純潔を喪い、死を望む
「今、思うとね」
徐々に強くなる雪の中、香澄は凍えを一切感じさせない、はっきりとした口調で語った。
「あの事故の前……おいちゃんは、わたしを連れて死にに行こうとしていたのかもしれないって」
何もかも、終わりにしようとしていたのかもしれないって。
白い息が漏れ、風に吹かれて消える。容赦なく降り続ける雪の中、ずっと握っていた手は徐々に熱を持ち、ぽかぽかと人間らしい暖かさを伴って、亮太の寒さをそっと柔らかくほぐしてくれた。
「我が儘だったかしら、わたし」
なんと、声を掛けていいかは分からない。ただ、この場で何を言っても、彼女への慰めには――いや、そんな言葉自体も本当は不要なのだろうけれど――ふさわしくない気がした。
代わりに、つないだ手を握る力を強める。少し驚いた顔の後、ふにゃりと彼女は気の抜けた笑みを浮かべた。
「ねぇ。わたしね、本当はずぅっと辛かったの」
口調が、先ほどより甘えたものになった。
「この一年間……望みもしないセックスで、何度も身体を汚して。目にしたくもなかった、血なまぐさい光景だってたくさん見てきた」
まるで亮太を無視して、その面影に浮かぶ『彼』を相手に話しているかのようでもある。
「でもね、どれだけ辛くても耐えたのよ、わたし。痛みも、苦しみも、なぁんにも感じちゃいなかったわ。だって全部――全部、
それなら、それでいいと亮太は思った。できうる限り、香澄の想い出の中の『彼』でいようと。
だって彼女は、これまで十分すぎるくらい苦しんできた。
きっとあの事故があってから、誰でもない『彼』のために、身を粉にして、心を無にして、これまでずっと生きてきたはずだ。
だったらもう、楽にしてあげてもいいではないか。
香澄はまだ若いのだ。せめてこれからは、たとえ少しの間でも……彼女自身の人生を、彼女自身のために、生きてくれたら。
たとえ『おいちゃん』の代わりであっても、僅かにでもその手伝いができるのであれば、それだけで本望だ。
そう、思っていたのだけれど。
「……でも、もう全部終わっちゃった」
少し、声のトーンが落ちた。一気に望みを失ったような、暗い雰囲気に呑まれそうになる。思わず隣を見ると、雪の中に浮かぶ彼女の顔は、どこか遠くを見ているかのように呆然としていた。
「これまでわたし、何のために生きてきたんだろう」
いずれ訪れるであろう報復の瞬間のためだけに、必死に勉強して大学へ行って。復讐相手とのつながりを少しでも得るだけのために、教員免許を取って。やっとの思いで、数年ぶりに富広の町へ帰ってきて。
それ以外の目的なんて、何もなかった。
五年前のあの日に――持っていたかもしれない夢なんて、続いていたかもしれない未来なんて、全部捨てた。
自分の将来に『彼』がいないのであれば、全て。これまでの人生には、きっと何の意味もなかった。
そうやってどこまでも続く落胆の言葉で、亮太は悟ってしまう。
彼女が、これからどうしようとしているのかを。
「……最後に、お願いがあるの」
うつむいていた彼女が、そっと顔を上げる。型で切り揃えられた明るい色の髪に、周りに溶けそうなほど白い肌に、そして漆黒のコートに、横殴りの雪が吹きすさぶ。
今目の前にいるのは、華奢な一人の『女』でさえもない。高校生の時点で自身の未来を止めてしまった、ただのか弱い『少女』だ。
それでも彼女は、確かに美しかった。
強くなる吹雪の中、彼女はか細い声で、『願い』を口にした。まったくもって予想通りだった、彼女の『唯一の希望』を。
最後まで艶やかでいようとする香澄に、亮太は笑いかけた。彼女が知る生前の『彼』を思い出させる、柔らかく優しい笑み。声まで似ているかどうかは分からないが、亮太は『彼』として香澄に了承の言葉を告げる。
「分かったよ、香澄」
――ザッ、ザッ、ザッ、
遠くから、雪を掻き分ける音がする。
そんなものは気に留めないとでも言うように、しっかりと手を握り合った二人は、どんどん白く染まってゆく道へと足を踏み出した。
ほどなく見えてくるのは、断崖絶壁。
遥か下で、荒れた波があちこち、大きな岩へと勢いよく打ち付ける。ばしゃん、と無遠慮な大きな音。遠く離れたこちらにまで、波しぶきが飛びかかってきそうなほどの勢いだ。
もう一歩、足を踏み出せば――バランスを、崩せば。
そのまま、真っ逆さま。
「……後悔、しない?」
懺悔を含んだような、消え入りそうな香澄の言葉は、『宮代亮太』に向けられたものだったのだろうか。
けれどもう、そんなことは関係なくて。
つないだ手を、ゆっくりと自身の方へと導く。頼りなく華奢な彼女の手を、そのままそっと両手で包み込んだ。
「君の、思うままに」
それは亮太自身の独りよがりな感情だったのか。はたまた、瓜二つだという『彼』が持つ感情とリンクしているのか。
それでも、亮太の中には確かに存在していた。
この哀しい漆黒の女性と、このまま添い遂げようという決心が。
――ザッ、ザッ、ザッ、
目の前は、一向に収まる気配を見せない吹雪で霞んでくる。真っ白なフィルターの向こうに、眉を下げた彼女の嬉しそうな笑みがあった。
包み込んでいた手を離し、もう一度彼女と手をつなぐ。
「こんなところに、崖なんてあったんだね」
何となく、この場の緊張をほぐすように声を掛けてみる。
「終わりの場としては、少しベターだったかしら」
返ってきた言葉は、意外と軽快だった。そのことに少し、安堵する。
「……そうかもね」
「五年前のあの日、彼はわたしを連れて、ここへ来ようとしていたんじゃないかって……思ったの。事故現場は、ちょうど通り道だった」
ここへ来て、『彼』がどうしたかったのかは、終ぞ知らないままだった。
「だから、ここへ来れば……彼の気持ちが、分かるかもしれないと思って」
「分かった?」
「そうね、だいたいは」
ふふ、と香澄は笑う。先ほどまでの弱気な言動は、消えていた。
――ザッ、ザッ、ザッ、
「思っていたよりとても、すっきりした気持ちだわ」
この場に似つかわしくないほど、朗らかな声。
「行きましょう」
「あぁ」
もう、迷いなんてなかった。二人の気持ちは、一つであった。
一歩。また、一歩。
足場の悪い中、二人、足並みをそろえて踏み出していく。
そして――……。
ぐらり、
とうとう崖の頂点へと立った亮太の、そして香澄の、重心が傾いた。
――ザッ、
まさに、その瞬間だった。
「見つけたっ!!」
――ぐいっ、
崖下へと傾いていたはずの亮太の身体が、不意に後ろへと強く引き寄せられた。香澄とつながった手が、ぐんっ、と引っ張られる。
「――っ!!」
亮太の腰元に見えたのは、粉雪とどす黒い血の塊があちこちに絡んだ、ぼさぼさの汚らしい髪。垢まみれで汚らしく、死にかけの老婆のような細い両腕が、がっちりと力強く、亮太の腰に巻き付いている。
顔を上げた、病的に痩せこけた頬の瑠璃と、ばっちり目が合った。落ち窪んだ、瞳孔の開ききった瞳が、見下ろした亮太をぎょろりと不気味に見据えている。
「捕まえたわよ、佳月……逃がさないっ!!」
嗄れ声で叫ぶ瑠璃に気を取られていた、その隙に。
するり、固くつないでいたはずのしなやかで真っ白な手が、亮太の手を呆気なくすり抜けた。崖の向こう側、地面も何もなく、ただ雪だけが降りしきる真っ白な空中に、ふわりと黒いコートが広がる。
とっさに、亮太はそちらへ視線を戻した。
明るい髪を柔らかくなびかせ、縋るように腕を伸ばしながら亮太を見つめる漆黒の女。
絶望と、諦めに満ちた瞳で――けれど口元だけは、奇妙なほど朗らかに笑っていた。
「香――……」
その名を、最後に呼ぼうとして。
亮太が最後に、唇に声を乗せる間もなく――微笑んだ彼女はそのまま、荒れる海へと真っ逆さまに、音もなく落ちていった。
容赦ない吹雪の音と、崖に波しぶきが当たる音と、勝ち誇った瑠璃の狂った高笑いと。
一瞬で抜け殻と化した亮太の、途方もない喪失を残して。
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