第30話 守りの歌
また、あるとき。
城下町の医院で、ある女性が非常に危険な状態に陥った。彼女は病気ではなく、出産のために入院していた。
リベルラーシでは分娩を自宅で行うのがならわしであるが、彼女はもともと身体が弱く、緊急時に医師が適切な処置を施せるようにと医院でそのときを待っていた。
しかし、ひどい難産のようで、もう二日ほど、苦しんでいるという。夫人の苦悶を見ていられず、かといってとても落ち着いてもいられず、夫は部屋のすみで不安と闘っていた。
彼女は城の、ある女官の親類だった。
それを聞いた城の女官たちから王子と王に直訴があり、エヴァリードが呼ばれたのである。
イワン王から話を聞くと、すぐさまエヴァリードは城下町へと赴いた。状況から、ボリス王子は同行せず、彼女の供にはターニャとサーシャの二人が選ばれた。それは、産褥に成人男性を立ち入らせるべきではないというエヴァリードの意見に、誰もが賛同したからだった。同じような理由で、マーロウも城に残ることとなった。サーシャだけでは及ばぬこともあろうとの、イワン王の言葉に、姉のターニャも付き添うことになったが、彼女が城外でエヴァリードにかしずくのを内心では嫌がっていることは明らかで、エリンなどはみずから供に名乗り出たのであったが、それはイワン王に却下されてしまった。王がこれを機に、ターニャの心にある人間への敵意をとりはらえればと願ったのだ。
医院では、医師も助手も疲れ果てた態でエヴァリードを待ちかねていた。
そして、瀕死にしか見えない産婦が苦しみに耐えていた。
エヴァリードがさっと身をかがめ、その手をとる。骨が折れんばかりに強い力がかかったが、彼女は眉ひとすじ動かさず、じっと、潤んだ瞳を見つめた。もうすぐ母になる、その双眸は、必死な懇願を語っていた。わが身を省みないほどに切迫した、祈り。一瞬で、エヴァリードは彼女のそれを読みとった。
彼女は心の中で、いちばん安らいだ旋律を選ぶ。そこに、祝福と祈念の詩をのせていく。
痛みと恐怖は去るように。
喜びと希望の命を護る母を讃え、その力を絶大とするよう。
そして母とともに戦う子には、揺るがぬ勇気と信じる心を。困難に打ち勝つ、強い意志と忍耐、それを支える愛を感じて。
エヴァリードは歌った。
二人で生を勝ちとり、死を打ち負かせよ。
生を勝ちとり、幸福を手にせよ。
あなたがたには、その力がある。
求めるものを手にせよ。
さあ、生まれ出るのです、新しき命よ。
あなたを光り輝く世界が待っている。
あなたを愛する人々が、あなたが生まれ来るのを待っている。
産室の外で緊張していた彼らは、やがて、誕生の声を耳にした。力強い産声に、全員が立ち上がった、そのとき。
医師の腕に抱かれて、赤ん坊が出てきた。
父親が駆け寄る。感動のあまり声も出せず、わが子を抱き取った。そして、産室へと飛び込んだ……。
エヴァリードは消耗した母親を休息の眠りに導いていたが、彼を見ると、小さく歌って彼女の目を覚まさせた。ほんの一言、二言だけを許すと、すぐにまた、眠らせる。彼女の体力が戻るまでは、目が覚めないようにと。
そうしなければ、彼女の弱った心臓を動かしつづけるのは難しかった。エヴァリードの歌が、その鼓動を止めないようにと命じてはいたが。
しかし、それほど弱っていた母体も、医師たちの手厚い看護と、エヴァリードの歌とで護られ、やがて安定した。心臓も、すっかりもとの力強さを取り戻したようで、もう魔力の助けは要らないようだった。
そんなふうに、すべての希望が尽きたかに見えるようなことが起きると、人々は最後にエヴァリードを頼るようになっていた。彼女は持てるすべての力を注ぎ、彼らの救いとなるように努めた。人々は、彼女の力を信じ、崇め、許したのだった。
もちろん、イワン王は、いつでも最初からエヴァリードの魔力を奨めるようなことはしない。困窮の極みにおいて初めて彼女に助力を命じる。それまでは、彼らが、自分たちの知恵と力で解決できないかを探るのだ。そうでなければ、人々が怠惰の罠に落ちてしまうと知っていたからだった。他人に任せて楽な道を選ぶことが、どれほど甘く、そして危険なことか。地にあっても空にあっても、苦難を知らない者は試練に弱い。自力をつかわぬものは滅びるのもたやすい。それは、人々よりも、エヴァリードのほうが近くにある危険だった。いつでも、すぐに魔力を用いるような状況を招いてはならないのだ。彼女が、魔力を頼みに生きるようになるとも思えなかったが、それを空の民が望むようになることは避けねばならなかった。
イワン王の危惧を、エヴァリード自身も、生国にいた頃から持っていた。だからこそ、彼女は歌を禁じられることのみならず、そのほかの要請にも逆らわなかった。ただ、歌うことは彼女にとって、数少ない心の支えでもある。それは魔力をつかうということではなく、音楽が慰めとなる力をもっていたからだ。
そこでボリスは、城の温室や庭で、彼女が植物を元気にするような歌を日常的に歌えるように提案した。それは彼女を喜ばせ、結果、城の庭に素晴らしく見事な花園を生み出させた。
午後の陽射しを浴びて、美しい歌声と馥郁たる花々の香りが、誇らしげに庭園に満ちる。城の人々も、それを楽しみにするようになっていた。
彼女は次第に人々に慕われ、王子妃にふさわしい敬意をもって対せられるようになっていった。
しかし、彼女にかけられた呪いの忌まわしい力は、魔力と切っても切り離せない。どんなに正しいことにつかうように細心の注意をはらっても、邪悪な力の影響をふりはらうことはできず、それは彼女を含めた人々の幸福を望まなかった。
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