第17話 対峙

 エルダは、迫ってくる気味の悪いピンクの舌が身体に巻きつこうとしているのを感じ、マーロウを抱く腕に力をこめた。

 ところが、それはなかなか起こらなかった。


「……!?」


 目を開けたエルダは息をのんだ。

 白銀に輝く稲妻があたりで円を描いている。それは四匹の蛙をのけぞらせ、泡を噴かせていた。


(どうして)


 下を見ると、大蛇が首を落とされている。

 黒い舌をのばし、完全に息絶えていた。


 そして、次の瞬間、エルダはクッションを敷いた船の中に落ちた。天蓋に衝撃を緩和され、ほとんど痛みを感じなかった。


 船のへりに、誰かが掴まっている。右手が船尾の虹水晶に添えてあるのが見えた。エルダが船の中で起きあがると、その人物はくるりと身を回転させ、宙返りをする要領で船の中に降り立った。


(ボリスさま!)


 優しげでありながら強い意志を満たした、紫の瞳。そこにエルダが映っている。


 彼女は呆然としたが、はっと気づいて、船から下を見た。

 大蛇も、蛙も、みんな死んでいる。


(そんな、なんてこと)


 エルダはすぐに、ボリスに目を戻した。絶望が胸をえぐり、涙が彼の顔を揺らめかせる。


(なんということをなさったの。これでもう父を倒すことができなくなったのですよ)


 ボリスには、エルダの思いが正確に伝わった。彼女は彼に、心を開いている。そのすべてを許しているわけではなくとも。

 彼は黙ってエルダを見つめた。


(私にできる、たったひとつのことだったのです。それを何故、だいなしになさったの。これから、また、あの大蛇と同じ存在を探しにいかなくてはならないのですよ。無意味に命を長らえさせるのが、どれほど残酷なことか、あなたは解らないとでも仰るの?)


 エルダの初めての非難を浴びながら、彼は揺るぎない姿勢を崩さなかった。青ざめた、動揺で震えている彼女に、まっすぐな眼ざしを向けつづける。


(私は、どうあっても死ななくてはならないのに)


 彼女は両手を握り、震えながらボリスを見上げた。その、大きな碧の瞳には、凛とした王子の姿が映っている。


「そのために、僕の心が死ぬとしても?」


 あまりに静かな響きの声は、エルダの心も震えるほどの悲しみで翳っていた。

 紫の瞳に悲愴な光が生まれ、魂を揺さぶるような懇願と、ひたむきな強い想いがエルダを射る。


 そっと、マントの下からマーロウが出てきた。彼女は船のへりに歩いていくと、そこで身を丸めた。


 次の瞬間、ボリスの両腕はエルダを抱いていた。そこでは、厳酷な禁止と激しい渇望が彼女を引き裂こうとしている。それを宥めるかのように、彼は細い肩を撫でた。


「エルダ」


 淡い金の髪が、輝く銀の髪の中に混じりあう。

 弱々しい腕が、ひしと彼を抱いている。


「殿下」


 木の葉のように身を震わせるエルダの傍らで、マーロウが静かに呼びかけた。


「我があるじの呪いを解いてください」


 黄金の瞳が、全幅の信頼をこめて、ボリスを見上げていた。



 ──── † † † ────



 ボリスの腕の中でエルダが落ちつきを取りもどすと、彼は彼女が身を起こして離れたりしないよう腕に少しだけ力をこめた。その意図を察して、彼女は幸せそうに身を委ねる。その姿は、マーロウが望んだそのままだった。


 ボリスの強い念が虹水晶に上昇を命じており、船はすでに雲の上にある。しかし、彼が持ってきた火球石のおかげで、船の中は春のように暖かい。寒い国で育ったエルダは、天空城を発つときに、それを受けとろうとしなかった。だが、普通の人間では、この高度の冷気には耐えられない。


 エルダの身体は、火球石の熱気とボリスの体温で、ようやく少し温まってきている。


 ボリスは安堵の息をつき、それから静かに控えている黒猫に視線をうつした。


「マーロウ。呪いを解けば、エルダは死ななくてもすむのか」


 その問いに、彼女は、ますます満足した。


「はい。というより、我があるじが滅ぶことで王も滅びるという方法が不可能となるのです。つまり、我があるじが命を投げ出す意味がなくなるのです」


 エルダが身じろぎをした。


(そうなっては、私では父を倒せません)


 それを聞いて、ボリスはさらに腕に力をこめた。


「それよりも、君は父君が倒されることに、耐えられるのか?」


 その問いに彼女は強張った。それから、わずかに身を引いて、ボリスの目を見上げる。


(魔物が父の肉体や精神と完全に混ざり合っている以上、ほかに救う方法はありません)


「……殺さなくては、救えないと?」


(はい)


 碧い瞳から、悲痛なまでの覚悟が見えた。


(父にとって、死は救いです。そうでなければ、父の罪は深まるばかり。それは父の魂を穢し、ついには肉体だけでなく、霊魂までも、永遠に魔王に囚われてしまうでしょう)


 マーロウの黒いひげが震えた。


「では、エルダ」


 ボリスの視線が、彼の父と同じ威厳をもってエルダに注がれる。


「君の父君の霊魂は、僕が救う」


(……)


 マーロウの首にある鈴が、音をたてた。


「魔物たちから、彼を解き放とう。だから、まずは、そのために君の呪いを解かなくては。方法を教えてくれ」


(その前に、ボリスさま)


 不意にエルダの肌が冷たくなった。それに気がついた彼は、彼女を抱き寄せ、マントですっぽりと覆った。火球石があるとはいえ、強い風が吹けば、それが暖まる前に二人の頬を撫でる。


 ボリスの胸に顔をうずめたエルダは、心の声を強める。


(陛下は……国民の方々は……私の再来を、お許しに……?)


 彼は小さく笑った。


「大丈夫。神託が下ったのだから。君を咎める者は、一人としていない」


(神託?)


 エルダは不安げな疑問を隠さなかったが、彼はそれ以上、説明しようとはしなかった。


「皆のことなら何も心配はいらない。さあ、教えてくれ。君の呪いは、どうすれば解ける?」


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