それぞれの年末

 するすると、はだけていく黒いワンピース。中からあらわになるのは、白く美しい――立派に性欲を持つ普通の男でさえ、一瞬息を呑むほどに完成された、なよやかな肉体美。肌は見るからに白く滑らかで、そのほっそりとした手足も、長い首も、少しでも触れれば崩れてしまいそうに儚い。

 半開きの真っ赤な唇は対照に健康的で、誘うように笑みを浮かべる。禁断の果実といえば、熟れた林檎を連想する者が多いだろうが、彼女の唇もそのように、きっと口づければ甘く芳しいのだろう。

 しかし、そのような男にとってひどく魅力的に映る餌を目の当たりにしてもなお、忍海の表情は無感動そのものだった。ソファに座って足を組んだまま、身じろぎもしない。

「あのさ」

「なぁに」

 思ったような反応がなく、不満そうに女は問う。子供のように尖る真っ赤な唇もまた、違った装いが見出されて色っぽい。

「何回も言ってることだけど、あんた何か勘違いしてるよ」

 溜息を一つ零し、忍海は女に背中を向けた。

「俺さ、あんたを抱く気はないから」

 それまでは情報も権力も、その綺麗な身体で全部掠め取って来たのかもしれないけど……。

「俺にまで、色仕掛けが通用すると思ったら大間違いだよ。香澄さん」

 俺みたいに、欲しい情報は話術で仕入れなきゃ。

 ニヤリ、忍海が勝ち誇ったように笑うと、女は――香澄は、途端に面白くなさそうに肩を落とした。大きく溜息を吐き、黒い薄手のランジェリーを纏ったまま、ダブルベッドに乱暴に腰を下ろす。スプリングが軋み、ギィ、と軽い音を立てた。

「女だもの、わたしは所詮」

 こうするしか、方法を知らない。相手を無理に組み敷き脅すほどの力もなければ、忍海のように喋りが達者なわけでもないのだ。

「……じゃあ、どうしたらあなたは協力してくれるのかしら」

「まず目的が知りたいね」

 忍海にとっては、記事になれば何だっていい。

 今回だって、富広周辺で頻発する数々の事件・事故の裏を調べていたら、全てに謎の黒いワンピースの女が関わっていたことが分かったから。何かしら闇を抱えていそうな彼女の身辺を洗ってみれば、面白い記事が書けそうだと思った。ただ、それだけだ。

 香澄の過去を知りたいと思うのは、ゴシップ記者としての抗えぬ血の騒ぎ。そして、忍海個人の好奇心だ。

 だから、香澄がわざわざ接近してくるなんて思わなかった。それも、どうやら忍海を通して、彼にとってひどく身近な存在へと関わろうとしている。

 一見何の関係もなさそうな、税理士補助のあの男に。

「っていうかさ。俺は新藤香澄のルーツを調べるってんで、今回年末も返上してわざわざ離島までホテル取って来たわけだけど……何でここで本人が着いてくるわけ」

 本末転倒じゃん、と忍海がぼやくと、香澄はいつものように朗らかに笑って、「いいじゃないの」とあっけらかんと答えた。

「お互い様だわ」

「なーにが」

「だってあなたは、わたしに一度も触れてくれない」

 何度もこうやって、同じ空間で二人きりになる機会はあった。それでも一度も、忍海は彼女に手を出していない。

 この間一緒に飲んだ幼馴染は、どうやら誤解していたようだが……。

「これ以上、事態がややこしくなるのは御免だからな」

「何のことかしら」

「さぁ」

 小さく笑い、テーブルに置いてある日本酒が入ったグラスを手に取る。放っておくとアルコールはやはり飛ぶのだろうか、何だか味が落ちた気がした。

 手帳を開き、これまでの収穫を改めて眺める。

「……やっぱり、分からないな」

「何が?」

 本人に直接突っ込まれるのもどうだろうと思いつつ、こういう時に共有できる話し相手がいるというのもなかなか悪くはないもので。

「あんたと、宮代の繋がりがさっぱり」

 まず富広周辺を洗い、さらに幼少期と残りの高校時代を過ごしたという離島に渡って足取りを調べたことで、これまでの彼女の生い立ちは何となくわかった。しかし、一番知りたかったその・・要素が一切見つからず、忍海は頭を抱える。

「……あんたが、宮代に関わる理由って何なの」

 わざわざ実家を訪ね、もう十年以上も前に自殺した姉について家族からあれこれ聞きだし、けしかけようとしている。

「あの藪からは、もうどれだけつついたって蛇一匹も出ないと思うけど」

「どうかしら」

「何かしら、家族にさえ言い出せないほどの悩み事があって、それを苦に自殺した。それでいいんじゃないか」

 それはもう過去のこと。終わってしまったことに、今更とやかく言えることでもあるまい。

 どこか諦めのムードが漂う忍海へ、香澄は悪戯っぽく瞳を細めた。

「あなたは本当に、そう思っているの?」

「……どういう意味だよ」

 訝しげな視線をあしらうように、真っ赤な唇はにぃ、と愉快そうに、不気味な笑みを作る。

「本当に悔しかったのは……許せなかったのは、あなた・・・なんじゃなくて?」

「……」

「自分で手を下さないなんて、フェアじゃないわね」

 明らかに馬鹿にした言葉に、チッ、と忍海は小さく舌打ちをした。


    ◆◆◆


 税理士事務所の繁忙期は、基本的に確定申告のある三月頃なので、年末にやることといったら一部企業の年末調整くらいのものだ。年末年始の休暇だって、意外とたっぷり取ることができる。

 そんなわけで無事に仕事納めが済んだ亮太は、保阪が毎年主催する職員全員参加の忘年会を終えると、すぐに実家へ向かった。佳月の十三回忌で一回帰ったので、あまり久しぶりだという感じがしないが、それでも長く滞在できるのは嬉しい。

 亮太が帰省する間は、瑠璃の見舞いに行くことができない。しかし薬の成分が抜けてきたのか、入院当時よりもだんだん落ち着いてきているようなので、少しくらい会わなくても大丈夫そうだ。瑠璃の存在が最近少しずつ負担になってきていた亮太にとっては、それもありがたかった。

 若槻駅から電車で実家がある街の最寄り駅まで行き、そこから実家までは兄が迎えに来てくれる。直通でいけば二時間もかからず着く距離だが、途中で南若槻線から猪野尾いのお線の電車に乗り換えなければならないので、少しその辺が面倒だ。

 この辺に雪はまだ降らないが、軽く霜が降りていて肌寒い。

 若槻駅のホームで電車を待っていると、改札口の方から何やら女性の喚き声が聞こえてくる。

「お客様、おやめください」

 駅員の困った声。どこの世界にも、あぁいったモンスター手前の客がいるものだと、普段事なかれ主義である亮太は何も感じない。

 ただし、その危害がこちらへ向かってきそうであれば、それはまた別の話であり……。

 駅員の制止を振り切って現れたのは、山姥さながらに傷んだ髪を乱した女性の姿。奇声を発する口から覗く歯はすっかり黄ばんで、抜けてしまったのかところどころ隙間がある。

 ところであの制服、どこかで見たような……?

 亮太が思う間もなく、彼女はホームで立ちすくむ亮太の方へ一目散に突進してきた。条件反射で亮太がぶつからないように避けると、その向こうは当然線路。助けようとする間もなく、女性はそのまま落ちていってしまう。

 すれ違った瞬間に、すっきりとした甘い香り。頭のネジが数本飛んだかのように笑う、恋人のオレンジ色の唇を思い出し、ハッとした。

 ――あの制服って、確か!

 気づいた時には遅く、カンカンカンと警報機の音。亮太が乗ろうとしていた電車が向かってくる。

 ホームから落ちた女性に手を伸ばそうとした亮太は、「危ない!」と後ろにいた誰かに身体を引っ張られ――……白線からだいぶ離れたホームに座り込んだまま、無残に引き千切られ踏み潰され、散らばる肉片を――かつて女性の身体『だったもの』を、呆然と見送った。

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