扉を叩く
雪がちらつく街中を歩きながら、自分の手を何気なく見る。
あの時触れた体温は、真っ白で、冷たくて、どこか恐ろしくて。
だけど……確かに柔らかく、あたたかかった。
切なげに誰かの名を呼ぶ、女の声。
強い悪意の香りは――彼女を常に纏っていた腐臭は、吐き気を催すほどに甘美で、けれどどこか物悲しくて。
疼く胸の内を誤魔化すように、腰を動かしたことを鮮明に覚えている。
物思いに耽っていたせいで、亮太は自分に近づく気配に全く気付いていなかった。キッ、と甲高い音が耳に届き、ようやく顔を上げる。
気づけばすぐ傍に一台の車が止まっていて、運転席の窓が開いた。
「あぁ、やっぱり宮代さんでしたか」
お久しぶりですね、と笑ったのは、最近ほとんど顔を見ていなかった、弁護士の八神だった。
◆◆◆
八神の案内で足を踏み入れた事務所からは、ふわりと甘いお菓子の匂いがした。空調を効かせているのだろうか、身体に纏わりつく柔らかな温度が心地いい。
「お茶を淹れてくれるかい、すず」
八神の言葉に反応し、奥の部屋からぴょこり、と現れた。
「あの子が……」
上着を脱ぎながら、亮太は思わず呟く。
以前八神が言っていた黒の子兎というのは、この子の――この、
もう、多少のことで心を動かすことはほとんどなくなってきたように思う。
「可愛いでしょう?」
自分の上着と亮太の上着をそれぞれハンガーに掛けながら、嬉しそうに八神は笑う。いつもの柔和な表情に、親馬鹿独特のとろけるような愛情が宿っていて、むしろ見ていて微笑ましかった。
「そうですね」
普通の反応が返ってきたことに、八神は少し驚いたような顔をした。しかしすぐにへにゃりと笑って、「宮代さんも大変でしたね」と気遣うような声を掛けられる。
彼には仕事以外の話をほとんどしたことがないはずなのに、既に全てを――これまで彼の身に起きた様々なことを、何もかも余すことなく見透かされているようで、少し怖かった。
やがて、『すず』が二人分のカップを持って現れた。事務所のソファに向かい合わせに座った八神と亮太の前に、それぞれ湯気が立ち込める温かいカップを置く。
「ありがとう」
笑みを湛えて声を掛ければ、『すず』はやはり表情を変えなかったが、反応するようにこくりと小さくうなずいてくれた。
訓練されているのだろうか、すぐに引っ込もうとする彼女に、八神がすれ違いざま何やら耳打ちをした。
こくり、と一つうなずき、おとなしく奥へと消える。
歳の頃は、十三か四くらいだろうか。その割に恐ろしいほどの無表情で落ち着き払った様子の彼女に、首を傾げていると、八神が気付いたのか少し笑った。
「
でも、あぁいうところが可愛いんですよ。
目を細める八神に、亮太も内心で『そういうものなのか』と何となくうなずいていた。
「今更ですが、珈琲でよかったでしょうか」
「えぇ、お気遣いありがとうございます」
暖かい部屋に、湯気の立つ珈琲、焼きたてのお茶菓子。外は身を切るような寒さだったから、これだけのもてなしでも十分にありがたい。
付属の食器に盛られた角砂糖を少しもらい、スプーンで掻き混ぜた。ミルクは入れる気になれなくて、そのまま口に運ぶ。
いつも飲むものより少しだけ甘いそれは、亮太の心を優しくほぐした。
「最近、お仕事の方はいかがですか」
「いつも通りですね……でも、もうすぐ確定申告の時期なんで、これからが忙しくなりそうです」
八神が振ってくれる話題に、いつもよりリラックスしたトーンで答える。勧められるがままに、クッキーを口にした。
さくりと音を立てて、口の中でほどよく甘さが解ける。
「美味しいですね、これ」
思わず口にすれば、
「すずは、器用なもので」
また、自慢げに微笑まれた。
暖かな部屋。八神の柔らかな低い声。甘い、甘いクッキー。
あまりの心地よさに、うとうとと眠気がやってくる。
最近眠れていなかったからだろうか。よその――それも本来仕事用であるはずの事務所の中なのに、何だか抗えなくなってきた。
外では、真っ白な淡い雪がちらついている。
窓際に置かれた、丸いアロマポットのような入れ物の中に、枯れかけのシロツメクサが置いてある。
「あれは――……」
疑問に思う前に、ろれつが回らなくなっているのを、自覚して。
ぷつっと、亮太の意識は途切れた。
ソファにどさりと横たわり、寝息を立て始めた亮太を、八神は珈琲を手にのんびりと眺める。
「やはり、よく似ているなぁ」
小さな、呟きを零して。
「――さて」
本格的に寝入ってしまったらしい亮太を確認した後、八神は二度ばかり手を打ち鳴らした。それを合図に、ひょこりと黒兎が現れる。
「準備はできたようだ」
行こうか、
ソファに悠々と座る、八神の傍に近寄ってきた黒兎。こくりとうなずいたその頭を、八神の大きな手がそっと撫でた。
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