第35話 痛ましい決断
「どうした、エヴァリード」
真っ青な顔に、彼は戦慄した。
「おまえたちは、一心同体だったな、エヴァリード」
余裕に満ちた、あざけり。
「天空の王子。おまえの結界は、なかなかだ。父王も、それを補強する力に優れていたが、そろそろ飽きてきたのでな。
だが、おまえには、わたしの知識にもない力があるようだ。神人に、死を祓う力など、あるとは思っていなかったな」
ボリスは無言でエヴァリードを抱きしめた。しかし、彼女の硬直は解けない。
そして、彼は見た。
邪王の肩越しに、紅い光の紐に吊り下げられた黒猫。
「マーロウ……!」
心臓が弾けそうなほどの、無邪気で残虐な微笑み。
「心配はいらない。エヴァリードは死なない、私が生きているかぎり。なにをしても。なにがあっても。死なせたりはしないのだ」
その手の剣がマーロウを刺し貫く。エヴァリードの胸から血が噴き出した。
「……っ」
「エヴァリード!!」
残虐を楽しみ、歓びに浸る邪王は、さきほどと同じ光を指に宿らせた。
苦しみに耐えるエヴァリードの表情に、父である彼は薄く笑った。
「美しいものが歪むのは、なんと心地よいものか。その苦痛の美を、苦悶の美を欲することは自然な望み」
真珠色の光をエヴァリードの胸にあてながら、ボリスは初めての試みをすることにした。離れた場所にいるマーロウに癒しの光を飛ばすのだ。触れずに、同時に傷をふさぐ。邪王は、マーロウだけに魔法をかけてエヴァリードのほうも治した。きっと、強く望めばボリスにも出来る。彼は信じたのだ。
ボリスの掌で、真珠色の光は球体となる。
「おまえの力などいらぬわ」
その努力を、邪王は嘲笑った。
指先の小さな赤黒い光を、マーロウに飛ばす。ふたたび、エヴァリードの傷もふさがった。しかし彼女の息は乱れたままだ。痛みは去っていないのだろう。
ボリスは彼女の胸に真珠色の光をあて、掌に育った光球をマーロウに向けてはなつ。それは、ただ傷をふさいで血を止め、命をとどめることだけではなく、完全な治癒を願う力。邪王とは、まったく違う力だ。
「……ふん」
邪王が指を振る。
マーロウの身体が飛ばされ、床に滑って、止まった。
「マーロウ!」
哄笑が聖堂に轟く。
「エヴァロン王……!」
『雷光剣』を引き寄せ、白く輝く切っ先を邪王に向けた、その瞬間。
虹水晶を埋めこんだ、三日月型の刃が空を裂いて、ボリスの肩をかすめた。
「な……!?」
振り向くと、ソーニャが立ち竦んでいる。その瞳は虚ろで、顔色は灰色だ。どう見ても、平素の理知的で鋭敏な女隊長の様子ではない。
色を失った唇から、かすかな息がもれた。
「でんか……どう……か、逃げ……て……さい……」
「戦姫は精神も鍛えていると見える。簡単には操れないのだな」
面白がっている。
ボリスは身体中の血が凍りつくような悪寒に包まれた。
ソーニャの両腕が風を切り、愛器を投げる。それは、身をかがめて避けたボリスの銀髪を数本、寸断すると、持ち主の手に戻った。
刃に取りつけた虹水晶が、ソーニャの念に感応しているためだ。
「ソーニャ! 目を覚ませ!」
エヴァリードを腕に抱いたまま、ボリスは飛翔する。聖堂の天窓まで舞い上がり、窓枠の上に降り立った。
その後を追おうとしたソーニャに、一瞬で、鎖が襲いかかった。
「ペトロフ!」
唇を、切れそうなほどに噛み締め、将軍が、鉞の鎖を愛娘に絡ませて、強く引き絞っている。鎖が身体に食いこみ、ソーニャがぐったりとした。しかし、彼は力を緩めなかった。
「殿下、どうか娘は私にお任せください!」
「ペトロフ……」
「つまらない劇のようだな、飛翔人。父が娘を殺すより、娘が父を殺すほうが私は好ましく思うのだが」
「エヴァリードが、あなたを殺すように、か」
鋭くボリスは言葉を返したが、邪王は表情を変えなかった。退屈気に、しかし攻撃には熱意をこめる。
「そうだな。それを打ち砕いてやるのが楽しみだ」
「あなたを救うのは僕だ」
断固たる瞳と語調。
それにも、邪王は特別な反応を返さなかった。
「死が救いか。それならば、おまえを先に、救ってやるぞ」
無造作な声色。それは、もう、面白がってはいないことを告げている。退屈しきった、子供のような。
ボリスは充分に警戒していた。しかし、まだ、エヴァロンの実力を知らなかった。
「天空の王子。エヴァリードに傷をつけたくないのなら、一人で降りてくるのだな」
両腕を水平にあげ、手のひらを上に向ける。赤黒い光の球が渦を巻いた。
静かで感情を排した警告に、ボリスは圧倒される。その圧力を無感動に受けながすには、かなりの精神力を要した。
「……おまえの望むとおり、正々堂々と、公正な決闘といこうではないか」
無言で『雷光剣』を振り、気合いをこめる。細く強い雷電が刃に絡み、びりびりと震え、暴れ出すのを待っている。
心の痛みを懸命にこらえているエヴァリードの手が、自分から離れようとするボリスの腕をつかんだ。
「エヴァリード?」
(挑発にのってはいけません)
一瞬の瞳が語った。
エヴァリードは、金髪を振って父王に目をおとす。彼は傲岸不遜に背を逸らして、娘の視線に対峙した。
同じ色の髪。瞳。
よく似た面差し。
父と子の、血の絆。
しかし、心ははるか遠い。
「邪魔する気か、エヴァリード?」
不敵な声。
聖堂に渦巻く風が、ばたばたと全員の服を煽り、髪を舞いあげる。しかし、それを操り、御している邪王は、まったくその影響を受けていない。髪も、服も、一筋も乱れていないのだ。超然とした、その姿は、既にこの城の主のような雰囲気をまとっている。
(お父さま。世界に生きる罪なきものたちには、あなたこそが害悪。魔王の手に堕ち、このような邪法でリベルラーシを席巻しようとなさるなど……私は……地上で死んでいるべきでした)
声ではない声が、その場にいる者の心に、直接、響いてくる。
切なく、しかし凛とした。
(私は魔王を倒すため、生かされた。あなたに天空城を落とさせるためではありません)
やさしい、春の空を思わせる碧の瞳。そこに、美しく厳しい光が満ちていた。
(お覚悟を)
不意に、その唇が大きく開かれた。
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