押し殺す気持ち

「忍海が?」

 無事に佳月の十三回忌を終え、これまで通りアパートへ帰り仕事の毎日へと戻った亮太に、母親からそんな連絡が来た。

『そうよ、わざわざ手土産まで持って。ここのところずっと忙しくて、お線香上げに来られなかったからって……佳月の命日、覚えててくれたのね』

 母親はどこか嬉しそうだ。

 忍海と亮太は腐れ縁であり、幼い頃からよく互いを知っているし、当然互いの家族とも仲がいい。特に亮太の母親はことさら忍海のことを『玲ちゃん』と呼んで可愛がっており、忍海自身もそれを知っているからこそ、二人が家を出たあとも暇を見ては宮代家に遊びに来ていた。

 しかし、亮太がいないときに忍海が尋ねてくるというのは珍しい。

「一人で来たのか?」

『いいえ、女性と一緒だったわ。黒いワンピースの、綺麗な方』

 どきり、とする。あまりに覚えがある、そのフレーズ。

 どうして、忍海と一緒に……?

 混乱する亮太の心情などつゆ知らず、母親は年甲斐もなく、まるで色恋沙汰が大好きな少女のようにきゃっきゃと話を続ける。

『恋人だとかって明言はしなかったけど、二人とも仲睦まじくてね』

 初々しいカップルねぇ、うらやましかったわぁ、まるで昔のお父さんと私みたい……などと、夢見るような口調で語る母親。

 忍海と香澄に面識はあっただろうか、だとしたらいつの間に……と自身の記憶を辿りつつ、亮太は母親の惚気を、話半分で聞き流していた。


    ◆◆◆


 仕事中、イラついたようにパソコンに向かう瑠璃のデスクには、常に湯気の立ったカップが置いてある。

 中には澄んだ翡翠色のハーブティー。それは以前、先輩職員が瑠璃に薦めたものだった。

 最初は怪しんでいた瑠璃だが、徐々にそのさっぱりした後味とすっきりする気分にハマったのか、件の先輩職員から入手先を聞きだしては頻繁に自ら買いに出向くようになっていた。

 最初は空き時間にだけ飲んでいたのが、気付けば常に彼女の傍らにあるそれ。中身がなくなったことがわかると、仕事中であってもすぐに自身で淹れに行くか、後輩職員に急かして淹れに行かせるほどの徹底ぶり。

 銀行員たるもの、もちろん受付として顧客に対応することもある。その態度も、以前はどんな状況であれにこやかで明るかったのに、最近はどこか棘がある。しかも、客前でさえもハーブティーを離さないのだ。

 もちろん、あの職員は態度が悪いと、顧客から苦情が来る。異常とも取れる状態に、さすがに周りは訝しがり始めていた。

「ちょっと瑠璃、最近どうしたの?」

「何が」

 パソコンの画面を力強く睨んだまま、瑠璃が答える。伸びた右手を制するように、同僚はティーカップを取り上げた。

「ちょっと、何するのよ!」

 返しなさいよ、と瑠璃が同僚を睨む。明らかに、おかしい。

「これ、確か先輩に薦められた例のハーブティーでしょ……やめときなって、もう。ホントにあんた、おかしいよ」

「うるさいわね、あんたには関係ないことじゃない」

「関係あるでしょ!?」

 瑠璃の剣幕に反論すべく、同僚の声も自然と大きくなる。今はちょうど三時を回る寸前で、そろそろ銀行を閉めなければいけない時間のため、客の姿はない。それだけが救いと言えば救いだった。行員同士が言い合う姿など、顧客に見られてはたまったものじゃない。

 しかし当然、周りにいた他の行員たちは、何事だと言いながら周りに駆け寄ってきた。騒ぎが漏れたら困るので、行員の一人が慌ててシャッターを閉めてしまう。

 その中心では、二人の女がすごい剣幕で睨み合っていた。

「あんた、客から苦情来てるの知ってるでしょ? 視線は怖いし説明も支離滅裂、挙句の果てに客の前で堂々とお茶飲んで、カップが空になったらたとえ客と話し中でも否応なしに席を立つ……だいたい自分の都合で客を待たせるってどういうことよ! もう何年もやってるんだから、何がいけないかくらい分かるでしょ!? 社会人として失格よ、あんた!!」

「仕方ないじゃない、これがないと仕事ができないの!!」

「何が仕方ない、よ。こんなものに頼って仕事するくらいなら、あんたなんか辞めちゃえばいいわよ、今すぐに! これ以上うちの評判下げて、あたしたちに迷惑かけるのやめてよね!!」

「誰が迷惑かけたって!?」

「わざわざ言わなきゃわからないの、このボンクラ!!」

 だんだん女同士の言い合いはヒートアップしていく。まだ中身の残ったカップを取り上げたままの同僚に、瑠璃は掴みかかった。

 埒が明かないと思った同僚は、そのままカップを床に叩きつける。パンッ、とカップの割れる鋭い音とともに、破片と液体が飛び散った。

「あん、た……」

 信じられないといった目つきで、瑠璃が同僚を睨みつける。すっかり興奮状態の同僚は、とどめにぐしゃり、とパンプスで破片ごと液体を踏みつけた。

「なんてこと」

 呆然と立ち尽くす瑠璃。勝利の愉悦に酔った同僚は、ふん、と小さく鼻を鳴らした。

「あんたって子は……」

 瑠璃の顔色が、徐々に真っ青になっていく。それでも、同僚はその動きを止めようとしない。

「っ……ねぇ、どこまで抵抗すれば気が済むというの!?」

 瑠璃は錯乱し、意味の分からないことを叫び始めた。

「どうやったってあなたは逃げられないのよ、もう二度と……それなのに、ねぇ……どうしてなの、佳月・・!!」

 しんと静まり返る行内。コツ、コツ、とパンプスを鳴らし、酷く落ち着いた様子の同僚は、瑠璃の荷物が置いてある傍まで歩みを進めた。

 ぞくり、と瑠璃の背筋が凍る。

 黒光りするシンプルなパンプスが、夢に出てくる女のハイヒールと重なり、じわじわと瑠璃の脳内を侵食していく。

 ぺたり、と瑠璃はその場に座り込んだ。散らばった破片が、制服のミニスカートからはみ出た素足に鈍く食い込む。そんな痛みさえ、もはやどうでもよくなっていた。

「い、や」

 その間に、同僚は瑠璃の鞄を探り出した。間もなく、銀紙に包まれた大量の茶葉が出てくる。その全てを床にぶちまけ、彼女はためらいもなく踏みつぶした。

 刹那、空気を切り裂く瑠璃の叫びが行内にこだまする。やがてばったりとその場に倒れ伏し、瑠璃は気を失った。


    ◆◆◆


「佳月さんは、亡くなる前に何か残されていなかった?」

「何か、とは」

「身体の損傷がひどかったのですよね? でしたら、例えばいじめられていたとか、いくら些細で断片的なものでも、少しでも何か、ヒントになるようなものとか……残っているかもしれませんわ」

「……あの。あの子の、日記。上の息子が、見つけたみたいで」

「中身を、お読みにはなられて?」

「……」

「もしかしてもう、分かっているのではないかしら?」

「……ずいぶん、前のことですもの」

「それでも」

「え?」

「悔しくはないのですか? 大事な人を奪われて、十年以上もあなた方は苦しんできた。それなのに相手は、同じ時を、のうのうと生きている……」

「……」

「しかもその毒牙に、あなたの大事な息子さんが掛かろうとしているんですよ。今、まさに」

「っ!?」

「同じだけの苦しみを、痛みを、味わわせてやりたいと。そう思うのが、人間ですわ……それこそが、偽らざる、本心なのです」

「そ、れは……」

「ねぇ、悪いことは言いませんわ。今からでも遅くない。娘さんの……佳月さんの、仇を討ちましょう」

「そんな、私……は」

「偽らないで、ねぇ? 憎いなら憎いと言えばいい。誰も咎めはしないのだから」

「……」

「宮代さん。わたしと一緒に、あの女・・・を壊してやりましょう」

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