの忠実なる侍女であるアマリアが、彼女の主の異変に気付いたのは、寝台で温まっていたはずの主の身体が心から冷え切るほど後のことだった。

 冷え切った身体を温めるため、今レティーツィアはロサに連れられて湯を浴びに行っている。部屋に残ったアマリアは、自分の至らなさに腹を立てつつも、彼女の女主人の朝の準備をしていた。


 想い人と結ばれた初めての夜を邪魔してはいけないと、本来なら耳をそばだてて寝ずに寝室の状況を確認すべきところを、後輩のロサと遠慮してしまったのがいけなかったと、アマリアは思う。

 レティーツィアの寝台のシーツは、純白なままだった。しわのほとんどないシーツそこには婚姻の印はなく、彼女の主がその夫と枕を交わさず、さみしくひとり寝をしたことを示していた。理由はわからないが、王は若き王妃に手を出さず、早々にどこか行ってしまったらしい。


(姫様を悲しませるなんて、王には一体どんな理由があったのか)


 アマリアの怒りは、ディートハルトにも向けられていた。レティーツィアのディートハルトへの想いを誰よりも知っているからこそ、初夜に敬愛する姫君をないがしろにした若き王を赦せそうにもない。王の不在を問うアマリアに、レティーツィアは仕事が忙しいようだと答えていたが、それは主の推測に過ぎないと判断したアマリアは、事実を知るためにあとで行動を起こそうと、ひっそり決意していた。


 ロサと共にレティーツィアが帰ってくると、あたたかな飲み物や朝食をとらせるなどの世話を焼いていたアマリアだったが、身体の温まったレティーツィアが少し休むと再び寝室に戻ってしまうと、今のうちに行動を起こそうと思い立った。

 ロサに後を頼み、アマリアはひとり部屋の外へ出る。


「侍女どの、どこへ行かれますか?」


 部屋を出たアマリアに声をかけたのは、護衛としてレティーツィアの私室前に詰めていた背の高い騎士だった。伯爵家の出であり、近衛騎士でもある彼は、なんでも王直々の命令で王妃の護衛役に就任したと、最初に挨拶したときに言っていた。


「ああ……ブッシュス……その、騎士様」


 なんだかややこしい名前の騎士だったと、自分よりはるかに背の高い騎士を見上げながらアマリアは思い返していた。そんな彼女の思考を見抜いたのか、はたまた言いかけて噛んだ名前が気になったのか、アマリアと同じ亜麻色の髪をした背の高い騎士は、小さな彼女を見下ろしながら、にこやかにその名を名乗った。


「ブシュシュルテです、侍女どの。フランツィスクス・カシミール・カプリコルヌス・ブシュシュルテ」


 自己紹介はすでになされていたものの、何度聞いても、語学を不得意とするアマリアには、非常にややこしい名前のこの騎士の名前が覚えられそうにない。


「ブッシュシュ……騎士様、ご丁寧にありがとうございます」


 一応名前で呼ぼうと努力したアマリアだったが、その努力は早々に放棄することになった。あまりにもややこしすぎるその名前は、たとえ覚えたとしても、発音できる日が来るとは思えなかった。せめて家名だけでもと思ったが、その家名からして難しい。

 一方フランツィスクスは、そんなアマリアの様子がおかしかったらしく、ぶはっと吹き出すようにして笑いだした。肩を震わせて笑うフランツィスクスを、アマリアが睨む。


「なんですか」

「いえ、可愛らしいな、と」


 楽しそうに青い目を細めてアマリアを見るフランツィスクスだったが、アマリアには馬鹿にされているとしか思えなかった。


「失礼。私、急いでいますので」

「城内は入り組んでいますが、案内は必要ですか?」

「いりません。大丈夫です。では、騎士様」


 ツンと顎を上げてフランツィスクスに挨拶すると、アマリアはことさらに背筋を伸ばしてこの背の高い騎士の横を通り抜けた。

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