あなたは、よく似ている
「……よかったの」
「何がだい、すず?」
穏やかな笑みを浮かべ、八神は自身の膝に乗った黒兎を、慈しむように優しく撫でる。
「あの二人を、引き合わせたこと」
どうなるか、あなただってある程度は予想できたでしょう?
されるがままの状態で淡々と、抑揚なく呟く黒兎に、八神はなおも落ち着いて笑った。
「いいんだ」
窓際に置いた花瓶に、ひっそりと咲いた黒百合の花。その腐臭が――彼女が纏った香りが、ふわりと鼻についた。
「なぁに、そんなに心配しなくても。悪いようにはならないよ」
表情を変えない黒兎の、微かな心情をそれでも悟ったのだろうか。八神は彼女を慰めるようにそっと、その額へ口づけを落とした。
「復讐は終わったんだ。あとは、あの子が他でもない『自分自身』のために、どう動くのか……ただ、それだけのことなんだから」
◆◆◆
「物心ついた時からね、わたしの傍にずっといてくれた人がいた」
幼い頃から親がおらず、施設で育てられたという香澄は、十ほども年上だったその人を『おいちゃん』と呼んで慕っていたのだと語った。
「その人が十八を迎えて、施設を卒業することになった時も、わたしを連れて行ってくれて……銀行員として働きながら、幼いわたしを一人で、高校まで育ててくれた」
けれど……彼は五年前、事故で死んでしまったの。
五年前に起こった交通事故のことは、亮太も何となく聞いていた。とはいえ当時のことはさほど覚えておらず、せいぜい仕事で付き合いがあった仁科の『前科』が、それに関係しているらしいことを知っているくらいだが。
彼女がかつてその事故の被害者であり、大切な人を――育ててくれた親代わりの人を失くしたことなど、知る由もないことだった。
そこで、ふと気づく。季節だけのせいではない、ぞくりと寒気がした。
――まさか彼女が、副島に近づいた理由って。
こつり、ヒールの音が冷たく響いた。反射的に身体が固まる。
真っ黒なブーツに包まれた足が、徐々にしゃがみこんでいる亮太の前へと近づいてくる。亮太の身体は、無意識に小さく震えだした。
「……あなたを最初に見かけた時、おいちゃんが戻ってきたのかと思った」
淡々と、けれど確かな熱を持って、香澄の言葉は続く。
うつむいていた顔を上げさせ、つぅ、と亮太の頬を撫でる陶器のような指は、寒さのせいか少し赤みを帯びていた。
至近距離で揺れる、哀しげな瞳。
「似ているの。本当に……生前の彼に、そっくりで」
懐かしむような、物欲しげな色を見ながら、ふと緊張の解けた亮太は、彼女と初めて会った日のことを思い出していた。
初めて、こうやって目を合わせた瞬間。
これまで艶めかしく響いていた彼女の声が、雰囲気が、表情が、一気にくしゃりと歪んだ。頼りなさげな、幼い迷子のように。今にも泣きだしそうで、見ているこっちまで胸が潰されそうになるほど……。
震える真っ赤な唇が開いて、何かを告げようとした。
『お……』
彼女はあの時、『おいちゃん』と呼びかけようとしたのかもしれない。
彼女いわく瓜二つだという、亮太の顔を間近で見て、『彼』を思い出さずにいられなかったのだろう。
自分と『彼』がどれほど似ているのか、亮太は知らない。五年前に亡くなったというその人に会ったことは一度もないし、何せ当時の亮太は新聞記事やニュース番組を見ていなかったのだ。事故のことは人伝で聞いたくらいで、さほど気に留めることもなかった。
「……ねぇ、分かるでしょう」
最初で最後の相合傘をした、あの雨の日に見せた表情と重なる彼女の、イメージとは似つかないほど悲しい顔。
縋るような声音に、亮太は答えることなく耳を傾けた。
「大事な人を失った、あなたになら」
姉が死んだ日の絶望と、真相を知った日の憎悪。
それはきっと彼女がかつて抱いたであろう、ないまぜの感情と同じで。
だからこそ二人は共鳴し、惹かれあうように肌を重ねた。
たとえ彼女があの日、傷ついた亮太に、別の人間の面影を見ていたとしても――……。
「今だから、言えることだけれど」
彼を誘った、色香の漂うねっとりとした声音とは違う、もしかしたら初めて聞くかもしれないほど弱々しい震え声。
小さく息を吐いた彼女の唇から、白い息が漏れた。
「わたしは、復讐のためにこの街へ来た」
かつてわたしの大事な人を、奪った人間たちに。
「……あなたが瑠璃さんに対してしたことと、まったく同じこと……いいえ、もっと酷いことだったかもしれない。それを、わたしは……」
わたしは、
――部下であった仁科の運転を阻害し、結果的に『彼』の命を奪う直接的な要因を作った、副島卓也に。
――恋人でありながら平然と『彼』を裏切り、誰より幸せな家庭を望んでいた『彼』を絶望の淵へと叩きつけた、吉村紗織に。
――わざわざ『彼』に希望を与えておきながら、これまでのことは全て嘘だったとでも言うように『彼』の大切な人を奪い去った、佐川浩介に。
「だって、当然の報いだった。ねぇ、そうでしょう?」
「……分かるよ」
気持ちは確かに、よく分かる。
大切な姉の命を、未来を奪った、瑠璃のことをどうしても許せなくて。葛藤を繰り返した亮太の背中を押したのは、かつて同じ苦しみを味わったであろうこの女性だった。
彼女が、どういうつもりで亮太の背を押したのかは分からない。
それでも。だからこそ、今度は……と強く思うのだ。
くしゃりと顔を歪めた、彼女の瞳から、一筋の涙が伝った。毛布の中から温まった手を出し、そっと拭ってやる。その白い頬は、人間のものとは思えないほどひやりと冷たい。
そのままゆっくりと、彼女は目を閉じた。口紅の剥がれたその唇に、そっと自身のかさついた唇を重ねる。香澄は、さも当然のように亮太からの施しを受け入れた。
込み上げる愛おしさは、いったい誰のものであっただろう。
情欲の欠片もない、至極あっさりとした口づけを交わした後。唇を離した香澄は、何かを決意したような強い瞳で亮太を見据えた。
「……行きましょう」
どこに、とは聞かない。これから彼女がどうしようとしているのか、知っているのかいないのか。そんなこと、どちらでも構わない気がした。
頬に添えていた手を取られ、ゆっくりと立ち上がる。長いこと身を縮めていたせいか、無意識にかじかんでいたらしい身体を無理矢理動かした。
黒百合に促され、小屋から出る。
すっかり明るくなった外は、雪がちらついていた。
◆◆◆
「瑠璃、ご飯よ」
少しやつれた様子の中年女性が、おっとりと病室のドアをノックする。あまり患者を刺激しないように、そっと振る舞うのがコツだと教わった。
思うところはあれど、娘の前で『それ』を口にするのは御法度だ。どうなるか、分かったものではない。
ゆっくり、少しずつ。
あんな男のことなど、忘れてくれれば。
「……瑠璃?」
中から返事がないことを、不審に思う。「入るわよ」と小さく断りを入れ、彼女はドアを開いた。
足を進めればほどなく、見える真っ白なベッドに、娘は横たわっている……はずだった。
「瑠璃? ……トイレにでもいるのかしら」
娘が抱えているのは、基本的に精神疾患だけなので、ベッドから全く動けないということはない……のだが。
「――……っ!!」
目の前に広がった光景を見て、彼女は言葉を失った。
もぬけの殻になったベッド。窓に何度も何かを投げつけたような跡。砕け散ったガラスの中に、時折赤黒いものがこびりついている。
ナースコールを押す前に、中年女性は――範子は、病棟全体に轟くほどのヒステリックな悲鳴を上げた。
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